つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

ペソア・プロジェクトという解説

2016-03-25 19:24:20 | 句もどき
解説者によると、フェルナンド・ペソアは、多人格を操り創作活動を行っていたという話だ。
本当に、彼らがいたかもしれないことについて疑問を持たないことに、私はまず驚いた。人格障害とか、そういった話ではない。ビリー・ミリガンのような厄介な人生を歩んでいる人は少なくないだろうが、さておき。
だいたい、人生やら人格やらに連続性が存在すること自体、証明できないだろう。突き詰めて考えれば、本当の意味で他人同士が理解し合えるというのは共同幻想に過ぎないし、己が次の瞬間も同じ自己たり得るという確信についても正常性バイアスがかかっているとしか思えない。
閑話休題。
始まりはラテンアメリカ文学だ。ガルシア・マルケスに沈み込む準備のつもりであった。私はラテンアメリカの空気を感じたことがない。匂いも、色も何ひとつ手がかりなく読むのは、大人なった私には少し難しい。
また、閑話休題。
個人的な好みで言うと、ラーマト・ラマナン[あたし]と、王建業[ゴールド]がささくれる作品だった。アジアの表と裏、雨の匂いや発散するエネルギーのようなもののうねり、なにより総天然色匂いつきだったからだろう。[リマから八時間]を読んでいるときに浮かんでいた景色は、おそらくサルデーニャかシチリアあたりだと思う。そのせいか、あんまり赤い土ほこりの匂いがしなかった。代わりにぼんやり黄色かった。唯一の日本人の作品は、はっきりとある作家が浮かんできたし(著者でも編者でもない、最近になって活動を再開した人だ)、はっきりと別の作品にイメージが結びついた。
確かに筆致も違う、キャラクターたちも少女から中年男、老婆と似つかない。彼らが、著者、訳者、編者がひとりの頭の中に生まれていて、何の不思議があろうかと思う。なんせ、たくさんの人生を生きることを糧にする人物が著したのだから。
解説者がまあ、別個の人物によるものだとして、勇んで格調高く種明かしをするような野暮は言いっこなし、と言いたいだけなのです。
(存在しない小説/いとうせいこう編)