リタイアした「から」、あれがやりたい。これもやりたい。

人生のセカンドステージに、もう一度夢を描き直す。
「夢翔庵」の気ままなひとり言です。

これからの住まい

2007年02月27日 | 住まう
子供たちもそろそろ巣立ちの時を迎えています。
わが家では就職と同時に家を出て行くのがキメになっています。働き出したら自分の責任で生活する、というわけです。

この春、下の子がアパートへ引っ越すと夫婦ふたりの生活になります。20年以上にわたって今の場所に定住してきたのは主に子供のためで、それがいなくなるとここに住む必然性が少なくなります。
まして今はふたりとも都心に通勤しているので、もっと勤め先に近いところに住んでもよいのでは? という考えも浮かんできます。

かといって、首都圏のベッドタウンといえど子供にとっては唯一の「ふるさと」なわけで、小さいときからの友達がいる土地を完全に捨ててしまうというのも可哀想な気もします。

リタイア後の住まいのことも合わせ、なかなかに悩ましいことです。

車窓を楽しむ

2007年02月24日 | 旅する
出版社にお勤めの先輩からご自身が編集された書籍を贈っていただきました。真島満秀著『鉄道の旅』です。

カメラマンの真島氏の詩情あふれる写真と路線ごとのエッセイがついていて、行ったところを反芻し、これから行きたいところを想像しながらゆっくりと楽しめそうな内容です。
先輩、ありがとうございました。すばらしい成果ですね。

鉄道の旅はクルマや飛行機と違って、その過程がもっとも楽しめるものだと思います。
とりわけガタンゴトンとゆったりした時間を刻むローカル列車から眺める沿線風景はそこに暮らすさまざまな人びとの生活も想像できて、いっそう旅情をそそります。

一度、小海線の小淵沢から終点、小諸まで途中下車をしながら乗り通したことがありましたが、車窓からの眺めがおもしろくて時間が経つのを忘れるほどでした。
今度はどこへ行こうかな。

阿佐ヶ谷のころ(その2)喫茶店

2007年02月21日 | 懐かしむ
あのころはよく喫茶店に行っていたものです。いまは喫茶店そのものがカフェとかいって、変わってしまいましたけどね。

「茜舎(あかねしゃ)」~阿佐ヶ谷駅から杉並区役所脇まで南へまっすぐ伸びる中杉通りの中ほどにありました。名前の通り、おおきな赤いテントが目印になっていました。モーニングサービスのトーストが厚くてやわらかで、ネルドリップのコーヒーとマッチしていた記憶があります。大きな窓ごしに通りを眺めるのが好きでした。

「Cobu(こーぶ)」~アーケードのある商店街「パールセンター」の中ほど、有名な「ねじめ民芸店」のそばだったと思います。洋品店の中にある喫茶店です。フレンチローストのコーヒーなどもあって、客の出入りが少ないのを幸いにずいぶん長時間読書などで粘ったものです。器がすてきで、ワインの空瓶に飾った一輪挿しもしゃれていました。

「遠方近方(おちこち)」~ここは最初「プチぽえむ」という名前だったと思います。北口の天祖神社への道の途中にありました。「ぽえむ」の店員だった人が独立した店ではなかったかと思います。「ぽえむ」同様、黄色いポットを素手で扱っていたので熱くないのかと思っていました。(マネしたら、やけどしそうになった。)

すぐ思い出せたのはこれくらいですが、このほかにも記憶の底に沈んでいるお店がいくつもあるはずです。近いうち、阿佐ヶ谷に行ってみようかな。

鳥がこわい

2007年02月18日 | ひとり言
実はわたくし、トリ肉が食べられないんです。というか、鳥類がきらいなんです。
その理由をここに書くのも思い出してイヤなんです。そう、みなさんの想像するような恐怖体験があったんです。

ニワトリはもちろん、多くの人がかわいいという小鳥もダメ。
当然、焼き鳥屋で一杯、というのは自分の場合ありえません。(誘われれば付いていって、なるべく見ないようにして飲んでますが。)
K○Cなんてファストフード店は一生入ることはないでしょう。
伏見稲荷の門前にならぶ店先で焼いているもの(言うもオゾマシイ)を見て卒倒しそうになったこともありました。

毎年行われる「赤い羽根共同募金」も寄付はしますが、あの羽根をつけるなんてこと、とてもできません。(あの羽根のついていたトリはどうなったんだろ? なんて考えるだけでトリ肌!が立ってしまいます。)

あんまり子供じみたことを言っていてもバカみたいと思い、最近はカモの肉は食べられると思い込むことに成功しました。だって、赤身でチャーシューみたいで美味しいし・・・。
カモはトリではない!(これって変?)
 
