放射能汚染した廃棄物の処分場は、日本にはありません。福祉国家デンマークに、地下処分の為の候補地が世界で始めて決まりましたが(デンマーク方式)、これが上手くいくかは全く分かりません。日本でも、原発内の使用済燃料プールは一杯で、今後は間隔を狭めて倍の燃料棒を詰め込んでいこうとしていました。(それにしても、微量とはいえプルトニウムも含まれている使用済燃料が、あれほど大量に、それも原子炉圧力容器近くのすぐ上に鎮座していたとは知りませんでした・・・)再処理を行えば、さらに大量の放射性廃棄物が増産されるなか、こうした放射能汚染した廃棄物の処理が待ったなしの問題となっていたところだったのです。
しかし現在、汚泥及び溶融スラグの処理と処理場の問題が喫緊の課題であり、また校庭における汚染土の問題も、早急に答えを出さなければならない問題として出てきています。
報道(『朝日新聞』)では、「文部科学省が設けた校庭の放射線基準値(年間20mSv)の見直しを求めて、・・・「子どもたちを放射能から守るネットワーク」が結成され、また「福山市や郡山市など5市1村の首長は1日、校庭の表土を除去した後の処理方法を早急に示すよう、高木義明文部科学相に要請」したそうです。
こうした動きは当然ですし、これに政府も迅速に対処していかなければならないと思います。ただ一つだけ、私がこうした(処分場や廃棄物の)問題に関して気になるのは、そこに必ず「差別(と排除)」の構造が、抜き差しがたく存在していることです。
例えば、この校庭の汚染土について言えば、校庭の放射能汚染された土を除去して欲しいと願う(当然です)親御さんたちは、この汚染された土が何処に捨てられるのか、そしてその後どのような汚染を来たし、どれだけの方が健康被害を起こすのかには考えをきたしていないと感じます。ましてや、その処分場の近くにも子供たちがおり、その子どもたちの身体にどのような放射能の被害が及ぶのかは、ご自分のお子さんのことで頭が一杯で、脳裏にも浮かんでいないように思うのです。(勿論、そのような方々ばかりではないと思いますが)それは、行政も同様で、汚染土を撤去しようと考えたところまでは良いのですが、既存の処分場の住民の方々が、どのように思われるのか、その地域の方々の健康にどのような影響を及ぼすのか、考えていなかった、いえ、考えたけれど、それを無視したと思われる点なのです。(それは明らかに「差別」です)
これは緊急時だから、或いはそこまで余裕がなかったからと思われるかもしれません。しかしながら、一度でも処分場問題に関わられた経験のある方ならば、一般の多くの市民の方々が、自分たちの捨てたゴミが何処にどのように処分されているか知らず、ましてやその処分場から様々に有害な重金属類がガスとして大気へ(有機水銀などは常温で気化します)、そして地下水から土壌へさらには海へと漏出し、深刻な健康被害をもたらしていることに殆ど関心を示さないことを知っています。自分の見えないところに廃棄物が行ってしまえば、自分たちに危害が及ばなければ、それほど関心はないのが現実です。
通常、処分場がある地域は、その県内でも貧しく人口が少ない町や村、地域が選ばれます。(実際、かつての、いえ現在も歴然とある「」だった地域が非常に多いのです)金持ちの町から、貧しい町へ、人口の多い町から過疎の町へ廃棄物は流れていきます。汚い物を、汚染された物を、見えない所へ、できるだけ遠くへ追いやりたいという誰にでもある気持ちが、いつの間にか「差別」を生み、自分より貧しい人間や地域を実質的に排除してしまっているのです。
処分場と同じように、原発も(基地も)同じ構造の中で、貧しい、田舎へ押しやられます(「沖縄ポジション」です)。危険なだけに、一層そうした力が働きます。一度受け入れれば(経済的な面でも、政治力学的な力関係からしても、受け入れざるを得ない場合が殆どです)、次から次へと受け入れるしかなくなります。(福島第1原発のように、1号機が6号機にまで増大してきます。福島第2原発もできてきます。所謂「金縛り」というものですか)「一旦汚染したら、同じじゃないの」みたいな観念が「差別」の固定化を促します。
