プルサーマル計画を憂慮する有志の会

愛媛県伊方発電所3号機におけるプルサーマル発電の問題を考える有志の会です。

「焼却」という罪科

2010年06月30日 | 日記
6月25日付の『朝日新聞』には、「プラスティックゴミを燃やさないと宣言」していた所沢市が、「焼却処理」を再開するとの記事があります。ダイオキシン問題にゆれた同市が、ダイオキシン類発生を止めるために焼却を中止ししたが、結局は毎年の高額な埋め立て処理費用に耐えかね、また環境省が2005年、「リサイクルできない廃プラは埋め立てず熱回収が望ましい」との方針を示し、2006年には「容器包装リサイクル法を改正」し、プラスティックを焼却する方向へと誘導、まさに同市のエコへの取り組みを、「環境省」が潰したという構図です。

ゴミという廃棄物問題は、我々の生活において身近なペットボトルやプラスティックトレイ等、バックエンドの問題ですが、これは建設及び維持・管理に巨額の多額の費用がかかる、国の隠れた公共事業であり、プラントメーカーと癒着した利権構造をなしています。
さらには、ダイオキシン類をはじめとした有害物質が大気中に無尽蔵に放出されることにより、環境を汚染し、健康被害をもたらし、引いては人命をも奪う人道的な大問題です。

以下、理学博士でもある「ゴミ弁連」の会長、梶山正三氏の著書、「廃棄物紛争の上手な対処法」から、抜粋、紹介させて戴きます。

「焼却強化は、国がプラントメーカーの救済策として強権的に推し進めてきた政策」であるが、その排ガスの有害性に関して、「ダイオキシン類は有害物質の象徴的な存在ではあるが、トータルの毒性からみれば、それは氷山の一角に過ぎない」「有害物質を含まなくても、排ガスは常に有害なのである」。たとえば、「粉じんは、・・・気管支や肺胞などの呼吸器系に付着してそれらを損傷する」また、「ゴミ焼却炉からは、ダイオキシン類以外の猛毒物質も多種多量に排出されていて、そのトータルの毒性からみれば、ダイオキシン類の毒性等量をはるかに超えるとみるべきである」

有害物質を除去すると言われているバグフィルターに関しては、「瞬間冷却では・・・相当の濃度で・・・重金属類が大気中に放出されるのは避けられない。そして・・・気体となった重金属類を除去する機能はない」のです。
*気化される重金属は、砒素、クロム、鉛、ニッケル、カドミウム、水銀、アンチモン等があります。

さらにダイオキシン以外の「臭素化ダイオキシン類、塩素化芳香族および塩素化脂肪族炭化水素、多核芳香族炭化水素、ニトロ多核芳香族炭化水素については、その強い毒性にもかかわらず、日本の行政庁はほとんど関心を示さず、法令の規制もなく、野放しにされてきた」という恐ろしい現実があります。

政府も国会も、「ダイオキシン類対策特別措置法」というザル法一つで事足れりとしてきたのですから、その罪科は重いといえます。単にプラスティックといえども(いえ、そのプラスティックが)、甚だしい環境への負荷と、人は勿論地球上全ての生態系に極めて大きな悪影響を及ぼしているということ、そしてそれらを私たち自身が利便性の名の下で、無意識にそして無造作に消費し続けてきたその罪科を自覚すべき時ではないでしょうか。


ダイオキシン排出世界一

2010年06月29日 | 日記
ダイオキシンは言うまでもなく猛毒です。その猛毒のダイオキシンを、日本が世界で一番排出しているそうです。実際、世界の焼却炉の3分の2が日本にあります。そして今度は、ダイオキシン対策(エコ?)の名の下、これまでの小型の焼却炉から大型のガス化溶融炉への転換が国策となり、その大型炉の建設に絡む企業と官公庁との癒着は利権となって、血税を次々と吸い上げるシステムが出来上がっています。

また、「残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約」では、PCBの製造及び使用の禁止や、ダイオキシン類やフロン類の排出削減を求めていますから、実質的にダイオキシン等を排出する焼却は行えないことになります。日本政府は、この条約を2002年に受諾しています。

以下、ガス化溶融炉建設とその利権化、またガス化溶融炉ではダイオキシン発生を防ぐことができないとの記事を抜粋でご紹介します。

「日本のダイオキシン排出量が、先進国全体の約半分」、「『ダイオキシン類対策特別措置法』が2000年1月から施行され、焼却炉は、国の誘導のもとダイオキシン対策を口実に、全国各地で大型化・高性能化していきました」、「焼却炉を変えた自治体の半分以上がガス化溶融炉を使っている」が、「削減されているはずのダイオキシン濃度が、それまでと変わらなかった」とのこと。

