リタイアした「から」、あれがやりたい。これもやりたい。

人生のセカンドステージに、もう一度夢を描き直す。
「夢翔庵」の気ままなひとり言です。

都心の空は騒々しい

2021年11月30日 | ひとり言
勤労感謝の日は毎年恒例にしている大学ラグビーの観戦に秩父宮競技場に行ってきました。
コロナが鳴りを潜めているのを狙って、という気持ちでしたが、なんのなんの、神宮外苑は晴天の祝日ということもあって多くの人たちでごった返していました。

ラグビー場はチケットの制限をしているので空席をはさんで座るようになっていましたが、それでも試合が始まるごろには見た目、満員に近いようにも見えました。それでも大声での声援を控えるようにという、大相撲と同じような規制がかかっているので全体に非常に静かな観戦でした。

いつもはお酒を飲んでいるであろうオヤジの罵声やヤジで時には不愉快になることもあるものですが、この静かさは競技自体を楽しみたい向きにはたいへん心地よいものでした。
だいたい、素面にマスクをしていると大声を出す気にもならないのでしょうね。みんなお行儀がよくていい感じでした。

ところが後半の3時を過ぎたころからでしょうか。上空から飛行機の音が大きく聞こえるようになり、その後は羽田へ着陸のために脚を出したジェット機が後から後から低空に現れ、その轟音も相当なデジベルに上がります。近くに降り立とうとする怪鳥のようなその影にはちょっと恐怖感さえ感じるほどでした。

このブログで南風のときにわが家の方にもいろんな旅客機が見られて楽しい、なんてことを書きましたが、都心に住んでいる方にとってはいくら飛行機が好きな人でも困った環境になったものでしょうね。勝手なことを書きますが、ルートや高度の見直しが必要ではないでしょうか。

孫の出現

2021年11月25日 | ひとり言
古稀の年頃になって、思いもよらなかった初孫ができました。
周囲では50歳前後で孫の話がチラホラと出ていたのでその当時は「へぇ、もうそんな齢なんだぁ。」という思いもありましたが、わが家にはその後そうした話もなく時間もずいぶん経ったので、もうそういうことはないのだろうと勝手に決め込んでいた面もあります。

子どもができたのはつい先年に結婚したばかりの次男の方で、奥方ともども不惑の年が近づこうという年齢です。
自分も決して早い結婚という意識ではありませんでしたが、それでも当時28歳で、いま思えばずいぶん若かったんだな・・・と。それに比べれば子供をあと二人は欲しいなどと言っているのを聞くにつけ、寿命が延びたのに合わせて晩婚の時代にもなったのかなと感慨を持ちます。

しかし、ジジババからすれば可愛い(らしい)孫が遊びに来ても体力の衰えでめいっぱい付き合っていられないだろうと、少し残念にも思います。

実はその前に、このコロナ禍で次男のお相手とは結婚式はおろか実家への挨拶もできていない始末。さらに言えば直接会ってもいない(米国にいたときの定期的なスカイプ程度)という状況での孫娘誕生です。LINEで送られてくる動画でしばらく我慢するしかなさそうです。

モンブラン万年筆 マイスターシュテュック149

2021年11月20日 | 楽しむ
モンブランの万年筆。あこがれたものです。キャップのてっぺんについた白いマーク。あれがモンブランの山に積もった雪を表している、と父に教わって、子どもごころにデザイン的にも日本とはまったく違うセンスに当惑した記憶があります。

また、ドイツの会社なのに何故フランス(Mont Blanc)とイタリア(Monte Bianco)国境にある山を商標にしたのか、ペン先に彫られている“4810”がモンブラン山の標高だったとは・・・、この記事を書こうとして初めて知りました。やっぱり、彼我のセンスの違い!?

さて、親や親戚からの進学祝いとしてそれまでに2,3本持っていましたが、作家などが愛用するといわれた、あのぶっといやつをいつかは手に入れたい野望(?)がずっとありました。

入手したのは初めての海外旅行でインドへ行く途次。トランジットの香港は啓徳空港の免税店。当時は日本で買うより相当に安く手に入るという印象、もしくは思い込みがあったのです。

狙うはもちろんあの一番太い「マイスターシュテュック149」。ペン先の太さで迷っているうち飛行機に乗り遅れそうになって慌てて中庸の中字のものにしました。

日本に帰って使ってみると、中字でもペン先が太すぎて細かい漢字などが書きにくい――。その後、ペン先を細く研いでもらったり、オーバーホールもお願いしたりしてなんとか愛用のものにしようと努めたのですが、結局おもに眺めては悦に入るという愛玩品のまま半世紀近くたってしまいました。

