ゆかりんご

沢田研二さん、ジュリーについてのブログです。GREEもどうぞ。
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横浜トークショーお料理その1

2009-07-22 18:33:35 | 日々のできごと
マグロが固めてあってハート型のホワイトソースがかかってました。
かわいい

お味はちょっとくどかったかな
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横浜トークショー その1

2009-07-22 16:40:33 | 日々のできごと
さて、きのうはの中、横浜ロイヤルパークで行われた沢田研二さんトークショーに行って参りました
会場に入っての第一印象、たくさん人がいる~ひろ~い ステージとお~い
わたしの席は、最果ての席、と思ってたらまだ端にひとテーブル。送られてきた座席表にはなかったから、あまりの盛況ぶりに付け足したのかな

さてさて、「探偵」の曲に合わせてジュリーが登場 衣装は探偵のまま。5月の帝国ホテルとおんなじ。
ちょっと残念


右に左に挨拶したあと、後ろを向いてポーズ


みなさん、今日はの中、にぎにぎしくお集まりいただきありがとうございます。420名です。

今年は奇跡元年ということで何をしゃべろうかなと…
最初のこの曲はまだ30代の時に、レコーディングした曲です。
そのときの声ですね、若々しいとき。あれからもう30年近くが過ぎてると思うと長くやってるなぁと思います。
世の中ではテレビに出ることが芸能人だと思われてるから、最近のわたしみたいにテレビに出てないからいろんなところで「たまには歌ってね」と言われたりして。そういう時は「はい」と答える。そういう人に説明してもあかんのやろな、と思うから。もしかしたらここにおいでの方でも歌はやめてこういうトークショーばっかやってると思われてる方もいるかもしれない。そう思うと世の中は不思議なものでございます。
元々60まで歌うなんて想像もしてなかったし、去年60になってもう1年が過ぎた。61になってしまったんですよ。
長く続けてるだけではダメなんだと思いながら、それでもコツコツと自分なりにやってきた。
元々自分で芸能界に憧れてたわけでもなく、ただ周りにそういう人間がいっぱいいた。
元々歌は好きだったけど、少年の頃はどうやったらテレビに出られるかって全然わからない人種だった。たとえば、ラジオ局に行くというようなことも思わないで、そんな世界に入る人間じゃないと思ってた。
ところが芸能界に無関係なうちでもなくて、わたしの父親は「地獄門」という映画でカンヌ映画祭のグランプリ、あ、グランプリってのは一番上の賞じゃない、もうひとつ上にある。その衣笠貞之助という監督さんの書生をしていた、うちには映画のフィルムが、決戦川中島みたいなやつとかが缶に入ってどんとおいてあったり、スナップ写真があって長谷川一夫さんのとか、そのころはまだ林ちょうじろうといってた頃だけど、そうようなことがあって映画スターを見たり父親は映画に連れていくことも時々あった。
でも憧れはしたけど自分で芸能界に入ってくことは思わなくて、でも高校の時に空手部にいた友だちが軽音楽が好きで、軽音楽部を見に行き、プロを見に行こうって言われて20年以上前になくなったけど、河原町三条にベラミっいうジャズ喫茶に行った。そこに尾藤いさおさんが出てらして、わっすごいと思った。
そしたら中学の同級生のお姉さんの彼氏がバンドをやってて遊びに行こうってことになって、おまえやったらええんちゃうか、って言われた。
その頃高校の勉強が、入ったとき多分ビリで入ったと思うけど、入ったら勉強難しくて難しいから勉強すると頭痛くなるでしょ、だからしない、すると学校行ってもわからないでしょ、わからないからサボるでしょ、そしたらますますわからないし、それを繰り返してほとんどサボってたんですね。そしたら空手部から赤点あるから部活ダメと言われて、学校行く意味ないから、友達のお姉さんの彼氏のバンドに誘われて、モンキーダンス踊ってたんです。ステージの端っこでね。ちっちゃいとこのこの辺で、(って真似)
そしたら背の高い男の人がふたりやってきて「ちょっと話がある」と言われて、曲と曲の間に言われて、河原町の凱旋門という喫茶店に呼び出されて、ケンカ強そうでもないし、呼び出されてどつかれるような覚えもないし、と思ってたら「いっしょにやらないか」って誘われた。それが森本太郎さんと岸部一徳さん。後にファニーズとなり、僕が入った時点ではファニーズになり、東京に行ってフジテレビのヒットパレードに出る前にタイガースという名前をすぎやまこういちさんというプロデューサーがファニーズじゃ弱いからタイガースにしようって。僕らはなんで阪神タイガースなんって言いながらね。そしたら売れちゃったんですよ。
