ポニテに留まるはサニーサイドアップ
自分を異物だと感じている人は、案外多いのかもしれない。
もちろんそれは思い込みに過ぎなくて、自分を異物にしているのは他ならぬ自分自身で、どうしようもない孤独や遣る瀬なさを抱えると同時に他と違うことをけして手離そうとはしない。
たぶんおそらく、これもまた思い込みに過ぎないのだろうが、こうした人びとこそが他人の自己異物感に敏感に反応する。
ワンアンドオンリーイズノットノンリー。
秘密を共有する、屋根裏部屋の幼馴染のような感覚で、彼らはそれを受け止める。
作中に登場する彼らは名前があっても呼ばれないか、そもそも名前すらつけてもらえないかのどちらか。名がなければ存在を証明できないし、呼ばれない名は存在しないに等しい。どちらがより幸福に近いのか、誰にわかるというだろう。
奇抜なデザインのキャラクターが、言うまでもなく内面にある(と思い込んでいる)異物の表現であることは想像に難くない。「みんなちがってみんないい」と真に思うのならば、これほどにやさしい世界もない。
どうしようもなく脳裏をイージーライダーたちが軽快に駆け抜けて行き、膝を抱えてページをめくる。おまけにうろんな客まで肩のうしろから覗き込んでくる始末。何を見ても何かを思い出す。
私のなかのアメリカが、小さな音を立ててうごめいている。
オイスター・ボーイの憂鬱な死/ティム・バートン(アップリンク)
もちろんそれは思い込みに過ぎなくて、自分を異物にしているのは他ならぬ自分自身で、どうしようもない孤独や遣る瀬なさを抱えると同時に他と違うことをけして手離そうとはしない。
たぶんおそらく、これもまた思い込みに過ぎないのだろうが、こうした人びとこそが他人の自己異物感に敏感に反応する。
ワンアンドオンリーイズノットノンリー。
秘密を共有する、屋根裏部屋の幼馴染のような感覚で、彼らはそれを受け止める。
作中に登場する彼らは名前があっても呼ばれないか、そもそも名前すらつけてもらえないかのどちらか。名がなければ存在を証明できないし、呼ばれない名は存在しないに等しい。どちらがより幸福に近いのか、誰にわかるというだろう。
奇抜なデザインのキャラクターが、言うまでもなく内面にある(と思い込んでいる)異物の表現であることは想像に難くない。「みんなちがってみんないい」と真に思うのならば、これほどにやさしい世界もない。
どうしようもなく脳裏をイージーライダーたちが軽快に駆け抜けて行き、膝を抱えてページをめくる。おまけにうろんな客まで肩のうしろから覗き込んでくる始末。何を見ても何かを思い出す。
私のなかのアメリカが、小さな音を立ててうごめいている。
オイスター・ボーイの憂鬱な死/ティム・バートン(アップリンク)
言葉はアイデンティティに繋がる。
ラブといえば唇がその軽重を感じ、愛といえば心が震える。
この台詞こそが、アメリカの抱えるジレンマのように感じるのは、私だけだろうか。
そもそも、私にはアメリカ文学に対する勝手な思い込みがある。父と息子の物語は成長を、母と息子の物語は惜別をよくあらわしているように思うのだ。そしてアメリカの少女でいることは時に残酷で、肌の色が異なる母たちの哀楽は陽気に笑い飛ばすか行間に埋もれている。
すると、母の日が誕生したのは彼の国ということを、私はいつも思い出してしまう。
そしてもうひとつ。いつかアメリカのキッチンはデリバリーを頼むための巨大な電話ボックスに転じるであろうという、とあるルポルタージュの一文。欲しいものは何でもデリバリーで注文すれば良いのだ。地球の裏側からでもすぐさまお届けにあがります。お望みの品はなんでもですよ、お客様。
そう、黒い目のアジア人妻だって。
おそらくは再評価される時代すら来ないであろう文化大革命の波に攫われるようにして、幸運なアメリカの花嫁となった女性。
そのことの他は時代を経てもまったくもって変わらないありふれた母と息子の物語。やさしくて働きものの料理上手な母と、成長しやがて母を疎んじるようになる思春期の息子。すれ違い、会話も失せ、病み疲れてやせ細った顔で大丈夫だからと繰り返す母を前に、今際の際にすら帰りの飛行機を心配して落ち着かない息子。
物語を押し上げているのは、クリスマス柄の包装紙で折られたウォーと吼える老虎。母の息吹でのみ、文字どおり命を吹き込まれてイキイキと動き出す紙の動物たちだ。水に溶け、乱暴な友達に千切られ、糊やテープで補強されては甦る小さないきもの。
ほんとうに、そのほかは何処にでもごくありふれた家族の風景。
私の母だって異国の言葉はほとんど話せないし、子どもたちのために懸命に生き、押し入れの引き出しいっぱいにきれいな包装紙をたたんで集めていたのだから。
文学ですら、素直にお母さんありがとうと言える日はまだ先なのだろう。
紙の動物園/ケン・リュウ(河出書房文庫)
ラブといえば唇がその軽重を感じ、愛といえば心が震える。
この台詞こそが、アメリカの抱えるジレンマのように感じるのは、私だけだろうか。
そもそも、私にはアメリカ文学に対する勝手な思い込みがある。父と息子の物語は成長を、母と息子の物語は惜別をよくあらわしているように思うのだ。そしてアメリカの少女でいることは時に残酷で、肌の色が異なる母たちの哀楽は陽気に笑い飛ばすか行間に埋もれている。
すると、母の日が誕生したのは彼の国ということを、私はいつも思い出してしまう。
そしてもうひとつ。いつかアメリカのキッチンはデリバリーを頼むための巨大な電話ボックスに転じるであろうという、とあるルポルタージュの一文。欲しいものは何でもデリバリーで注文すれば良いのだ。地球の裏側からでもすぐさまお届けにあがります。お望みの品はなんでもですよ、お客様。
そう、黒い目のアジア人妻だって。
おそらくは再評価される時代すら来ないであろう文化大革命の波に攫われるようにして、幸運なアメリカの花嫁となった女性。
そのことの他は時代を経てもまったくもって変わらないありふれた母と息子の物語。やさしくて働きものの料理上手な母と、成長しやがて母を疎んじるようになる思春期の息子。すれ違い、会話も失せ、病み疲れてやせ細った顔で大丈夫だからと繰り返す母を前に、今際の際にすら帰りの飛行機を心配して落ち着かない息子。
物語を押し上げているのは、クリスマス柄の包装紙で折られたウォーと吼える老虎。母の息吹でのみ、文字どおり命を吹き込まれてイキイキと動き出す紙の動物たちだ。水に溶け、乱暴な友達に千切られ、糊やテープで補強されては甦る小さないきもの。
ほんとうに、そのほかは何処にでもごくありふれた家族の風景。
私の母だって異国の言葉はほとんど話せないし、子どもたちのために懸命に生き、押し入れの引き出しいっぱいにきれいな包装紙をたたんで集めていたのだから。
文学ですら、素直にお母さんありがとうと言える日はまだ先なのだろう。
紙の動物園/ケン・リュウ(河出書房文庫)