私が汚染土の処分地を、福島第1原発の近くにしてはと書いたのも、この「差別」の最たる考え方の良い例です。もう高濃度に汚染しているのだし、非難して住民も殆どいないのだから、ここならいいんじゃないの!?という「考え」です。この案は、大多数の方がそれほど抵抗なく受け入れ易いと思います。「差別」(と「排除」)に基づいた考えは、人間本来の「我欲」に沿ったものですから、非常に受け入れ易いものなのです。私なども、すぐにそうした考えに流されます。そして現実には、そうした「差別(と「排除」)に基づいた構造(システム)が出来上がっていて、自然にその流れとなっていくのですが、ここに大きな落とし穴も待っているわけです。
差別(排除)する側、原発事故で言えば、宿泊拒否をしたり、汚染が移るといじめたり、野菜や牛乳を買わないようにしたり(勿論避けるべきなのですが)、スクリーニングを受けろと言ったりしている側にいつも居られれば良いのですが(良くはないですか)、これはいつ逆転するか分かりませんし、或いはさらに別の「他」から差別(排除)される(外国からの輸入禁止措置等)かも分かりません。(その意識すらなく)差別(排除)しているつもりが、他から差別(排除)されているという状況に陥らざるを得ないのがこの世なのであって、この「我欲」(煩悩)に基づいたこの世界の「利」のシステムなのです。福沢諭吉はこれを、「自他の壁を厚くする」という風に表現しました。哀しいかな生きていく(生き残る)為に、人間だけでなく、地域も、国もそういう「差別と排除」しているのです。その最たるものが、極致が「戦争」なのですが、やはり福沢が説いたように、戦時と平時に「差別」(しゃべつ)などなく、原発であろうと、企業活動であろうと、常に「殺し合い」の戦争状態が続いているのです・・・
そしてこの「利」のシステムがある限り、もっと言えば我欲(煩悩)がある限り、「差別と排除」はなくならず、原発どころか、処分場も、基地もなくなることはないのです。(つまるところ、戦争も)逆にいうと、原発だけなくなっても、処分場がなくなっても、基地がなくても、やはりこの世界から「差別と排除」(戦争と殺し合い)がなくなることはないのです・・・
それでも、余りに危険で、余りに犠牲(コスト)が大きいものは、やはり止めましょうと、(極悪人を自認する私でも)勇気を振り絞って言いたいと思うのです・・・
しかし現在、汚泥及び溶融スラグの処理と処理場の問題が喫緊の課題であり、また校庭における汚染土の問題も、早急に答えを出さなければならない問題として出てきています。
報道(『朝日新聞』)では、「文部科学省が設けた校庭の放射線基準値(年間20mSv)の見直しを求めて、・・・「子どもたちを放射能から守るネットワーク」が結成され、また「福山市や郡山市など5市1村の首長は1日、校庭の表土を除去した後の処理方法を早急に示すよう、高木義明文部科学相に要請」したそうです。
こうした動きは当然ですし、これに政府も迅速に対処していかなければならないと思います。ただ一つだけ、私がこうした(処分場や廃棄物の)問題に関して気になるのは、そこに必ず「差別(と排除)」の構造が、抜き差しがたく存在していることです。
例えば、この校庭の汚染土について言えば、校庭の放射能汚染された土を除去して欲しいと願う(当然です)親御さんたちは、この汚染された土が何処に捨てられるのか、そしてその後どのような汚染を来たし、どれだけの方が健康被害を起こすのかには考えをきたしていないと感じます。ましてや、その処分場の近くにも子供たちがおり、その子どもたちの身体にどのような放射能の被害が及ぶのかは、ご自分のお子さんのことで頭が一杯で、脳裏にも浮かんでいないように思うのです。(勿論、そのような方々ばかりではないと思いますが)それは、行政も同様で、汚染土を撤去しようと考えたところまでは良いのですが、既存の処分場の住民の方々が、どのように思われるのか、その地域の方々の健康にどのような影響を及ぼすのか、考えていなかった、いえ、考えたけれど、それを無視したと思われる点なのです。(それは明らかに「差別」です)
