つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

掌編・タイトル未定(チャーリー)

2016-09-24 14:47:18 | 文もどき
玄関マットは誰のもの。
ホームセンターで購入してずいぶん経つが、アラベスクというかペルシア風というかよくわからない。青い縁取りに白っぽい地、そこに草花が意匠された段通もどきは、単純に玄関マットと呼ばれていた。薄っぺらな安物だが、奈都子は気に入っている。そして、彼女以上にチャーリーの気に入っている。
奈都子が帰宅した今、玄関マットは蹴り飛ばされて上がり框の隅にくしゃっと丸まっている。マットがあったはずの床を踏みしめると暖かい。この玄関マットにチャーリーが丸くなって主人の帰りを待ちわびているのだと思うと、毎日のことなのにいつもきゅんとする。チャーリーは地面を掘り返すような仕草で喜びを表現し、巻いた尻尾をチアリーダーのように振ってから居間へ去っていく。奈都子が台所に買い物袋を下ろして居間へ入ると、尻をあげた匍匐前進スタイルで左右に飛びながらにじり寄ってくる。
尻尾がモーターみたいになっているのかしら。
奈都子が床に座るのを待って、チャーリーは奈都子の履き古したジーパンの膝に頭をこすりつける。両手でめいっぱいチャーリーの小さな身体をこすり、揉みくちゃにしてやるのがいつものやり方だ。そのうち満足したチャーリーは奈都子から離れ、居間の真ん中でごろりと横になる。毎日催されるこの歓迎会は、ここ数年でめっきり短くなった。
犬も歳を取るのだ。
白い毛並みに上からゴールデンブラウンをぶちまけたような模様のチャーリーの色合いは年々褪せて、今ではどの辺が金茶色だというくらいにのっぺりとしたベージュ色になっている。金茶色が退色し始めると同時に背中に黒い毛が点在するようになった。
「あんたは長生きしなさいよ」
夫になら絶対に言わない台詞をぽつりとチャーリーの丸い背中に投げ、奈都子は台所で鍋に湯を沸かしながらミョウガとナスの漬物を刻んだ。少し迷い、ライトツナの缶詰を開ける。思い立って勝手口から狭い庭へ出て、葉陰で育ちすぎているキュウリをもいだ。三分の一だけ切り、千切りにする。
いつの間にかチャーリーが台所の流しに向かって伸び上がっている。
「鼻がいいわねぇ」
残りのキュウリから一センチほど切り落とし、後足で爪立つチャーリーの鼻先へ出してやる。キュウリが好きなのだ。軽く匂いを嗅ぎ、そっとキュウリをくわえ取るとチャーリーは台所の隅へ行った。
「よく噛んで食べるのよ」
どういう訳か、犬はキュウリを好む。
タロさんもキュウリを食べた。チャーリーと同じ犬種で、食べ物の好みもだが、やや気難しいところもよく似ている。
ーーあっという間のことでね。
稲田さんは寂しげにぽつりと言った。
ーー倅が帰ってすぐにね、転んだのよ。滑ったのかと思ったけど、そうじゃなかった。
奈都子はタロさんの散歩係を8年勤めたことになる。稲田さんは脚が悪く、満足に散歩させられないからとサービスに申し込んできた。奈都子がわんにゃんフレンドに入社して初めて担当したのが、タロさんだった。すでに人間で言えば中年に差し掛かり、心臓に先天性疾患を抱えているタロさんは仔犬のような顔とやんちゃぶりで、奈都子は当初頭を抱えたものだ。慣れるまでは訪ねていけばギャンギャン吠えかかり、散歩し足りないと家の前を知らん顔で素通りしようとする。そのくせ、玄関に入れば当然抱っこして移動するのだと言わんばかりにすましてお座りして奈都子の片付けを待つ。奈都子はふざけてよくタロ殿と呼んだ。
あの子はもう居ないのだ。
ネギを刻む間に茹で上がった素麺をもみ洗いし、水を替えた桶に製氷皿の氷をぶちまけた。麺をザルで掬い、皿をあてがって居間の座卓に置く。めんつゆ、刻んだ薬味の皿、はし、ライトツナの小鉢、わさびのチューブを盆で運び、腰を下ろしてから胡麻を忘れたことに気づく。海苔もあったなと思ったが面倒なのでそのまま食べ始める。チャーリーは短い脚と口吻を伸ばして座卓の上のラインナップを確認し、ふーんとため息をついて退散した。
夏は朝、冬は昼。タロさんは散歩から帰ると稲田さんにキュウリを要求した。冷蔵庫の前に座り、ちら、ちら、と物言いたげにこちらを見るのだが、こぼれ落ちそうに大きな目が期待でキラキラしているのを見たら断れないだろうなと思う。
「ほんとに見えないのよねー」
素麺の水気で薄くなっためんつゆを足し、底に沈んだツナをさらいながら独りごちる。素麺に絡んでくる、つゆのしみた薬味が旨い。
チャーリーはそれから洗い物をして家計簿をつけ、洗濯物を畳む間も、プスーと時折鼻を鳴らして機嫌よく眠っていた。
家事がひと段落して、奈都子がごろりと横になるとすかさずチャーリーがやって来た。肘枕にワイドショーを見始めるとしばらく動かないのを知っているのだ。
「っもう、やだ、このおケツ」
人の顔の側に尻を向けて丸くなるのが最近のチャーリーのマイブームらしい。奈都子同様、夫や子供たちも皆かならず笑いながら怒るのだが、チャーリーは聞く耳を持たない。仕方なく顔をそらしてテレビが見えるように肘の角度を変える。
ジジ犬だったけど、かわいかったな。
奈都子は目を閉じた。
ばいばい、タロさん。またそのうちね。