南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・毛利元就(木津川口の戦い )

2010-03-09 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3・毛利元就の章第二話は「木津川口の戦い」です。
毛利家と織田家との間に起こった海戦で、1576年の第一次木津川口の戦いと、1578年の第二次木津川口の戦いがありますが、毛利側が勝つ方の第一次木津川口の戦いとして進めていきたいと思います(笑)

木津川(きづがわ)は、大阪府大阪市南西部を流れる淀川水系の下流における分流です。

織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口で激突しました。

石山本願寺は戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国大坂(大阪市中央区の大阪城所在地)にあった浄土真宗の寺院です。


数千丁単位の数の鉄砲で武装し、きわめて高い軍事力を持っていた傭兵集団・雑賀衆は、1570年石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦すると石山本願寺につき織田信長軍と戦うことになります。


竹中重治(竹中半兵衛)は秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると秀吉に従って中国遠征に参加します。
1578年に宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、同年の有岡城の戦い(信長に対して荒木村重が謀反)の時は、黒田長政の命を救います。
黒田孝高(官兵衛)は秀吉の参謀として、1581年の因幡・鳥取城兵糧攻めで落城させ、1582年毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略などで活躍します。


村上水軍は日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)です。
能島・来島・因島の三家からなり、戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従、来島村上氏は河野氏に臣従していました。
毛利元就の「一日だけ軍船をお借りしたい」との言葉により、村上水軍は1555年の厳島の戦いに参加、以後1561年の豊前簑島合戦、1567年毛利氏の伊予出兵、1576年の第一次木津川口の戦いなどで毛利氏に協力しています。
ルイス・フロイスに「日本最大の海賊」と評された村上武吉(たけよし)は能島(のしま)村上水軍の当主で、第一次木津川口の戦いでは自身は参加せず、子の元吉が参戦しています。
村上吉充(よしみつ)は因島村上氏の第6代当主で、1561年門司城攻防戦で乃美宗勝(小早川水軍の主力として活躍)の指揮下、大友軍を撃退しています。
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名となりました。
村上水軍博物館が愛媛県今治市宮窪町にあります

福原貞俊は隆景と共に山陽方面の政治や軍事を担当し、元就死後は毛利輝元を補佐し、吉川元春、小早川隆景、口羽通良と共に四人衆と称された筆頭重臣です。


1576年の第一次木津川口の戦いでは、毛利方の水軍の使用する焙烙玉や、雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受けました。
焙烙火矢(ほうろくひや)は焙烙玉の導火線に火を点けて、火縄銃の30匁筒など大筒に詰めて放ち、敵兵の殺傷を主目的とした兵器で、雑賀衆が船上などで用いていました。


焙烙玉とは、料理器具である焙烙(ほうろく)、ないしはそれに似た陶器に火薬を入れ、導火線に火を点けて敵方に投げ込む兵器で、手で直接投げたり縄を付けて遠心力で投げたりする手榴弾の様な物です。
雑賀衆の他に村上水軍、乃美水軍(浦水軍)、児玉水軍などの瀬戸内水軍も使用していました。

これらの兵器に対抗する為に織田信長が九鬼嘉隆に命じて鉄甲船を開発させることになります。


明智光秀に対して
元就「信長公は君の理想を実現してくれそうかい?」
と意味深なセリフを。

元就は、明智光秀が武者修行中仕官を求めた際、光秀に対し「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」とその顔に凶相を見て、後の厄を恐れて金銀を多く与え採用しなかったそうです。


光秀「どういう意味です・・・私は信長様を信じています」
元就のセリフは全編を通じて、「元就は未来から来たの?」とつっこみたくなるくらい、相手の行く末を言い当てるものが多数でてきます。


元親「信長の凄絶な意志が、時代を突き動かしている」

長宗我部元親は1575年に土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と同盟を結び、伊予や阿波、讃岐へ侵攻していきます。
しかし1580年、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫り、元親はこれを拒絶。
このため信長と敵対関係となり、元親との外交を担当していた明智光秀の心を苦しめた為に本能寺の変に至ったという説もあるようです。
(元親の側室に明智光秀の妹の娘がいます)


