陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

山下清の「長岡の花火」

2011-07-02 | 芸術・文化・科学・歴史




山下清の最高傑作「長岡の花火」を98,000円でご提供──こんな広告に一瞬ばかり目を奪われてしまう。山下清といえば、細かく裂いた切り紙を手づから並べて、さながら中世ならばモザイク画、近代ならばジョルジュ・スーラの点描もかくや、と思えるほど緻密な色彩の競演を果たした、貼り絵画家である。その彼の代表作とされる一枚が、10万円を下る額で売りにだされるはずはない。無論これは同姓同名の画家によるものではなく、贋作というわけでもない。しかし、それは限りなく贋作に近いオリジナルというべきなのか。タイトルの横には小さく【リトグラフ 限定300部】と添えられている。

リトグラフとはアルミ板を腐食させて模様を浮きあがらせる版画の一種であり、刷り数を限ることで希少価値を高めているものだ。かつて、こうした絵画販売会社が売るリトグラフというものは、ヒロ・ヤマガタであるとか、クリスチャン・ラッセンであるとか、あきらかにそれとわかるイラストレイターのものであったように記憶する。愛好家もおられようが、私はこの種のリトグラフ商法が好きではない。かつて私の知り合いが10代であったにも関わらず、成人したものとして契約を結ばされそうになったことがあるからだ。

リトグラフに対し嫌悪感を抱く私だったが、かつて一度だけ魅せられたことがある。もう数年まえのことになるが、ある御宅を訪れた際に階段の壁に飾られていたのが、アンリ・マティスの「ブルー・ヌード」の複製だった。







一般にマティスといえば、フォーヴィズムで知られる色彩の乱舞を欲しいままにした表現主義的な画家、というのが教科書並みの紹介のされ方であろう。70年に及ぶ長い画業において多様な創作をこなしたマティスは、パブロ・ピカソと並び称される20世紀アートシーンの巨人である。晩年になると絵筆をとるよりも、鋏で紙を切り抜いて作品をつくることが多くなった。素描のようにすばやく形を決めることができ、かつ線を引くと同時に色彩を附することのできる切り絵こそは、彼の芸術の到達点だったのである。女性の裸体を目の醒めるような蒼い切り紙を組み合わせて表現した「ブルー・ヌード」シリーズはその時期を代表する傑作である。

私はその「ブルー・ヌード」を、京都の美術館における大規模な回顧展で実見してきたばかりであったが、リトグラフのそれはたしかに本物と見まごうぐらい遜色はなかった。だがそれは「ブルー・ヌード」が色は鮮やかにして形態は単純明快であったればこその納得ではなかったのか。

山下清の貼り絵は、細かなものになるとピンセットで何とかつまめるぐらいの紙片をびっしり敷き詰めているのが、その持ち味だ。
「長岡の花火」はよくよく見れば、赤、黄、青、黒、白の五種類しか用いていないにも関わらず、その色彩を微妙な取り合わせで描くことに成功している。驚くべきは前景から後ろへ遠ざかる群衆と、花火の反射する水面の区別であろう。絵の具は水や溶き油の混ぜぐあいによって濃度を変え、筆触によって、さらには線描によって、ものの形を明確に限定することができる。塗り重ねていくことで陰影や空気感を生むことができる。
それに比して、同じ色付きの紙切れを埋めていくことでどうしてこうもみごとに、あるものは画面で水の流れをなし、またある部分は花火を浮きあがらせる漆黒の闇となるのだろうか。ふつうの夜空にはないタイル地のようなつなぎ目は一見グロテスクに思えようが、むしろ画面下方の点描の密集をうけとめる柔らかな素地となっている。もしこの夜空がべったりとした黒紙一枚によって成り立つのであれば、糸ひくように艶やかに咲く大輪の炎の花はなんとも平坦で味気ないものに見えてしまったことだろう。山下清の絵には、色彩のボリュームがある。それが観る者に迫ってくるのだ。花火の夜のあの空の震えと炎のおののきすら聞こえてくるようである。

浮世絵のようにそもそも版画として流通することが宿命づけられた絵画形式ならばともかくも、元が作家の手仕事を感じさせるオリジナルをリトグラフに翻訳するという行為はいかがなものだろうか。
原画を忠実に再現と満を持して売り込まれるが、原画を忠実に再現したリトグラフなどありえないのではないか。オリジナルがもつ色彩は、メディウムを変えれば畢竟うしなわれるか、変容してしまうものではなかろうか。さきほどの印象を私は広告のリトグラフの画像(このブログに掲載した画像ではない)から受けたのであるが、それが実物となれば異なる体験をしえたのかもしれない。『複製技術時代の芸術』を著したワルター・ベンヤミン流を気どって言わせてもらえば、そこには伝統的な威厳ある芸術が帯びるアウラが喪失されていることになる。

リトグラフに山下清らしさが感じとれるかいないかの論はこのさい棚上げしておくとしても、こうした機械的な複製が差し迫られる事情は存在するのだ。

先年、NHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介された絵画修復家・岩井希久子氏によって、この「長岡の花火」は修復されていた。長年の水と埃にまみれた原画は損傷が激しく、切り貼りの紙片の色が退化し、直接貼り付けたベニヤ板から浮きあがっていたのである。修復家は絵の裏側に彫刻刀をあてて削り、別の板をあてて補強するという大胆な策をとったが、それでも一度劣化した作品を生まれた当時の鮮やかな状態へと戻すのは不可能に近い。作品そのものに手を加えてしまうことは、作品を別人のものとして作りかえてしまうことになりかねないからである。

となれば、現在においての原画のありのままをリトグラフ化するという行為は、将来それが損なわれるという可能性をかんがみれば、けっして責められるべきものではないといえるのかもしれない。なにより芸術家にとって悲しいのは、自身の作品が歴史の闇に埋もれてしまうことなのであろうから。

(2011年6月30日)

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