プルサーマル計画を憂慮する有志の会

愛媛県伊方発電所3号機におけるプルサーマル発電の問題を考える有志の会です。

市長の賠償「帳消し」議決、有効?

2010年08月30日 | 日記
 8月27日付『朝日新聞』によると、
「住民訴訟で自治体首長が賠償を命じられても、議会が首長への請求を放棄して『帳消し』にする議決が相次いでいる問題で、大阪高裁の三浦潤裁判長は27日、神戸市の補助金支出について市議会が返還請求権を放棄した議決を『有効』とする判断を示し、一審で敗訴した住民側の控訴を棄却する判決を言い渡した。」

「首長への返還請求権放棄の議決をめぐっては、昨年11月に大阪高裁、同12月に東京高裁が『議決権の乱用だ』などとして議決を『無効』としたが、高裁レベルで判断が分かれる結果となった」

「27日に判決があったのは、神戸市が2007~08年度に外郭団体に派遣した市職員の人件費に市が補助金を支出したのは違法として、市民団体が08年12月に提訴した訴訟。市が補助金支出を決めた市長に約206億円を返還させるように求めていた。一方、神戸市議会は昨年2月、市が返還請求権を放棄するとした条例を議決。昨年11月の神戸地裁判決は同議決を有効として住民側の請求を退けていた」、とのことです。

 以上のようにこれまでの住民訴訟の判決は、地裁、高裁レベルで判断が分かれています。今回の判決は、住民側の主張を一方的に棄却した、日本の「三権不分立」(癒着)の典型的なものです。そもそも、行政の裁量を露払いする議会に、その判断にお墨付きを与え、住民の訴訟という追っ手を切り捨てる裁判所、このように3者(三権)がスクラムを組んで、行政の違法行為を「裁量」という名で覆ってしまうのです。

ただ裁判官の中にも、この「三権不分立」(癒着)の構造を理解できないお方(裁判官としての出世を捨ててでも、法に則った判断を下そうとする裁判官)がおられたり、今回のように違法性が明確な場合のケースは、住民にとって画期的な勝訴判決が出るのですが、それも、地裁判決は高裁で、高裁判決は最高裁で棄却されることが殆どですし、様々な禁じ手が行政から繰り出されることになります。

つまり今回のケースのように、外郭団体への派遣職員の給与を補助金で肩代わりすることが、公益法人等派遣法違となる流れができると、今度はその市長の違法支出を、議会を使って請求権を放棄させる、或は判決が出る前に条例を改正して違法判決を無効化させる等、国民からは余りにも無茶だと思えるようなことも平気でやってのけます。それを受けて今度は司法が、それは『有効』ですと判決を下せば、通らぬ理も通るという「理」なのでしょう。

 裏金等の住民訴訟を見てみても、たとえ不正支出との違法判決が出ても、行政に対して強制的に「違法」判決に従わせることはできません。本質的に三権は不分立(癒着)でありながら、行政にとって都合の悪い違法判決が出た時だけは、三権は分立しており司法の判断によって行政の裁量権が侵されることはないという、「三権分立」が持ち出されるのです。

こうした違法判決に対して、行政はまず請求権を行使しませんから、もし住民がそれに不服ならば、請求権を行使しないことが違法であるとの裁判を再度提起するしかありません。もし仮にこれが再び勝訴しても、またまた行政は請求権を行使しないでしょう。住民訴訟の無限ループが、行政の違法行為の無期限棚上げシステムが、敢然として住民の前に立ちはだかるようになっているのです。これが「権力」というものであり、これができないようなら「権力」の名にも値しないものだとも言えるでしょうが・・・。

 それにしても、地方自治法改正によって、住民から違法支出として裁判を提起された首長(元首長も含めて)は、その裁判費用を税金で、しかも職員をフル動員しての訴訟に臨むことができるようになりました。住民の税金を違法に支出した首長に対する裁判を、住民の税金でやり、一方住民側は手弁当で時間や労力をつぎ込み、裁判費用まで自腹でしなければならないのです。それも無限ループの終わりなき裁判をです。さすが議会です。行政を守るために法改正を行います。まあ、それが本来の職責なのでしょうが・・・(いつも愚痴ばかりで申し訳ありません)

沖縄の独立論

2010年08月28日 | 日記
 8月24日付の『朝日新聞』に、「独立を言わせないで」という見出しで、三人の沖縄出身者のオピニオンが紹介されていました。

琉球大学教授の島袋氏は、「復帰に際し、・・・政府は振興開発による土建政治に沖縄を組み込みました。・・・基地問題を争点から外そうとしたのです」「今、米兵に対する裁判権放棄や基地の自由使用など日米安保条約の前では人権も憲法もない」、「政府は、そんな属国的状況を沖縄だけの特殊事情だと言い繕っている」と言います。