「『流動ガス炉』内でごみをガス化し、さらに1300度の高温で燃焼。その際、溶けた灰は、砂状のスラグとして回収されますが、その量は従来の焼却炉の灰の3分の1、しかも道路舗装用アスファルトなどに売却」、「溶融炉が1300度にもなると、ごみと同時に、ごみのなかの重金属もほとんど気化すると考えられる。それらを含んだ灰ガスが炉から出たところで300度に冷やされ固化灰になるときに、何が合成されるかわからない」、「ダイオキシン系のものが再合成されないかと心配です。これをセメントや薬剤で固めたとしても、酸性雨などでボロボロになり、産廃処理場で遮へいシートで覆ったとしても、シートが破れて土壌や水質を汚染するとも限らない」(新婦人の会HPより)

「世界のゴミ焼却炉の約70%以上・・・約1700基が日本にある」、「処理能力トンあたりの焼却炉建設単価は5000万円くらい」、「日立造船の例だと、韓国ではこの4分の1くらいで建設してる。日本での施工がべらぼうに高い。33億円強で52トンの能力と説明されている」、つまり「ゴミ焼却炉建設も、政治家と役人と企業の利権と腐敗の温床になっている」

「ゴミによる環境破壊が問題になったら、まずゴミの量を減らすことを考えるのが普通だ。しかし、日本の行政が行っている政策は、ゴミの量は減らさずに、全国に1700基以上もあるゴミ焼却炉を、より強力なものへと交換することだった。火力が強いものに交換する目的は、・・・ゴミ焼却炉メーカーと自治体の癒着だ」、「ここにも官僚たちの天下り利権があり、与党議員たちが口利きのパイプ役を担ってるのは国政と同様だ。つまり、環境問題を口実にして、税金で関係者だけが利益を得る構造になっている」(「アンチクリスト」さんのブログより)

政府は、ダイオキシン対策との名目で「施設規模が1日100トン以上処理できる大型の焼却炉でなければ補助金を出さない」こととし、大型のガス化溶融炉への転換を誘導してきました。そして、その日本の大型ゴミ焼却プラントは、原発同様輸出されています。これは、開発途上国への代替品開発や物質処理に関する支援を求めている「ストックホルム条約」に違反するのではないでしょうか。

美浜原発新炉増設

2010年06月28日 | 日記
6月28日付『朝日新聞』によると、「関西電力は、11月に運転開始から40年が経過する美浜原子力発電所1号機(福井県美浜町、出力34万キロワット)について、将来的に廃炉とし、同じ敷地内に4機目の大型炉を増設する「リプレース(置き換え)」に踏み切る方針を固めた。美浜1号機については国が近く今後10年の継続運転を認可する見通しで、その後に置き換えを正式決定し、地元自治体への説明に入る」とのこと。

また、「電力各社は、安定供給や収益性の観点から、火力発電などと比べ相対的にコストが安い原子力発電の推進を大きな課題としている。原発の新増設には地元の理解が必須で簡単な作業ではないが、最近は、民主党政権が温室効果ガスの25%削減に向け原発の14基以上の新増設を打ち出すなど、環境重視の流れの中で「追い風」が吹いている」のだそうです。

現在ある原発の長期運転は、島根原発に見られる点検や機器交換漏れ、その他の様々なトラブルやその隠蔽、MOX燃料等の情報非開示・非公開の問題、放射性廃棄物処理の問題等、余りにも問題が多すぎて、このままでの運転継続には著しい不安と危険が付きまとっていますが、新しい炉の増設には、廃炉となる原発の施設そのものの廃棄物化とその処理といった問題の上に、その新炉もいずれ半世紀後には廃炉となり処理すべき廃棄物がさらに増加するわけで、現在の廃棄物処理の現状に鑑みれば、新炉増設は決して望ましいものではありません。

また、この記事にもありますが、新炉増設の理由として、発電のコストダウンやCO2排出削減に関する記述がありますが、これもまた眉唾物のプロパガンダに過ぎないようです。
以下技術屋OBの「庵KM」さんのブログからの抜粋です。