そんな人間がバードウォッチングをした話をいずれしましょう。

百鬼園先生

2007年02月14日 | 楽しむ
内田百間という作家をご存知ですか?(百間の「間」は門がまえに月。文字化けするかもしれないので。以下、ご本人が使った百鬼園先生と呼ばせてもらいます。)

明治22年、岡山の造り酒屋の生まれ。漱石門下です。
小説のことは置いておいて、先生の随筆が秀逸なのです。とくに汽車好きとしては、『阿房列車』が愛読書です。
希代の雨男「ヒマラヤ山系」こと国鉄職員の平山三郎氏との汽車旅行記で『第一』から『第三阿房列車』まで全18行程運転されました。

百鬼園先生は写真の苦虫を噛み潰したような表情でもわかるように、たいへんに気難しい風情ですが、その作品は独特のユーモアに溢れています。

冒頭を少し引用してみましょうか。
――「阿房(あほう)と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ。」(講談社版全集から。原文のまま。)

行きは用事がないから楽しいが、帰りは帰るという用事があるからつまらないとか、新線ができて不要になった隧道(トンネル)をどこかへ移して利用できないかとか、お酒が大好きなのに昼間から汽車の中で飲むのはお行儀が悪いとか、旅費を捻出するために「錬金術」を施したりとか、ユーモアと皮肉が混じった記述に思わずニヤニヤしてしまいます。

いま手に入る本は限られるかもしれませんが、旅行や列車の好きな方には強くおすすめします。

阿佐ヶ谷のころ(その1)ぽえむ

2007年02月11日 | 懐かしむ
学生時代から20代にかけて中央線の阿佐ヶ谷界隈に住んでいました。
青春の「濃い」時期を暮らした街として、今でもいろんな記憶が甦ってきます。
思い出すままに当時の風景を点描してみようと思います。

阿佐ヶ谷の北口をガードに沿って少し西に歩くと『ぽえむ』という黄色い看板の喫茶店がありました。

ここは漫画家、故永島慎二さんの『若者たち』の舞台にもなったところで、後にフランチャイズであちこちにたくさんのお店ができました。(この原作は『黄色い涙』というタイトルでTVドラマ(主演は青春俳優、森本レオ!)になったことがありますが、この春アイドルグループの嵐主演で、映画が公開されるようです。)

たしか、コーヒーの種類が100ほどもあり、ローストだけでも3、4種類ありました。学生時代はほとんど毎日、サラリーマンになってからは会社帰りに後からできた2階のパブによく立ち寄りました。

影響されて自分でもミルや器具を買い、デミタスにコーヒーを淹れては悦に入っていました。(あの頃はまだ晩酌を覚えていなかった!)

今はもうないと思いますが、胸がキュンとなる思い出の店です。

自分で決断できる人生

2007年02月07日 | ひとり言
日本経済新聞の夕刊連載「こころの玉手箱」。何週か前、歌舞伎俳優の松本幸四郎さんが執筆されていました。
その中にこんなことが書かれていました――。

『ロダンは「地獄門」という大作で、人間の苦しみや不条理を彫刻として表現している。人間は、地獄の門の前で行ったり来たりしているようだが、中が地獄だろうと悲観せず、開けてみないことには始まらない、と考えるようになった。』
『人間にとって一番大事なことは、どんな目にあったかではなく、どういう決断をしたかにある。人生は、小さなものでも大きなものでも決断の連続である。』

この言葉を読んで中原中也の『畢竟、意志の問題だ』という詩句をまた思い浮かべました。

どんな人生であれ、自分で決断をし、自分の意志で生きた人生なら、人は最期に「満足だった」と言えるのではないでしょうか。(もちろん、自分で決断できるという幸せな環境が前提ですが。)

たしか、「女の一生」でも『自分で選んだ道ですもの』という杉村春子さんの名ぜりふがあったと思います。

オルセー美術館展

2007年02月03日 | 楽しむ
合間を縫って東京都美術館の展覧会を覗いてきました。
マネ、ルノアール、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホなどそれぞれ小品中心ながら多くの著名な絵が見られました。

マネの『すみれのブーケのモリゾ』の可愛らしさ、モネの『ルーアン大聖堂』(何枚かあるうちの一枚)のやわらかな光、セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』の比較的明るい(淡い?)作品、ゴッホの『アルルの部屋』の青と黄色の鮮やかさ――。
集中できたせいか、行ってよかったといえる展覧会でした。

東京展は先週の土曜日に始まったばかりなので平日午前の早い時間だったこともあって思ったよりも混雑していなくてよかったのですが、それでも時間が経つにつれて人がどんどん増えてくる気配でした。
9時開館のようなので行かれる方は早目がおすすめのようです。コートなど荷物も多い冬の開催なのでコインロッカーもすぐ埋まってしまいそうです。

よいものに触れると人生の憂さも少し晴れますね。