ライターの知念さんは、「沖縄は早く自立した方がいいなどと議論されますが、沖縄はそもそも自立しています。文化的にも精神的にも政治的にも。日本の方こそ、沖縄への依存をやめて独立してほしい。沖縄が自立を進められないのは、日本が沖縄という植民地に従属しているから」と訴えます。

また、「琉球自治共和国連邦独立宣言」を発表した龍谷大学教授の松島さんは、「独立すれば、ホテルや航空会社は法人税を日本ではなく沖縄・琉球に納めることになります。日本政府の規制から外れれば、特区や特別自由貿易地域をさらに進められる。アジア諸地域と独自のネットワークを結べば、日本の中にいなくてもやっていける。基地がなくなれば『危険な島』ではなくなります。投資や観光はさらに増えるでしょう」と述べられています。

 彼らの意見に対し伊予民族の一人である私が個人的な共感や反論を一々するつもりはありません。実際に民族自決権があると考えるならば、国連に申請し、独立国としての手続を進めるのは沖縄民族の自由意思によるものだと思います。
 しかしながら、日本(本土)への復帰運動、その選択を行ったのは沖縄民族自身です。それをもし間違っていたと言うならば、今度日本からの分離・独立運動をしたとしても、やはりそれも間違いだったということになるのではないかと懸念します。しかも結果はさらに悪いものとなるのではないかと・・・

 沖縄では、こうした独立論は一般的なもののようです。ある調査では、沖縄人の4人に1人が独立を支持しているといいます。ただ、独立と一言で言っても、その内容はかなり幅のあるもので、それぞれの利害や考えも違っているようです。だが、その「独立論」への思いの中には、日本政府への積年の不満、批判の思いが大きなウェートを占めているように感じます。

実際、戦後、1952年の平和条約の発効にともない、沖縄は米国に接収されました。1971年に国会で議決された「沖縄の基地縮小」決議は最早、有名無実化しており、日本全土の0.6%の土地に、日本駐留の米軍基地の75%が集中している状況は今なお全く変わってはいません。1997年の「軍用地特別措置法」は、9割の国会議員の賛成で可決されましたから、日本国が沖縄を米国へ売り渡したと感じるのももっともなことです。
 
 私たち伊予民族も、基地問題に関しては沖縄を差別していることを認めねばなりませんが、福沢の「世界の貧は悉く下流に帰す」ではありませんが、「日本国の米軍基地は悉く下流に帰す」です。何故主権を所持しているはずの日本国に、米軍基地がこれほどあるのか、それがまた沖縄に集中しているのか、それは、福沢に従えば、日本は未だに完全なる主権を、自己決定権を持ってはいない、と言うことなのかもしれません。沖縄が米国の属領であるように、日本国そのものがび米国の属国に過ぎない、だから基地問題を解決する自由は、その決定権は日本国にはない、(勿論伊予民族にもありません)ということではないでしょうか。

日本の「民主主義」、否世界の「民主主義」からするならば、その総意が、沖縄を差別し、基地を集中させること、なのかも知れません。またそうした状況が厳然と存在しているのです。これが、現在の軍事・経済・政治システムの「決定」したことなのです。この流れに逆らうことも、異議を申し立てることも、実質的にはできないのです。勿論しようと思えばできますが、それはこの世界のシステムにたいする「テロ」ということとなり、実力により徹底的に潰されてしまうでしょう。
 
このように沖縄一県どころか、日本国そのものが米国だけでなく、時期覇権国の中国との間に挟まれ、どのように生き抜いていくのか、或は米国の属領から、今度は中国の属領へとその主権が移動するのではないかと怯えながら(私だけですか?)状況を見守る厳しいなかで、沖縄は果たしてどうやって独立を達成し乗り切っていこうというのか、私には途方もなさ過ぎて妄想すら追いつくことができません。

 私の妄想の限りでは、独立した沖縄を完全に米国が掌握、今度は「米中覇権連合」成立の手土産に、中国に沖縄を人身御供に差し出すことぐらいです。日本政府だって、自身の生き残りのためには、沖縄民族どころか、九州や四国ぐらいは差し出す準備はあるのではないかと妄想します。国が、政府が、ほんとうに私たちを守ってくれるなんていう幻想は抱かない方が良いでしょう。それくらいなら、妄想を逞しくし、生きるためのビジョンを模索することの方が大切ではないかと思うのです。

それにしてもこの独立論の最大の問題は、独立すればこの世界の差別構造(福沢はそれを「文明」「半開」「野蛮」と表現しました。沖縄は、「文明」のなかの「野蛮」である日本国の、「野蛮」に当ることになります)から逃れられると思っていることです。しかしながら、この世界の軍事・政治・経済のシステムから逃れる方法など、その力を持つことなど、日本一国とてもかつての過去の試みを見ても分かるように、到底及びもつかないものであり、実現などほとんど不可能なことなのです。

ほんとうに沖縄が独立し小国となれば、米国や中国の圧力をまともに受けることなり、さらに大きな負担を強いられることとなるでしょう。某友人の話では、実際米国は沖縄の独立を望んでいるとのことなのです。日本一国を相手にするよりは、さらに小国の沖縄と交渉する方が、さらに米国に有利な協定を結ぶことができるからです。沖縄はさらに抑圧され、使役され、差別されるでしょう。