「原子力発電所を建設し、原料のウランを採掘して精錬、濃縮、運搬で、おおくの[CO2排出]をしている。さらに、高レベル放射性廃棄物の後始末や、原子力発電所を廃炉にした後の始末には、大変な時間とエネルギーを使うので、この時点の[CO2排出]も上乗せになる。・・・このような観点で、発電方式別に[CO2排出]量を試算した研究者のデータによると、原子力発電は太陽光発電や風力発電よりも、かなり多くの[CO2排出]の責任を負っている」、

「電力会社は各種の発電方式による「kWh当たりの単価」を公表しているが、それには含まれない「除外した経費が電力コストに反映されていない」という事実を見ておく必要がある。・・・下記の書籍のデータを引用します。
「再生可能エネルギーの政治経済学」大島堅一著 東洋経済新報社 2010年3月11日
 
これによる発電方式別の1970年~2007年における平均単価を抜粋すると
・原子力発電  8.64円/kWh・火力発電   9.80円/kWh・水力発電   7.08円/kWh
これは電力会社が経費として公表している分だけを計算した平均コストであるが、これに研究者が独自に関連する経費を算出して、発電方式毎に負担を上乗せすると、次の様になる。
・原子力発電  12.23円/KWh・火力発電   9.90円/kWh・水力発電   7.26円/kWh」

「環境重視」って、私の妄想のなかでは、こういうことを言うのではありません。この流れは紛れもなく、「利」を追求する現在の政治・経済・軍事システムの流れです。この数値には、最大のコストであるところの廃棄物処理費は実質除外されているのでしょうし、現在の民主党政権には、環境などというものが視界に入っているようには思われません。

放射性廃棄物という環境を何千年、何万年と汚染し続ける、まさに環境テロリズムともいうべきもの、それを排出する原発が、環境重視の名の下に増設され続ける現在の流れは、いびつに歪曲したこの世界そのもの(というより私自身ですか・・・)を良く顕しているように思います。

一般廃棄物、産業廃棄物のみならず、原発にこそ、原発ゴミの排出削減(reduce)と排出者責任の徹底を適用すべきなのですが、現在の原子炉等規正法では、その処理方法、処理地、一時及び長期管理の方法、管理期間、その責任の在所と管理及び処理費の財政的基盤等、ほとんど全く規定されておらず、原発に特化した廃棄物処理法、「原発施設及び放射性廃棄物の中間貯蔵と長期管理、及び最終処理に関する法律」とも言うべき法律を定め、その法律に基づいて原発の運転を行うべきだと思うのですが・・・。

妄想と狂気(警告:読むと感染します!)

2010年06月27日 | 日記
テンプレートを私の好きな蓮の花に変えました。勿論、蓮の花が私を体現しているのではなく、蓮を咲かせる泥、穢れや罪が私自身なのですが・・・
ここのところ、どうも調子が悪いのです。妄想が妄想を呼び、狂気を帯びてきたようです。どうか私の文章を本気で読まないようにして下さい。妄想どころか狂気が感染してしまいます。どうかお気をつけ下さい。

国際法上、戦争は許されています。ルールを守るならば、結果的に人を殺しても合法です。合法行為なのですから、戦争に行き人を殺すことを望まぬ人に合法的殺人行為を強要することも、合法的殺人を拒否する人を投獄(結果拷問死しても)戦時下では実質的に合法行為となります。

有事のみならず、平時においても、国内外の経済活動は国際的に合法行為として許されています。ルールを守るならば、経済活動を行うことは合法です。しかし、経済活動に従事することを望まぬ人に経済活動を実質的に強要することや、経済活動を拒否する人を結果的に過労死させることは、現在は表向き違法なのですが、この世界の現実はこうした経済戦争における犠牲を生み出すシステムとなっています。

経済活動に従事することを望まぬ人に経済活動を実質的に強要することや、経済活動を拒否する人を結果的に過労死させることが合法の時代がありました。奴隷によるプランテーション、そして奴隷売買は永らく「文明」の名の下、違法ではありませんでしたが、現在は違法ということになっています。当時奴隷は違法だと考える人々が、アメリカという国で違法な状態に置かれている黒人奴隷を解放しようと戦争を起こしました。この戦争は勿論合法で、その戦争における殺人行為は違法でありませんでした。「開放」された黒人たちは、結果「労働者」として合法的に囲い込まれ、奴隷の時よりも劣悪な環境で働かざるを得なくなりました。否応なく経済戦争のなかに放り込まれたのです。