大阪でやってたころ、僕らはルックスではどこにも負けてへんってみんな言うてた。ルックスだけや、僕は一番年下やったし、その頃のことを思い起こすとトークショーなんかやってることが想像もできなかったんですよ。だって森本太郎さんの日記にあるんだから、ある1日の僕との会話、「うん」「はい」しか言わない。1日ずっ~といっしょにいてそれしか言わない。っていう引っ込み思案だったし、明るくなくて陰気で自信がなくて、歌を歌えって言われておまえが必要やと言われて、でも楽器弾きながら歌うの難しいから歌専門のやつ入れようと話だった。で日本一になるって言うてたけど、サリー、タロー、ピー、トッポみんな言うてた。僕だけ「はい」って言いながら内心吹き出しが出てて、そんな世の中あまないでってずっ~と思ってた。でもほんとにそうなった。そうなってしまったらこれがずっ~と続くと思ってた。ところが、ある日、かつみが抜け、岸部シローが入ってきて、そしたらテクニック的にがた落ちになった。
だってシローくんはギターそんなに弾けないし、リードタンバリンをわたしが奪われて、わたし、リードタンバリンだったんだけど奪われて、わたしただ歌うだけになって、でもその頃にはまあ自分で言うのもなんやけどタイガースの中では一番人気もあったから自信も持ててタンバリンなくてもね。
そうこうしてるうちに、芸能界嫌いだとピーが辞めていき、サリーがこれ以上親戚とか友達とか入れて続けていくのはやめようと言ってね。僕なんか「え~っ」って…。別に誰か入れてやろうというのはひとつの方法だけど、そこでそういう決断をした4人がいた。
サリーは自分で辞める前にその頃岸部おさみって言うてた。本名しゅうぞうって言うんですよ、修学旅行の修に数の三ですよ。それをいなかくさいと言われて、おさみと読むようにしようってプロダクションの意向で。おさみさんは岸部おさみグループってのをやってたわけ。ちょっとハードロックじゃないけどロックロックしたものをやろうとしていた。
シローは、ブレッドandバターというグループとやろうと決めてたし、タローはスーパースターって最初はアルファベットか、もうグループ作ると決めてた。ピーはやめて新聞記者になるって芸能界のことをきちんと書くと言ってやめていった。僕だけですよ、どーすんのって言って、自分でなんか考えつくたちの人間じゃないから、心配で心配で、昭和46年の1月24日に武道館で解散したんだけど、その前後に渡辺プロの事務所行って、なんか暇があったらなんか声かけてくれないかなと思って、制作の人たちやマネージャー連中のお茶とか淹れたりしていた。
そういう人間だったんですよ。
そしたらマネージャーの人が来て、サリーがやろうとしていたグループがとてつもない話になってきた。スパイダースから井上たかゆき、大野克夫、テンプターズから萩原けんいち、大口ひろし、タイガースからはサリーとおまえが入ったらスーパーグループやと言われた。「入れて」そこでも自分の意思わなくてなんかふんふんふんという感じで、そうこうしてるうちに、人気だけはあるけど、いつも僕は歌が下手やと言われた。下手や下手やって。亡くなったブルーコメッツの井上大輔さんが週刊明星かなんかで、自分たちも入ってるのに実力採点みたいなコとをしてた。人気は5、実力3と書かれて、ボーカルの点数で僕なんか2と書かれてる。下手やって公共の場でもろに言われてた。僕なんか下手なのわかってるわ、言わんといてくれっみたいな。人気だけはまだあったけど、スーパーグループがスーパーグループにならなかった。掛け算ならいいけど、割り算になって、空中分解みたいになって、もめ事したわけじゃなくて、このグループがどこからも受け入れられへんかったってことですよね。スパイダースのファンの人たちからも、たかゆきさんのファンの
人たちからも受け入れられなくて。ショーケンやひろしのファンからも僕らは受け入れられず、そりゃ見に来るけど、なんか知らんけどいつも変な感じで、地方に行くと顕著で、お客さん入らへんって状態になって、そこで下手だと言われてる僕をソロにしようという空気が生まれてきた。


まだまだ続くけど、いちど送ります。
コメント (4)
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