それでもプライドをもって独立すると言うのならば、私は賛成したいと思います。ただ、そのことで払わなければならない犠牲は、もっともっと多大なものとなることだけは避けられないように思いますが・・・

P.S. 独立論のなかには、工業振興経済特区制を導入したり沖縄のフリートレードゾーン化や、港湾設備等によりハブ港としての役割を担って経済復興すればいいとの思惑があるそうですが、こうした経済のあり方こそ、まさにこの世界の軍事・政治・経済システムそのものなのであり、そのシステムの上にありながら、そこから独立し自立しているなどと、ゆめゆめ妄想しないようにお願いしたいのです・・・

P.S. 伊予民族(ちなみに某友人と私は、「伊予エスニック共同体」というたった二人の独立共同体を作っています)も本当は独立をしたいのです。しかし基地どころか、原発1基も、否、処分場一つなくすことができません。私たちが提言していることは、如何ともし難いこの世界の軍事・政治・経済医ステム(某友人はこれを、『「覇権システム」とその秩序』と呼んでいます)のなかで、ほんの少しでもこのシステムから軸足を移した生き方を模索していこうということです。これがまた困難なことなのですが・・・

「脱日入亜」の歩み

2010年08月27日 | 日記
 先週のNHKスペシャルは、アジアの一大生産基地となりつつあるタイの特集でした。

現在のタイは、政治的混乱(タクシン派の反乱)があるにもかかわらず、経済的な好調(経済成長率7%)を保ち、FTA(自由貿易協定)によるアジア地域内(中国、韓国、インド、日本等含む)での関税撤廃を前に、アジアの生産基地としての地位を確立しつつあります。

このEUをも凌ぐ巨大市場がタイを起点に誕生するのですが、その規模は、アジア全体で9億人の中間層が出現するとのことで、自動車をはじめ巨大な需要がそこに生まれ、これまで日本の製造業を支えてきた地場の日本企業の生命線は、こうした製品の部品供給の一端を担えるかどうかのようです。

かつては日本企業によって(旋盤や金型等の)技術が輸出されていましたが、今ではその立場は逆転、タイメーカーによる日本企業の買収さえ生じています。最早タイの競争相手は日本などではなく、新興著しい中国やインドなのです。いつまでもJapan As No.1の亡霊に振り回されていると、生き残ることはできない状況のようです。

 ちなみに、かつての「世界の工場」としての日本から失われた生産額は年間35兆円、雇用にして96万人の流出だそうで、日本国内の空洞化と中間層の剥離は数字的にも裏付けもされました。

 こうした経済の衰退は、失われた10年、否20年の政治的無策にも遠因はあろうかとも思いますが、こうした例えば、「世界の工場」としての「役割」は、必ず終焉を迎え、生き残れる大企業は多国籍化し(つまり「多国籍」という名の無国籍企業となり)、国内は空洞化、金融業を中心とするサービス業化とともに、中間層の地盤沈下が起こり、失業率の増加と貧困層が増大します。

 これはイギリスも米国も、日本も(さらに遡ればイギリス、スペイン、ポルトガル等も)同様の道を辿ってきているのであって、まさにこの世界の政治・経済・軍事システムのある役割を担った国の、構造的な成長と衰退の過程が如実に現われているものと認められます。

 ですから、現在の飛ぶ鳥を落とす勢いの中国、インド、タイ等も、早晩(早ければ数十年後、遅くても50年から100年後には)その役割の終焉とともに衰退し、やがては現在日本が目指している「高福祉国家」への道を辿ることになるのでしょう。

 しかし、以前にも申し上げましたように、この「高福祉国家」を実現できるのは、ほんの一部の国、まさに「覇権国」や「世界の工場」としての役割の恩恵を十二分に享受できた国だけであって、その間に多額の富を蓄積できた国だけにその可能性があるのです。それはつまり逆に言えば、それだけ多くの富を国外の国々から頂いた国だけなのです。その富は、まさに多くの人々の犠牲(コスト)の上に積み上がったものであることは、否定のしようがありません。

 今後繰り広げられるアジアを舞台とした経済戦争、「脱日入亜」の歩みと、また資源等を巡る実際の戦争(戦闘)へ、またぞろ日本と日本人は(今度は「文明」のなかの「野蛮」として)巻き込まれていく、生き残るためには巻き込まれざるを得ないのだという思いに、何とも言えない憂鬱な気分に落ち込んでしまうのです・・・

住宅ローン破綻

2010年08月26日 | 日記
8月14日付の『朝日新聞』の、夢のマイホームを手放す「住宅ローン破綻」の記事が掲載されていました。(以下引用しながらご紹介させて頂きます)