経済活動において、違法な奴隷労働から合法的な肉体労働へと置換されました。これはまさに、平時は違法な殺人行為が、戦時下において違法なものから合法なものへと置換されるのと同じ論理のように私は妄想するのです。同様の論理が、宗教の「聖戦」のロジックにも見られます。殺人行為が、単に英雄的なものではなく、神に認められた聖なるものへと昇華されます。これらはすべて、私の妄想内では殺人以外の何物でもなく、理不尽なロジックと映ります。

このような私の妄想は、国際法上、「狂気」以外の何物でもないのかもしれません。或いは、私のような存在そのものが、世界にとっては狂気であり凶器(違法)となるのかもしれないと感じるのです。

私はこうした妄想のなかで、いつも分裂し、矛盾を抱え、葛藤しています。決して「論理的」に物事を考えることは、できたためしがありません。ですから、いつも、妄想をします。妄想の中で、出征し、人を殺してみるのです。国際法上合法とされる合法的殺人行為が、どのような殺人行為であるのか。
しかし私の妄想のなかでは、合法であろうがなかろうが、その行為は人を殺す殺人行為であるという認識しか出てはきません。私は混乱し、深い憂鬱のなかへ沈み込みます。

では、合法とされる経済活動(経済戦争)はどうなのでしょうか。ルールに則った「利」の追求は、国際的に認められているけれど、或いは経済活動における死、フロントエンド、使用(in use)、バックエンドにおける死(犠牲)は、私の妄想のなかでは、戦時下の「殺人行為」同様、経済的な戦闘行為(まさに経済戦争)にしか感じられないのです。それがたとえ合法行為であろうとなかろうと・・・。

この世界のシステム(軍事・経済・政治システム)のなかには、「何故人を殺してはいけないの?」という問い掛けに対する答えは、ないように思えます。この世界の軍事・経済・政治システムは、それら殺人行為が実質的に容認され、その犠牲の下に成り立っているからです。(たとえば原発奴隷とその死がなければ、実際原発は運転し続けられないでしょう)

この世界は、この世界の軍事・経済・政治システムは、こうした犠牲(死)を合法の光に当て、殺人行為であるという陰の部分を消し去ってしまいます。全てが合法な行為だというのです。ですから、「何故、人を殺してはいけないのか」という問いの答えは、そもそもこの世界には存在しないのです。それは合法のマスクを付けられてしまっているからです。

唯、私の妄想のなかでは、「それは殺人だからいけないんだ」という、この世界では答えにも何にもならないフレーズだけがリフレインされています。これは最早、末期症状なのでしょう。「死に至る病」とでもいうものでしょうか、それとも虚無の音「トカトントン」の響きなのでしょうか・・・

P.S. もし私のような妄想と狂気に取り付かれた輩が世界中にあふれたならば、最早戦争どころか、経済活動(戦争)も成り立たなくなるでしょう。核兵器や原発どころか、車もパソコンも携帯もなくなってしまうでしょう。これでは最早、世界の破滅です。私は世界で最も危険な存在として、隔離されるか抹殺される対象となるでしょう。これは一体妄想なのでしょうか、それとも・・・

「米軍基地移設問題」署名運動(2)

2010年06月25日 | 日記


「奄美・徳之島にも、沖縄・辺野古にも、米軍基地をつくらせない市民の会」の方々が署名運動をされています。以下同会のブログを転載させて頂きます。協力可能な方はご検討下さい。
 ブログのアドレスは以下です。
http://kitinosimin.cocolog-nifty.com/blog/

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基地はいらない! 奄美にも、沖縄にも、日本のどこにも、アジア・太平洋のどこにも!