これは緊急時だから、或いはそこまで余裕がなかったからと思われるかもしれません。しかしながら、一度でも処分場問題に関わられた経験のある方ならば、一般の多くの市民の方々が、自分たちの捨てたゴミが何処にどのように処分されているか知らず、ましてやその処分場から様々に有害な重金属類がガスとして大気へ(有機水銀などは常温で気化します)、そして地下水から土壌へさらには海へと漏出し、深刻な健康被害をもたらしていることに殆ど関心を示さないことを知っています。自分の見えないところに廃棄物が行ってしまえば、自分たちに危害が及ばなければ、それほど関心はないのが現実です。
通常、処分場がある地域は、その県内でも貧しく人口が少ない町や村、地域が選ばれます。(実際、かつての、いえ現在も歴然とある「」だった地域が非常に多いのです)金持ちの町から、貧しい町へ、人口の多い町から過疎の町へ廃棄物は流れていきます。汚い物を、汚染された物を、見えない所へ、できるだけ遠くへ追いやりたいという誰にでもある気持ちが、いつの間にか「差別」を生み、自分より貧しい人間や地域を実質的に排除してしまっているのです。
処分場と同じように、原発も(基地も)同じ構造の中で、貧しい、田舎へ押しやられます(「沖縄ポジション」です)。危険なだけに、一層そうした力が働きます。一度受け入れれば(経済的な面でも、政治力学的な力関係からしても、受け入れざるを得ない場合が殆どです)、次から次へと受け入れるしかなくなります。(福島第1原発のように、1号機が6号機にまで増大してきます。福島第2原発もできてきます。所謂「金縛り」というものですか)「一旦汚染したら、同じじゃないの」みたいな観念が「差別」の固定化を促します。
私が汚染土の処分地を、福島第1原発の近くにしてはと書いたのも、この「差別」の最たる考え方の良い例です。もう高濃度に汚染しているのだし、非難して住民も殆どいないのだから、ここならいいんじゃないの!?という「考え」です。この案は、大多数の方がそれほど抵抗なく受け入れ易いと思います。「差別」(と「排除」)に基づいた考えは、人間本来の「我欲」に沿ったものですから、非常に受け入れ易いものなのです。私なども、すぐにそうした考えに流されます。そして現実には、そうした「差別(と「排除」)に基づいた構造(システム)が出来上がっていて、自然にその流れとなっていくのですが、ここに大きな落とし穴も待っているわけです。
差別(排除)する側、原発事故で言えば、宿泊拒否をしたり、汚染が移るといじめたり、野菜や牛乳を買わないようにしたり(勿論避けるべきなのですが)、スクリーニングを受けろと言ったりしている側にいつも居られれば良いのですが(良くはないですか)、これはいつ逆転するか分かりませんし、或いはさらに別の「他」から差別(排除)される(外国からの輸入禁止措置等)かも分かりません。(その意識すらなく)差別(排除)しているつもりが、他から差別(排除)されているという状況に陥らざるを得ないのがこの世なのであって、この「我欲」(煩悩)に基づいたこの世界の「利」のシステムなのです。福沢諭吉はこれを、「自他の壁を厚くする」という風に表現しました。哀しいかな生きていく(生き残る)為に、人間だけでなく、地域も、国もそういう「差別と排除」しているのです。その最たるものが、極致が「戦争」なのですが、やはり福沢が説いたように、戦時と平時に「差別」(しゃべつ)などなく、原発であろうと、企業活動であろうと、常に「殺し合い」の戦争状態が続いているのです・・・
そしてこの「利」のシステムがある限り、もっと言えば我欲(煩悩)がある限り、「差別と排除」はなくならず、原発どころか、処分場も、基地もなくなることはないのです。(つまるところ、戦争も)逆にいうと、原発だけなくなっても、処分場がなくなっても、基地がなくても、やはりこの世界から「差別と排除」(戦争と殺し合い)がなくなることはないのです・・・
それでも、余りに危険で、余りに犠牲(コスト)が大きいものは、やはり止めましょうと、(極悪人を自認する私でも)勇気を振り絞って言いたいと思うのです・・・