「全国の競売件数・・・2008年度の1.3倍の計約6万件」、「住宅ローン破綻が起きている」といいます。「老後まで続く返済、貯蓄なし、借金。誰が見ても無理なローンがなぜ組まれたのか」、「バブル崩壊後、企業向け融資の採算が悪化し、銀行は住宅ローンに活路を求めた」、「ある銀行の営業マンは『銀行の審査は甘くなっている』と打ち明ける」、「金利の安さと審査の早さを競った」、「機械的にバッサバッサ審査した。銀行員が全物件をみるのをやめ、子会社やよその会社に委託するようになり、審査が相当緩んだ」、その結果、「『貸し過ぎ』の一方、借りる人たちは、返済できないリスクが高まるばかり」だそうです。

結局ローンを払い切れなくなった人がマイホームを競売(けいばい)に掛けられ、家を失ったうえに多額の借金を抱えてしまったり、さらに自己破産に追い込まれるケールが増えているのです。

これまでにも、バブル後の1998年に景気対策として政府が住宅金融公庫の基準金利を2%の引き下げたのを機に、住宅ローンを組んで新居を購入した人が、10年後年4%の金利(段階金利型)となって支払いが増え、ローン破綻したケースが問題になっていました。(勿論不況で給料、残業代やボーナスが減ったり、会社の倒産やリストラで職を失うケース、再就職できても給料は減ってしまう等の要因はあるとしても)このシステムそのものに、私などは隠された「罠」を感じてしまうのです。

  このように何度も繰り返される「住宅ローン破綻」は、政府と銀行(金融機関)と不動産会社が結託して張り巡らせた「罠」のように思うのは私の妄想ゆえでしょうか。
 元手を貸しては剥ぎ取り、貸しては剥がし、最後には家どころか(自己破産によって)全てのものを(社会的信用も家族の繋がりも、そして命までも)奪ってしまうこのシステムは、まさに博打そのもので、その胴元が政府、銀行、不動産会社の官民複合体ではないのでしょうか。(余りにも悪意に取り過ぎているのならいいのですが)少なくともそのように妄想するならば、ローン地獄や自己破産、そして自死(私には計画的他殺と思えますが)へと繋がる不幸な連鎖に対する、自己防衛となるのではないかと思うのです・・・

P.S. 私の知人が今年、同様のローンで家を新築しました。40代の未婚の女性に、それも年収500万にも満たない者に対して、30年ローンを認めたのです。順調に払い続けることができたとして70歳を超えます。当然その間に職は失うでしょう。病気に掛かる確立は年々増加します。親の介護も今後切実なものとなってきます。どのように考えても、払い切ることなどできない計算です。にもかかわらず、こうしたローンを組ませることに対して(このようなケースは最早犯罪です)、私は強い憤りを感じます。もし、私がもっと早く知っていたら、いくら経済的な知識のない私といえども、このローンに対しては「罠」があると提言できたのですが・・・

福島県のプルサーマル計画

2010年08月24日 | 日記
 福島県では、今月6日に知事がプルサーマル計画(東京電力)受け入れを表明、21日には、島第一原発3号機へMOX燃料が装荷されました。34年も運転し老朽化した原発にMOX燃料が装荷されたのは初めてのことです。(BWR型原発でも初だそうです)

 この装荷されたMOX燃料のうち32体は、11年前にベルギーのベルゴニュークリア社によって製造・搬入され、貯蔵されていたもので、当時イギリスのBFNL社がMOX燃料の品質管理データを捏造していた事件を受け、東電に対してプルサーマル差止裁判が提起され、その裁判の中でも、当該データが完全公開されることなく(データの捏造が疑われます)、そのMOX燃料の品質に疑義が残ったままになっていた燃料です。(プルサーマル計画そのものは、東電のトラブル隠し等により中止に追い込まれました)

 こうしたデータを取得して、精査することなく国は合格証を出しているわけですから、その品質及び安全性には何らの信憑性も認めることはできないものです。(追加製造されたメロックス社製のMOX燃料に関しても、未だ品質管理データは公開されていません)

ましてや、11年も前の燃料ですから、そのような燃料を使用することで挙動が不安定にならないか、不安は尽きません。さらに、原発そのものも老朽化しているとなると、危険も三乗となるのではないでしょうか。まるで過酷事故という断崖へ突っ走るチキンレースであるかのようです。(正直、止めて欲しいのです)

 一方使用済み燃料問題に関しては、事業主体である東京電力が、「『貯蔵・管理』が『処分の方法』にあたる」との見解でプルサーマル計画を申請、国は、「使用済燃料の「貯蔵・管理」については、原子炉等規制法第23条第2項に定めた「処分の方法」にはあたらない」との見解ながら、原子力事業を行う際の重要な要件である使用済み燃料問題を棚上げにしたまま許可を与え、県もまた受け入れを認めました。

 これは、今までに実施されている全てのプルサーマル計画に言えることで、使用済み燃料をどうするのかという問題は、非常に重要な要件に当り、この要件をクリアしなければ本来原発を運転することすら認められないはずなのですが、放射性廃棄物である使用済み燃料の処分の方法すら決まってない状態でこうした計画が進むこと自体、(私の妄想の中では)異常なことです。