奄美・徳之島にも、沖縄・辺野古にも、米軍基地をつくらせない市民の会
 私たちは、「奄美・徳之島にも、沖縄・辺野古にも、米軍基地をつくらせない」ことを目的として、奄美・徳之島の福元洋子と吉玉誠一、沖縄名護市の浦島悦子と鈴木雅子の4人が共同で呼びかけを発して結成された市民グループです。
 市民の会は2010年5月8日、ネットで全国に呼びかけて「鳩山首相に奄美・徳之島と沖縄・辺野古への米軍基地移設を断念するよう求める署名運動」を始めました。署名の趣旨と鳩山首相(当時)に対する要請項目は以下のとおりです。
 ◆私たちは、あなたが進めている米軍普天間基地の移設計画に反対し、あなた自身の「最低でも沖縄県外」という公約の実現を要求します。沖縄・名護市辺野古とともに米軍基地の移設候補地に挙げられている奄美諸島の徳之島は沖縄と同じ琉球文化圏にあり、奄美と沖縄は一体です。徳之島が鹿児島県大島郡であるからとりあえず「県外」と考えるのは、一体感を共有する奄美と沖縄の人びとの生活感覚、歴史と文化への無理解に基づいています。私たちは以下のことを、あなたに強く要求します。
 ●徳之島への普天間基地の移設および訓練の移転を行なわないこと
 ●沖縄・名護市辺野古への普天間基地移設案を撤回すること
 ●米国政府に「世界一危険な」普天間基地の即時閉鎖・返還を毅然として要求すること
 その署名運動には5月31日までに、全国から619筆の賛同が寄せられ、署名簿は6月18日、首相官邸に提出されました。ただ、署名の集約作業中に鳩山首相が突然辞意を表明し菅直人氏を首班とする内閣に代わりましたので、提出された署名のあて先と趣旨は以下のように変更されました。3つの要請項目は同じです。
 ◆鳩山前政権の末期、5月28日に発表された日米共同声明に、沖縄の米海兵隊普天間基地を県内の辺野古に移設するとともに、海兵隊の訓練を奄美・徳之島に移転することが明記されました。私たちはあなたが新しい首相としてオバマ米大統領にそのような日米合意の履行をいち早く約束したことに強く抗議します。
 奄美諸島は戦後8年間、米軍の直接統治下に置かれ、沖縄と同じようにすさまじい辛酸をなめました。奄美諸島は沖縄と同じ琉球文化圏の一部で、奄美と沖縄は一体です。日米共同声明で米軍の訓練移転先とされた徳之島は奄美諸島のひとつです。
 鳩山前首相は徳之島が行政上鹿児島県大島郡であることからとりあえず「沖縄県外」と考えたようですが、そのような発想は一体感を共有する奄美と沖縄の人びとの生活感覚、歴史と文化への無理解に基づいています。
 4月18日に徳之島で島民の6割にあたる1万5千人が参加して米軍基地移設反対郡民大会が開かれたことが示すように、島民の圧倒的多数が米軍の訓練移転に反対していることを当時副総理だったあなたはよくご存じのはずです。5月7日には伊仙・天城・徳之島の3町長が首相官邸に鳩山首相を訪れ、「普天間の機能の一部を引き受けてほしい」という首相の要請をきっぱりと拒否しました。その後も徳之島住民の意思はまったく変わっていません。
 そこで私たちは新首相に就任されたあなたに、以下のことを強く要求します。
※ 要請3項目は同文
 変更された署名の趣旨にあるように、菅首相は鳩山前首相の置き土産である5月28日発表の日米共同声明をそのまま実行することを国会での初の所信表明においても宣言しました。私たちは激しく憤り、最初の署名活動を第1期として新たに第2期の署名活動を始めることを決意し、現在に至っています。
 とても小さな市民グループですが、奄美・徳之島の豊かな自然と、沖縄・辺野古-大浦湾の美しい海、そしてそれら自然の恵みを受けて暮らす私たちの生活を守るため、粘り強く運動を続けようと思います。
 私たちの思いをこのブログでこれから少しずつ発信します。日米両政府が全体重をかけて私たちに襲いかかっていますが、奄美と沖縄、琉球弧の私たちは結束し「本土」のみなさんとも手を携えて反撃を続けてまいります。
 全国のみなさん、どうか私たちの署名運動にご協力下さい。

「有り難き」世界

2010年06月24日 | 日記
私はあまり明るい人間ではありません。むしろ「暗い」人間です。私はあまり冗談が言えません。むしろ人を攻撃するような言葉が(ほとんど口にはしませんが)脳裏に浮かびます。人を心から笑わせられる人をうらやましく思い、人の笑顔に繋がる言葉を持たない自分に嫌気が差します。

こうしてブログを書いていても、読んでもらっている方々に一度でも笑顔を提供できる話題が、文章があっただろうかと振り返ってみても、愚痴と妄想のオンパレードで、ほんとうに心苦しく、また自分自身が恨めしく思います。

それでも私のブログを読んで頂いている方々に(どのような方であれ)、心からお礼を申し上げたいのです。

ありがとうございます。

私は、この感謝の言葉を、私の最も大事なマントラ(真言)として、いつも、家族に対しても、友人に対しても、そして太陽や空、大地に対しても唱えます。
「ありがとう」という言葉は、私の一番好きな言葉であり、また私を守り導いてくれる言葉でもあります。

