この記事を 偉大なる野球人 仰木彬氏に 捧げます。
『 番長 』 こと 清原和博
へんこ魂
先日 引退宣言をして 日ハムを日本一のチームにする
原動力となった 新庄剛志と同様 華のある 数少ない選手である。
野球にあまり 詳しくない 私がいうのも おこがましいが
名プレーヤーは たくさんいても
華が ある選手となると 最近は少なくなってきたと 思う。
清原は スターになるべくして 生まれてきた。
身体も 大きく 何より 巨人ファンであった
母親の影響を受け、 ONにあこがれて
少年時代をすごした。
1983年夏、PL学園の一年生ながら四番を打ち甲子園を沸かせる。
5期連続で甲子園に出場し、史上最多の13本の本塁打を放つ。
1985年の秋、西武にドラフト一位で指名されて入団する。
1986年のシーズン、打率304、本塁打31本、打点78で最優秀新人賞を獲得。
1996年、FA宣言で読売巨人軍に移籍。
2001年、2度目のFA権を取得し巨人に残留。
2005年オフシーズン、故仰木彬前監督からの熱烈な誘いを受けオリックス入団を決意。2006年の完全復活を目指す。 (清原和博オフィシャルサイトより)
清原が 高校卒業のドラフト会議で 巨人に入れるものと思っていて
しかし 当時 巨人軍の監督で あった
王監督が指名したのは
なんと PLの同期 桑田真澄であった・・・
これより 20数年間 清原は 王さんに対するわだかまりが
消えなかったそうだ・・・
なら、なぜ、1996年に 清原の育った地元である 阪神タイガースの
誘いを断って 巨人軍に 入団したのか?
あの時 清原の中では95% 阪神に気持ちが傾いていた。
しかし 当時の 巨人軍の監督は 清原のあこがれの人
長島監督
長島さんは
「背番号3」 を 清原にあげてもいいと 言い、
「僕の胸に 飛び込んできて欲しい」 と
言ったそうだ。
そして 巨人軍オーナーであるナベツネさんにも
あのドラフト会議のことを 誤られ 清原の気持ちは
これで 巨人に傾いてしまった。
これ 私もショックでした。
清原は打倒巨人! に 燃えていると思っていたのに
清原 お前もか!! と 思ったのを覚えています。
清原ファンを公言していた 吉永小百合さんも
「あの涙はなんだったの」と コメントを残し
清原ファンを辞めてしまった。
こうまでして 移籍した巨人軍
そのため 自分をかってくれている、長島監督の期待に
答えねば!! というプレッシャーで 成績不振に。
私も あの時 なぜ 4番清原に こだわるのか 理解できなかった。
そして その気持ちは 巨人ファンの応援にも 現れ
清原が 打席に立った時、 ファンが応援をやめたそうだ・・・
なんということだ。
球界の宝 とまで 言われた清原
高校野球から スター
西部ライオンズ時代の 大活躍を考えても 清原の野球人生において
これほどの
屈辱はなかったに 違いない
これから 翌年は 4番を下ろされたことで かえってプレッシャーが
なくなったのか、ホームランを打ちまくり 4番に返り咲く。
そしてこの年清原は23本塁打を放ち、
原辰徳がもっていたプロ入り1年目からの12年連続20本塁打の日本記録を塗り替えた
このあとは 怪我! 肉体改造の 繰り返しですよね。
2005年 戦力外通告を受ける
清原さ、 巨人軍に 翻弄された野球人生だとは 思いませんか?
あのドラフトで 巨人軍が 指名をしてくれていたら
たとえ 入団できなかったにしても 清原の心がこんなに
傷つくことはなかったでしょう。
そして、1996年のFA宣言の時の監督が 長島さんで なかったら
清原は まちがいなく阪神へ行っていたでしょう。
このあと オリックス 故仰木監督が
何度も 何度も 清原の所に足を運び
「大阪へ帰って来い! おまえの最後の花道は
俺が作ってやる 」と 熱烈なラブコールが
あったそうです。
清原にしてみれば 東京へ行った時点で
「自分は 大阪を捨てた人間」
そんな俺を 大阪は受け入れてくれるのか? という
気持ちが あったそうです。
それを 仰木さんは 毎日電話をかけてよこし
「お前 時間あるか?」 と聞き
たった10分くらいしか 時間がなくても
その10分のために 飛行機に乗って 清原に会いに来る。
そして 清原が おかあさんの言うことをよく聞くと
わかると 虎屋のようかんを手に 家の前に立っている・・
と 言うような 熱烈なラブコール。
しかし、そのとき、仰木監督は 病魔に犯されていて
全身に がんが 転移していた状態だったらしいのです。
それを 周囲に隠して 最後の最後まで 野球に命をかけた
仰木さん。
思えば野茂もイチローも 仰木さんが いなければ
どうなっていたか わかりません。
最後に 清原は言っていました。
「あの時、仰木監督に 大阪に戻って来いと 声をかけて
もらえなかったら、 俺の野球人生は どうなっていたか
わからない 」
人の出会いは 不思議なものですよね。
仰木さんは 最後の力を振り絞って、 清原を 大阪に返して
くれたんですよね。
涙、涙でした。
仰木彬「夢実現」の方程式
勝つということ