結局のところ、国の審査は有名無実、「原子炉等規制法」もザル法で、その運用も恣意的なものであれば、国策であるプルサーマル計画そのものを止めることは、到底叶わないものなのかも知れないのですが・・・

 使用済み燃料に関しては、老朽化した燃料プールに長期保管(実質、最終処分場化)するとなると、イギリスや米国のように放射能に汚染された水が漏洩する危険性も常に付きまとうわけで、老朽化対策がなされないままでの受け入れの点でも問題があると思います。(福島県は老朽化対策を受け入れの条件にしていたとのことですから、尚更です)

 現在福島では、市民の方々がこの猛暑の中、県庁前で座り込みによる抗議活動を行っているとのことです。また、知事宛のメッセージを募集されています。


 送信フォームのURL等は以下になります。(「ふくろうの会」のHPより転載)

http://fukurou.txt-nifty.com/fukurou/

知事宛に直接に電話、ファックス、メールを送る場合は以下になります。
福島県知事 佐藤雄平 様
FAX024-521-7900/電話024-521-7009
メール hisho@pref.fukushima.jp


P.S. 未だ県民説明会すら開かれてはいないとのことですが、黙って国に命を預けるのには、余りに心もとない事実が山積しているのです・・・

地方議会は廃止?

2010年08月23日 | 日記
 河村たかし名古屋市長が市議会解散(パソコンで変換すると「死」議会と出ました、偶然でしょうか?)を求めてリコールのための署名運動を行うとか。一方阿久根市議会では、専決処分を繰り返し議会を開かない竹原市長に対するリコールの署名運動が行われています。

 どちらのリコールも市民、国民に与えられた地方自治法上の権利ですが、今問われているのは、議会そのものの存在意義ではないかと思うのです。地方議会の大きな職責は、法律(条例)制定と予算のチェックだと思います。しかしながら、その職責を果たしている議会が、この日本中のどこに存在しているのでしょうか?

 ちなみに私の在住する愛媛の県議会では、50名弱の県議の3分の2が自民党、以下民主党、民社党、公明党は全て与党であって、野党議員は共産党、環境市民が各1名の2名です。討論といっても、この2名の野党議員が反対討論を行うのに合わせて、反対の「反対」討論を行う(それも殆ど県庁職員の書いた原稿を棒読みするだけの)セレモニーが上品な(?)野次付で遂行されます。

 そのときばかりは、いつも腕組みして居眠りに興じている知事が覚醒するのです。ほんとうに馬鹿馬鹿しい議会です。委員会に至っては、学芸会も真っ青の有様で、県庁職員から渡された資料の意味もわからずに、トンチンカンな質問をして失笑を買っている始末です。野党議員の所属している委員会で、理事者を厳しく問う質問など出ようものなら、理事者をあからさまに庇う発言が飛び出してきます。

 これでは行政のチェックどころか、行政(知事)のお先棒担ぎかガードマンであって、実際圧倒的な数を誇る与党議員たちが、知事と県庁の提出した予算案や条例案を、諸手を上げて通過させる、単なる儀式が行われているだけなのです。このような議会に、存在価値が果たしてあるでしょうか。

 県議会議員の年間の給料1300万+政務調査費約400万(だったと思うのですが)に値する仕事をしているかといえば、一部の議員を除いて「否」というしかありません。他の県議会、地方議会の現状は分かりませんが、推して知るべしかと思います。

 であるならば、最早存在価値のない地方議会はいっそ廃止をしてしまって、知事以下副知事、3役や重要なポストを直接選挙で選出し、さらにその監視役として(裁判員ならぬ)市民オンブズを15名ほど、それこそ無作為抽出で選任の上、弁護士、公認会計士、税理士等の専門家スタッフを常駐させて、予算の厳しいチェックや「仕分け作業」を行えば十分議会の果たすべき役割は遂行され得るものと思います。

 これで大幅な予算カット(選挙から議員の給料・年金等)が断行でき、市民の目が行政に反映され、透明性の高い行政の運営が確保できるのではないでしょうか。こうすれば、やる気のある知事や市長、町長が、市民、住民の為に必要な改革を確実に断行することができるのではないかと思うのです。

 県民、市民が置き去りにされてきたこれまでの地方行政、地方議会に、風穴を開けるためにも、最早議会はお荷物以外の何物でもないと、多くの国民は気付き始めているように思うのですが・・・

熱中症にも格差社会?