「ありがとう」は「有り難い」であり、この世界の、全ての事象が、それは正にうたかたの、流れ去る刹那に過ぎなくても、やはり奇跡的な確率によって生じているかけがえのない一刹那なのだということを疑うことができません。

まさに「有り難い」のです。だから「ありがとう」なのです。私のように宗教心も薄く、確固たる信じるものを持たない者にとって、ただこの「有り難き」時と、「有り難き」世界に(人も物も全てに)、これら全てが「有り難い」ものなのだという認識を、この言霊に込めて呟くのです。

有り難い、ありがとう、ありがとうございます。この世界全てが「有り難き」ものですから、それをまた言葉に置換することが、この人間にとって必要なことであると同時に、この世界とその成り立ちにとって必要なことなのかもしれません。宇宙を認識する者が、この宇宙には必要なように(だから我々は生じたのでしょう)、この世界の原理と同じ波動を持つ言霊が、この「有り難い」という言葉なのではないかと妄想するのです。

しかしながら、この一刹那に過ぎない「有り難き」瞬間も、事象も、一つの固定したものであると主張するもの(自我)が、世界を、宇宙の原理を歪めてしまいます。実際は、この世界に、宇宙の原理に如何なる影響力も持たないにも拘わらず、自我を肥大させ、争い、バベルの塔を築き上げようと血眼になります。「有り難き」この世界を歪曲して認識し、この世界に何か自分自身の力により、何物かを付け足せるのではないかと思うのです。その我欲が、この「世界」を動かし、造り出しています。

この世界と「世界」が、私のなかには同時に存在し、葛藤を生み、矛盾を突き付けます。まさに有り難くない現実です。「有り難くない」(よくある)現実なのです。この歪曲した認識から出発するかぎり、私の心は満たされません。「有り難くない」この言霊からは、不平と不満、怒りと憎しみが溢れ出ます。これが私の不幸の源です。

ですから、私は繰り返し唱えるのです。「有り難き」世界に、「有り難き」存在としてあるために。「有り難い」、「有り難う」、そして「有り難うございます」と。

NHKスペシャル「日本と朝鮮半島」

2010年06月22日 | 日記
5月20日放送のNHKスペシャル「日本と朝鮮半島」を観ました。「希望の丘」には、軍事動員、労働動員、そして慰安婦として朝鮮から動員され死亡した人々の遺骨が眠っています。彼らは、朝鮮半島での徴兵制を目指す朝鮮総督府の支配下で、「朝鮮人志願兵制度」により、志願者として動員された人々で、総数は24万人に上るといいます。

「志願」といっても、日本の支配下にある当時の朝鮮では、半ば強制的なものであり、或いは約束とは違う内容での強制労働や性的搾取、そして皇国臣民として命さえ投げ出さなければなりませんでした。しかも戦後彼らは、「対日協力者」として差別され、或いは追及されるという2重の責苦を背負うことになります。そうした状況を、彼らは耐え難いものと感じ、それを「恨(ハン)」という言葉に託したのです。

もし私が朝鮮半島に生まれ、同じ境遇にあれば、同様に私も「恨(ハン)」という言霊に、自分の思いを込めて歯がみしたのかもしれません。しかし私は、こうした近代の、戦争や植民地支配の犠牲者は、その以前からも、営々と生み出され、また戦後(如何にも戦争は終わったかのように聞こえますが、戦後世界での戦争(内戦)は100を超えます)もこうした犠牲者は増え続けていると思っています。

日本の降伏によって彼らは「解放」されましたが、この世界の政治・軍事・経済のシステムは、以前と同様のまま、私たちは今もそのシステムの上で生活を営んでいます。彼らの「恨(ハン)」が癒えないように、癒えることのない「恨(ハン)」は今も世界に溢れ続けているのです。哀しいことに、その連鎖が終わることはないように思えます。

彼らは、一面では日本の軍国主義、植民地支配の犠牲者ですが、この世界の軍事・経済・政治のシステム(某友人は「覇権システム」と呼んでいます)の「犠牲者」でもあるのです。こう呼ぶことで、決して日本の犯した罪科から逃れようとしているのではなく、その罪を認めながらも、更に大きな世界の軍事・経済・政治の流れのなかで、どの国もどの民族もそして全ての人民が、否応がなく生きていかなければならないのだということを繰り返し痛感するのです。

それにしても私たちは、このシステムの呪縛のなか、望まない戦いに明け暮れ、利を争ってもがき苦しみ、決して真の意味で「開放」されることなく、生涯を終えざるをえないのでしょうか。多くの国と国が、民族と民族が、人民同士が、敵意や憎しみを抱きながら「恨(ハン)」を抱き続ける、そのような不幸がなくなることはないのでしょうか。救われない、そんな言葉が脳裏を抉ります。キリスト教では「絶望」は神への最大の罪だそうですが、私はどうも免れようがないようです・・・

原発施設の廃棄物に「総量規制」を!