元親は「潮」とか「血潮」とかの言葉をよく用います(笑)

1585年の羽柴秀吉による四国攻め時は、秀吉と和睦した毛利氏の小早川隆景や吉川元長の軍と伊予の地で激突します。


黒田官兵衛に対し
元就「播磨を手懐けた君達の手腕、実に見事だったよ。」

1573年播磨の大名たちは織田と毛利の2大勢力に挟まれていましたが、信長の才能を高く評価していた黒田孝高はいち早く主君・西播最大の大名小寺政職に織田家への臣従を勧め、岐阜城で信長に謁見。さらに近隣勢力も説得し、政職、別所長治、赤松広秀らを謁見させました。
1577年には孝高は居城である姫路城を秀吉に提供しています。


官兵衛「信長こそ天下を統べる英雄・・・卿も否定はしまい?」

本能寺の変で織田信長が死去したとき、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言ったそうです。これにより秀吉は落ち着きを取り戻しますが、以後孝高の智謀を恐れるようになったということです・・・


毛利水軍の突撃!のムービーが入ります。

毛利水軍は、中世日本の瀬戸内海で活躍した、戦国大名毛利氏直轄の水軍(海賊衆)です。
安芸武田氏直轄の水軍衆であった福井氏や山県氏、譜代家臣であった児玉氏や飯田氏を1543年から川内警固衆に任じたのが始まりです。
勢力を拡大するにつれ、1550年から小早川氏の水軍や大内氏の水軍を取り込み、後には村上水軍をも取り込んでいきます。



九鬼嘉隆(くき よしたか)は九鬼水軍を率いた九鬼氏の第8代当主です。
1569年信長が北畠具教を攻めたときや、1574年信長が伊勢長島の一向一揆を鎮圧する際、海上から射撃を行うなど織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍します。

1576年、石山本願寺側についた毛利水軍600隻に対し、嘉隆は300隻の船を率い摂津木津川沖で戦ったものの多くの船を焼かれて大敗を喫します(第一次木津川口の戦い)。
この敗戦に激怒した信長は、嘉隆に対して燃えない船を造るように命じ、嘉隆は船に鉄を貼った鉄甲船の建造を提案。
莫大な資金を信長が手配し伊勢浦の大船と呼ばれた鉄甲船が完成し、1578年の第二次木津川口の戦いでの織田軍の勝利につながります。


半兵衛「さすがは元就公、なんでもお見通しだなあ」と社交辞令?(笑)

知らぬ顔の半兵衛という、何も知らない振りを装って物事に取り合わぬことを意味する慣用句があり「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」のような表現で使われるようです。
前田犬千代が信長の意をうけ美濃の武将竹中半兵衛を調略するために接近した際、半兵衛はそれを見抜いており、あえて知らぬ顔をし、逆にこれを利用し犬千代から織田方の兵力などの情報を聞きだして、結果、織田勢を撃退してしまったという逸話があります。


半兵衛は黒田官兵衛と共に「両兵衛」・「二兵衛」と称され、斎藤氏に使えていた時、信長の軍勢を寡勢で何度も破ったことから、軍略の天才として、「今楠木」と称されています。


信長「毛利元就、うぬは何を望む?」
史実では元就は信長を認めていて信長包囲網には参加していなかったのですが。
「我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ (天下を競望せず)」の言葉からも、 中国地方制覇後はこれ以上版図を拡大するよりも、現在の版図を固めるべく内政に力を注ぐべきだと隆元や元春、隆景ら息子達には守成を託したようです。


元就「正直なとこ、信長公の天下も見てみたいんですがね」

信長がもし、本能寺の変で死んでいなかったら、日本はどうなっていたか?という想像や妄想(笑)は歴史好きな人の楽しみではないでしょうか(笑)
本宮ひろ志先生の『夢幻の如く』とか



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