2010年08月21日 | 日記
 この猛暑の中、熱中症で亡くなられる方が日々報道されています。ちなみに、8月20日付け『朝日新聞』によると、この3ヶ月弱の間に、熱中症で病院に搬送された人が3万余、そのうち65歳以上の高齢者は1万5千人余、その中で死亡が確認されたのが132人で、この一ヶ月の死亡者100人中、91人が65歳以上の高齢者で、その大半が屋内で死亡されたそうです。

 しかしながらこの熱中症とその死亡者(心よりご冥福をお祈り致します)にも、格差社会の陰が、社会的差別(しゃべつ)が存在しているようです。
 福沢が世界を「文明」、「半開」、「野蛮」という格差ある世界にたとえましたが、その「文明」の中にも、上中下が、「半開」「野蛮」にも上中下が確実に存在しています。

 現在「文明」の国、日本で亡くなられている人の多くが、「文明」の国日本の中の、「野蛮」に位置する人々であり、その中でも社会的弱者、経済的に行き詰まった生活を送っている老人が最も多いように思われます。
 
また言うまでもなく、クーラーの効いた部屋で十分に水分を補給できる「文明」の中の「文明」に位置する労働者のなかには、熱中症になられる方は殆どいないのではないでしょうか。(かく言う私も、日々(毎日ではありませんが)炎天下で肉体労働をして日当を頂き、それで生活を営んでいる「文明」のなかの「野蛮」に属する者です)
ここにも、「文明」の中の「野蛮」に属する人々の犠牲がある、老人や肉体労働者、まさに貧困に喘ぐ人々が、この「文明」のなかの格差社会において、その犠牲となっている、その構造が透けて見えてくるのです。

 危険だと分かってはいても、クーラーどころか扇風機も持ってない人々が、対処のしようもなく亡くなっている。これは明らかに政治の問題であり、経済的な差別(しゃべつ)がこの「文明」の中にもあることの証左だと思います。

 ましてや、世界における「半開」や「野蛮」の国の人々は、さらに厳しい状況におかれているといわざるを得ません。今年の異常気象は世界的が現象であり、やはり貧しい国々、「半開」や「野蛮」に属する人々の多くは、こうした異変に対処することもできずに、命を落としているように思います。(統計は分かりませんが)

ただ、「半開」や「野蛮」の国々の中でも、その中でも裕福な「文明」に位置する人々は、自衛する余力(経済力)をもっているのであって、命を落とすことなく生きていけるのです。これは明らかに、この世界の経済・政治・軍事システムが、格差を前提とし、より弱いもの、より貧しいものを踏み台にして生きることの表れなのだと思います。福沢の言うように、「半開」は「野蛮」を、「文明」は「半開」、「野蛮」の下支え(犠牲)によって成り立っているということではないでしょうか・・・

P.S. それでも福沢は、「文明」を目指すことを国是と認めたのでした。どの国も「野蛮」や「半開」に止まりたいと望む国はありませんし、「文明」「半開」「野蛮」の中でも、誰もその中の「野蛮」にはなりたくはない、というのがほんとうのところでしょう。その為に相争い、熾烈な生き残りゲームに奔走する、それを虚しいと思うかどうかは、それぞれの人生、理解によるのだと思います。
 ただし、国が国是として決定した国策を、たとえ望まなくとも、国民が無視して生きることができるなどと、誰が簡単に言えるでしょうか・・・

P.S.2 しかも私のような「欲」にまみれた人間は、亡くなられた方には申し訳ないのですが、やはり扇風機も買えず、電気代を気にして、持っていてもかけられないで死にたくはないのです。だから、嫌でも、最低限のものを得ようとしますし、その上に立てるのなら、他の人を犠牲にすると分かっていても、その踏み台(犠牲)の上に居続けてしまうのです・・・

低レベル放射性廃棄物、一時(?)貯蔵受け入れ

2010年08月20日 | 日記
8月19日付け「読売新聞」(YOMIURI ONLINE)によると、

「英仏両国から返還される低レベル放射性廃棄物について、青森県の三村申吾知事が19日午後、同県六ヶ所村での一時貯蔵を受け入れる意向を表明した。返還開始は2013年に迫っており、電気事業連合会と日本原燃が貯蔵建屋建設などの準備に取りかかる。

県は受け入れの前提として県内を最終処分地にしないことを国に求め、直嶋経産相は『最終処分地にしないことを約束する』と明言していた。

国内の原子力発電所から出る使用済み核燃料は、英仏の事業者に再処理を委託、処理の過程で発生する放射性廃棄物は日本に返還される。高レベル廃棄物はすでに六ヶ所村の日本原燃で受け入れが始まり、低レベル廃棄物は13年、まず仏から返還される。」とのことです。

日本が委託した再処理の際に出る放射性廃棄物は、当然日本が処分しなければいけませんから、この核ゴミを何処で「一時貯蔵」という名の最終処分をするかは大きな問題です。

青森県はその核ゴミの受け入れを承諾してくれた訳ですが、米軍基地同様、こうした誰もが嫌がる物を押し付けている、そのお陰(犠牲)でこの世界は回っているとの感を強くします。

福沢が「世界の貧は悉く下流に帰す」と言ったように、廃棄物の問題も同様で、「この世の(核)ゴミは悉く下流に帰す」なのです。日本の首都東京からみると、青森は下流にあって、まさかの時でも何とかその影響を最小限にすることができると考えているのでしょう。