2010年06月19日 | 日記
6月19日付『朝日新聞』によると、
「11月に運転開始から40年を迎える関西電力の美浜原子力発電所1号機(福井県美浜町、出力34万キロワット)について、経済産業省原子力安全・保安院は今後10年間の運転継続を妥当と判断し、認める方針を決めた。国内の原発で40年以上の運転継続が国に認められるのは、日本原子力発電の敦賀原発1号機に次いで2番目。加圧水型の原子炉では初めて。」とのことです。

原発の老朽化を「高経年化」と称し、その対策とは定期点検をして部品を新たな物に交換するだけのもの、これで「理論上、原子力発電所自体は限りなく寿命を伸ばすことができ」(原子力安全基盤機構)るそうですが、維持・管理にコストが掛かり過ぎる場合は、新規に原発を建設するそうで、もし本当にコスト意識があるのなら、バックエンドにおけるコストを正確に加算し評価してでの話であるべきもの、これは原発に限らず、全ての廃棄物において使用後の処理費用が著しく低く算定され(企業活動への「思いやり」措置でしょうか)、実質的には満足な処理が行われないまま(最終処分場等へ合法的に)廃棄され、長期的な(数十年から数百年、放射性廃棄物なら何千年、何万年もの間)汚染源として存在し続けるというわけです。

ですから本来ならば、全ての原発施設における廃棄物の「総量規制」なるものを設定し、規制値を超えれば新たな施設は造れず、また運転も停止しなければならないという法律を作るべきだと思うのです。そうなれば、使用積み燃料を処理方法も処分地も選定せずに原発を運転し続けるなどという余りにも無責任なことはできなくなるのですが、現行の「原子炉等規正法」では、実質的には廃棄物処理の法的義務付けがなされていないのも同然で、バックエンドに関して同法は(排出者責任が名ばかりで実を伴っていない「廃棄物処理法」同様)ザル法と言わざるを得ないでしょう。

点検漏れ、交換漏れで厳重注意を受けた島根原発だけでなく、他の原発も同様のトラブルやトラブル隠しが相次ぎ、にも拘らず定期点検の期間は延長される状況の中では、定期点検や部品交換だけで老朽化は「大丈夫!」と言われても、「はいそうですね」とは言いたくても言えないのが現状ではないでしょうか。原発を止めても廃棄物の問題は解決しないけれど(少なくとも使用済み燃料は増えませんが)、正直なところ廃棄物処理の問題を棚上げにしたまま、このまま原発を運転し続けることは、私も含めそれを認め黙認することは、子どもや孫の世代に対する余りにも無責任な背任行為に当たると思うのですが・・・

消費税UPの前に一滴の鼻血を

2010年06月18日 | 日記
菅首相は、党内手続きを経ずして、消費税の10%増税方針を表明しました。三権不分立のなか、党内での議論を積み重ねた上で、その上で政府としての方針を決めていくというのがこれまでの自民党時代のやり方でしたが、官邸主導ということでしょうか、一国の財政改革の根幹にかかわる非常に重要な課題を、党内どころか政府内の議論すらなくたった一人で打ち出しました。

自民党時代の密室での遣り取りには批判がありましたが、それなりに党員の意見を集約し、議論を重ね、根回しをしながら政策決定を行ってきたわけで、その過程が国民に見えず、また国民からかけ離れた党や官僚の思惑でもって左右されてきた点は否めないにしても、手続きはきちんと踏んできたわけですから、今回の菅首相のやり方は、その手続きを無視して、いきなり国民にその是非を問うような、それこそ「猫騙し」のような感を受けます。

消費税増税の意思があったのなら、民主党の党首選においても、また所信表明演説においても、そのことをきちんと公表し、その上で、党内での議論を経てマニュフェストを変更し、政府としての政策課題として提言する必要があったと感じるのです。