ところで「マイスターシュテュック」って、調べもしないで「職人の力作」くらいに思っていたのですが、今回あらためて調べると英語で「マスターピース(傑作、名作、代表作)」という意味だそうです。1924年の発売当時のモンブラン社の代表作、と受け取ればよいのでしょう。これまたセンスの違いでニュアンスまで理解できているとは言えませんが・・・。

人生を教わった先輩の訃報

2021年11月14日 | 懐かしむ
大学受験に合格するのに趣味や読書にかまけていてはダメ! とばかりに受験勉強だけに明け暮れた高校時代・・・(実際はそうでもなかったと思いますが)。

そんな時期を通り越して上京し、学園紛争で授業もあまりなかった環境で何をどうしていけばいいのかもわからず迷っていた時によい出会いがありました。
ひとつはサークルで仏像に傾倒して友もでき楽しみをみつけたこと。もうひとつはそのサークルの一年先輩の強烈な個性と知性に惹かれ知りもしなかった文学やとりわけ詩歌、モノの考え方などを少しは反発も覚えながらも圧倒的な影響を受けたことでした。

学年でたった1年しか違わないのになんと大人に見えたことでしょう! 20歳になるかならないかという最も多感な時期に、大袈裟にいえば人生、あるいは生き方を教えられた先輩を持てたことは自分のその後にどれほど糧になったか計り知れません。
後にヒットした「我が良き友よ」という歌を聴いたときに、まっさきに浮かんだのがこの先輩の姿です。

サークルを途中退会された後は疎遠になってしまいましたが、卒業後は故郷で教職をされていたそうで、自分のように影響を受けた後輩たちを多く持たれたことでしょう。

大泉学園のアパートで灰皿いっぱいになった吸殻をもう一度喫うシケモクというものも教わりましたネ。
先輩の厳しくも優しい気持ちを今更ながら思い出しつつ、あとわずかでしょうが人生を自分なりに誠実に生きていくつもりです。ありがとうございました。

松本か長野か<住んでみたい街>

2021年11月09日 | 住まう

信州、長野県は18歳で上京して以来、幾度となく足を踏み入れてきたところです。

中央本線や中央高速、あるいは国道20号線で行く塩尻・松本方面、さらに足を延ばして安曇野や白馬へ行くことと、上野から信越本線や国道18号線で碓氷峠を越え、軽井沢、上田、そして長野へ向かうこと、さらには(山梨県にもまたがりますが)両方をつなぐ小海線や141号線で八ヶ岳周辺をウロチョロしたり・・・と、首都圏からは電車にしろクルマにしろ長野県のどこでも比較的アクセスが容易で馴染みが深くなりました。気候も湿度が低くさらっとしているのが好みでした。

なかでも県庁所在地の長野と松本は観光資源もたっぷりあって、訪れた回数もとりわけ多かったように思います。
どちらの街もそれぞれに魅力的で、住むとしたらどっちかな? と妄想したことも一度や二度ではありません。

あるとき地元の新聞社の方から「長野人と松本人は仲が悪いのを知ってますか?」と、教えてもらったことがあります。
わずかな知り合いを思い浮かべてのごく個人的感想ですが、たしかに信州の人って、やさしい感じなのにどこか孤高を持しているようで、矜持が強いように思えます。それぞれの地元への愛着が強いということでもあるのでしょう。あんな素敵な場所に住んでいれば誇りに思えるのも当然かもしれませんね。

思い出の処分と友情のゆくえ

2021年11月04日 | 懐かしむ
7,8年米国に赴任していた子どもが帰国して名実ともに独立することになり、留守中の彼のコンテナに間借りしていたプラモデルの古い物を整理・処分することにしました。

いつかも書いたことがありますが、就職前のモラトリアム期に大学院に行くつもりの友人がわがアパートを頻繁に訪れていて、ふたりでいろいろなプラモデルを作って遊んでいました。あの頃から50年近くたっても模型はそのままで大きく壊れることもなく箱のフタが開くのを待っていたようです。

取っておいたのは一番夢中になっていた第二次大戦の連合軍、英国と枢軸ドイツのアフリカ戦線やソ連との東部戦線の模型づくりでした。
当時の製品ではなぜか負けた方のドイツ軍のものが多く、彼が主に担当して作った英国軍の模型が出始めたころでした。

自分が就職してからもモラトリアムが続いていた彼はよく訪ねてきていました。当時もっとも長く一緒にいた友でしたし、この友情は長続きするものと信じていました。

お互い結婚して、少しずつ疎遠になり、そのうち年賀状さえ返事が来なくなって、いつか全く没交渉に・・・。サークルの同窓会などにも顔を出さなくなり、こちらから言えば音信不通の状態です。

あんなに近しい間柄で友情が長く続くと信じていたのは青春時代だけのうたかたの夢だったのでしょうか。
できることならば、またときどき会えるような間柄に戻れたらと思います。元気にしていますか? BB君。