核ゴミだけでなく、原発そのものもそうした「下流」に当る地域に立地しており、その原発の貯蔵プールに詰め込まれている使用済み燃料も、結局は永久にその地に止まる、まさに最終処分地(場)になるであろうという憶測も、多くの方々が持っていることと思います。

 最終処分地にしないことを明言した直嶋経産相も、大臣を辞めればもう処分場のことなど頭から消え去ることでしょうし、もし仮に処分地を見つけようとするならば、青森と同等かそれよりさらに「下流」の地域に押し付けられることとなることは必至でしょう。

 原発でも処分場でも、基地にしても、結局は「悉く下流に帰す」というのが世のシステム(構造)なのです。これを是とするか非とするか、否、是非の問題ではないとするかは別にして、確かに何処かの誰かがこのコスト(犠牲)を払わなければならないことだけは確かなようです…

『文明論之概略』からみた戦後の日本

2010年08月19日 | 日記
福沢諭吉(敬称略)が著した『文明論之概略』は、現在の日本、世界における日本を知るための重要な観点を指し示してくれているように思います。以下、引用しながらご紹介させて頂きます。

「今世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並(ならび)に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、支那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称し、阿非利加(あふりか)及び墺太利亜(おーすとらりや)等を目して野蛮の国と云ひ」

 として、世界を「文明」「半開」「野蛮」の観点から3つに区分しています。しかしこの文明(福沢が真に学ぶべきものとして提示している『文明』は、この「文明」の範疇のものではありませんが)は、科学技術等に裏打ちされた軍事力・経済力・政治的な力関係によるものであって、決して精神的に「文明」と称される国々が「半開」の国々より、「半開」の国々が「野蛮」と呼ばれた国々より優れているわけではありません。

「文明と半開と野蛮との境界分明なれども、元と此名称は相対したるものにて、未だ文明を見ざるの間は半開を以て最上とするも妨あることなし。此文明も半開に対すればこそ文明なれども、半開と雖どもこれを野蛮に対すれば亦これを文明と云はざるを得ず。・・・今の西洋諸国の有様を見て愍然たる野蛮の歎を為すこともある可し。是に由てこれを観れば文明には限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足す可きに非ざるなり。」

 として、こうした「文明」「半開」「野蛮」の区別は総じて相対的なもので、西欧の文明とて決して満足のいくものではないとの認識を示しています。

「云く、平時は物を売買して互に利を争ひ、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替へて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり。」

 として、世界は、平時には交易を通じて「利」を求め争い、一旦有事となれば武器を持って戦争にて殺し合いをするものであると観ています。しかしこの「平時」とて、実際の争いは熾烈を極め、まさに「利」を求めての「経済戦争」に他ならないことを、つまり、平時も有事もない、争いの世の中であることを福沢は指摘しています。

 そしてその状況は、そして世界の軍事・経済・政治システムは、依然として福沢の時代以前から続いてきたものと同様のものであって、同じ生存と存亡を賭けた争いが引き続き行われていることが理解できるのではないでしょうか。

「世の識者は明に此病に名を下だして外国交際と云はざるにもせよ、其憂(うれう)る所は正しく余輩と同様にして、今の外国交際の困難を憂るものなれば、先づ爰(ここ)に物の名は定りたり。今日本と外国との間に行はるゝ貿易の有様を視るに、西洋諸国は物を製するの国にして、日本は物を産するの国なり。」

 そして、当時の日本を「物を産する国」(つまり「産物の国」)、西欧諸国を「物を製する国」(つまり「製物の国」)として、その力関係に鑑み、西欧諸国との付き合いが如何に憂慮すべきものであるか、それはまさに「憂る病」であることを説いています。

「文明次第に進て人事の都合宜しければ人口の繁殖すること以て知る可し。・・・此患を防ぐの策は、第一、自国の製造物を輸出して、土地の豊饒なる国より衣食の品を輸入することなり。第二、自国の人民を海外の地に移して殖民することなり。・・・(第三)本国に余ある元金を齎(もた)らして此貧国に貸付け、労せずして利益を取るの術なり。」

 戦後日本は欧米諸国同様に、「産物の国」から「製物の国」としての地位を得、「自国の製造物を輸出」して、食料品や原材料を輸入し、戦前のような他国への露骨な侵略と植民地化こそ放棄しましたが、経済的にはかつての英米を初めとする国々と日本の関係のごとく、海外への投資をはじめとする金融・経済的な侵略行為を行ってきました。

「文明次第に進むに随て其費用も亦随て洪大なれば、仮令(たと)ひ人口繁殖の患は之を外にするも、平常の生計に於て其費用の一部は必ず他に求めざる可らず。其これを求る所は即ち下流の未開国なれば、世界の貧は悉く下流に帰すと云ふ可し。」