財政改革は必要です。国の借金は869兆を超すといいます。年1兆円増が見込まれる社会保障費、国の予算の半分近くを賄う国債の発行と、財政再建は待ったなしの状況が放置され続けて何十年経ったのでしょうか。最早国としては破綻状態で、ギリシャより酷い状況というのですから(勿論日本とギリシャを単純に比較は出来ませんが)、増税なく済ますことが出来るとは国民の多くは考えていないようです。

しかしながら、本年度予算は過去最高の92兆円(赤字国債44兆円)と膨らみ、鼻血一滴出ていない歳出削減努力の現状では、増税に対し多くの国民の理解は得られないのではないかと思います。ですから、議員定数削減を民主党も自民党も言い出しているのですから、それこそ超党派での話し合いで容易に実行可能な「一滴の鼻血」を絞り出して頂きたいと思うのです。そうすれば、その100倍、1000倍ものbleeding(出血)を押し付けられても、国民は黙って従うしかないと観念できるというものですが・・・

P.S. そう言えば、細川元総理が、いきなり消費税を上げようとした時がありました。あの時も誰か後ろにいたような気が・・・妄想ですか

「人道に対する罪」

2010年06月16日 | 日記
「人道に対する罪」に関しては、これまで適用されてきた犯罪や、対象についても様々に議論があるところだと思います。
しかしながら私の妄想のなかでは、少々(いえ、かなり)違った対象や犯罪も、この「人道に対する罪」として含まれてきます。

旧日本軍の強制連行、強制労働、また従軍慰安婦、ナチスのユダヤ人ホロコースト等も当然その範疇に入りますし、黒人奴隷売買や植民地主義も勿論私にとっては「人道に対する罪」です。
また、核兵器を使った戦争行為、広島・長崎への原爆投下やアフガニスタンやイラクへの劣化ウラン弾攻撃もまたそうです。個々のものを数え上げれば切りがないほどに、人類は、人類に対して赦され難い罪を犯しています。

しかし私が申し上げたいのは、こうしたものだけでなく、例えば車社会における死亡事故も、私にとっては明らかに「人道に対する罪」なのです。日本では毎年1万人近くの人がなくなるそうですが、中国では毎年10万人近いと言いますから、世界中では毎年何十万の人々が、亡くなっているのでしょうか。統計が出てきませんが、仮に毎年100万(50万人でも同じことです)を超える人々が亡くなっているとして、10年で1千万人(500万人)です。50年間で5千万人(2千5百万人)に上ります。

これだけみても、最早第3次世界大戦は既に起こっており、今後も続くのです。車社会がある限り、自動車事故による死亡者は決してなくなりはしないのです。これは単に使用中(in use)における罪科ですが、フロントエンド及びバックエンドにおける被害も合わせれば、膨大な数字に上ることは必至です。このようなものを、利便性の名の下に、或いは合法的な経済活動として認めること自体に、或いは使用することの中に(いつ私たちも加害者になるかもしれません)、「人道に対する罪」が潜んでいないか、潜むどころかはっきりとこれだけの死亡者数として現れているというのが私の認識(妄想ですが)なのです。

このような製品が、製造・販売を赦されていること自体が、私のような妄想の中で生きている人間にとっては「人道に対する罪」なのです。車に限らず、パソコンであっても携帯であっても、テレビでもエアコンでも、その大小は別にして、全ての経済活動そのものが、こうした「人道に対する罪」に値する側面を持っているということを申し上げたいのです。

ですから、原発は駄目だけど車は良い、車は駄目だけど携帯は良いとは私には考えられないのです。この私の生活そのものが、こうした「人道に対する罪」を日々犯し、犯すことなく生きていくことができないほど、私はこの世界のシステムに足をどっぷりと浸けている。その利便性を享受しながら、また同時にいつその被害を被る対象ともなりかねない生活を余儀なくされているのです。まさに原発の、基地の横で暮らしているのと同様の状況が、日本の、いえ世界の何処に行っても、逃れようもなく存在しているのです。内戦が終結したら、今度は経済活動の活発化によって交通事故死が急増したアフリカの国は何処だったでしょうか。これは、経済活動が「内戦」に他ならないことの証明ではないかと、私などは妄想するのです。

単に科学が発達したからなどと問題を矮小化するつもりなどありません。人間が生き、活動する如何なる場所で、如何なる時代においても、この「人道に対する罪」から免れて生きるなどということは、(全ての持てるもの、自分自身をも、貧しき人々のために差し出すことの出来るマザーのような人を除いては)誰にもできはしないのではないでしょうか。哀しいことです。実に辛い現実です・・・