 「世界の貧は悉く下流に帰す」の言葉の如く、「文明」「半開」「野蛮」という支配と差別の構造、つまり現在の軍事・政治・経済のシステムは、少なくとも大航海時代ら延々と続いており、戦後、「文明」のリーダーに次ぐ地位を得た日本が、その「世界の工場」の役割を終え、辛うじて「文明」のグループに残るかいなかの厳しい状況に立たされているというのが現状ではないでしょうか。

 今後日本が、戦前と同じ「半開」の立場に立たされるのか、或はこの「文明」の立場を死守することができるのは分かりませんが、たとえどのような立場に立たされようと、幸福な日本、誇りを持って生きることのできる日本人としてあり続けることが如何に困難なことか、痛感させられるのです。

 誰でも「半開」の立場(理不尽で不平等な要求をつき付けられるの)は嫌でしょう、ましてや「野蛮」の国の国民として生きる(まさに奴隷として、資源も労力も性も、或は命までも剥奪される)のは望む国も民族もありはしないことでしょう。

 しかしながらこの世界には厳然としてこの差別(しゃべつ)が存在し、一握りの「文明」の国が、「半開」や「野蛮」の国々やその人民を犠牲にして「利」を得る、生活を送っているのだということを、それを単に「良い悪いではなく」(某友人がよく言うのです)、銘記して生きていかなければならないのではないでしょうか・・・

「福祉国家」への道?

2010年08月18日 | 日記
今朝、消費税に関する某テレビ局の番組で、スウエーデンを特集していました。スウエーデンは消費税25%(食料品12%、新聞6%)で、18歳までの医療費が無料、大学卒業までの教育費も全額国庫負担を含め、年金・医療・介護や失業等に関して国として十分な対策を行っています。

 その為の財源を消費税や(累進課税の)所得税に求めているとのことですが、その根本に国民の政府に対する信頼がある、そのために国会議員の使った、例えば出張旅費等の費用の全ての領収書が求められ、保管されいつでも誰でもチェックすることができるようになっているとのことです。

 もし仮に消費税を導入するならば、こうした政治の透明性(税金が無駄に、或は裏金のように違法に使われることがないという)の確保が必要ですし、何に使うのか、何のために必要なのか、はっきりとさせた上で国民の納得が得られることが必須条件となるでしょう。

 ちなみにスウエーデンの国会議員の給料は、日本の約3分の1の840万円だそうです。いっそ矢祭町のように、日当制にして、それでも議員として国のため、国民のために働きたい者だけが議員になるようにしてはどうでしょうか。

 それにしても、現在の財政破綻、「マドモアゼル愛」氏もブログで書いておられましたが、国が作った借金を、あたかも国民が背負っているかのような表現をして危機感を煽り(実際は国民の預貯金で国債を買っている訳だから、国民は債権者であるにもかかわらず)、消費税を導入しようという大蔵「菅」僚のやり方は、余りにも姑息、氏ではありませんが、借金を作った歴代の政治家や官僚が、身銭を切って(給料カットや年金カットで)支払うのが筋というものではないでしょうか。

 そうして謝金をゼロにした上で、国民の福祉に必要な分は、国民が幅広く負担する消費税論議が始まるというものではないかと思うのですが・・・

 ちなみにスウエーデンは、イギリスが覇権国であった時に、「世界の工場」の役割を果たした国、そのイギリスからアメリカに覇権が移ったなかで、「世界の工場」の役割を担った(その役割も終焉しましたが)日本と非常に似た環境にあります。タイムラグが100年ほどありますが、日本がスウエーデンを手本にすることは現実的なこと(日本は人口が多すぎるので難しい面もありますが)かもしれません。
 
 ただ、こうしてどこの国でも「福祉国家」への道が歩めるのではなく、それは繁栄を経験し、ある程度の余力(富の蓄積)が残っている国だけが可能なのです。その余力とは、或はそれまでの繁栄は、如何にして可能だったかを考えると、その繁栄や余力を残すために誰かがどこかで下支えをし、コスト(犠牲)を払い続けてきたということを忘れることはできません。国が国として、一国だけで富を得、蓄積することなどできはしなかったからです。

 つまり、日本が戦争に突入しなければならなかった現実は今もなお続いており、戦前から戦後も引き続き同じ軍事・経済・政治システムがこの世界を覆っているのです。その世界の中で、このシステムのうまみを得るポジッションにいるものだけが繁栄を謳歌できるのです。そのための下支え、つまりコスト(犠牲)を払う踏み台を失ったとき、私たちもまた同様に下支えをすべきコストを払う側に回ることになるのです。

 日本は最早そのポジションからは脱落し、多くの国民にその恩恵を与えることはできなくなっていますが(いわゆる中間層の剥離)、国民自らがコストを払い、上記のような「福祉国家」への道を歩むだけの位置にはまだいるわけです。まだまだ多くの踏み台が残されているという訳です。その踏み台の上に立っていることの憂鬱と罪科は、またその「罪と罰」からは、誰も逃れることはできないもののように思われるのですが・・・