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陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ロイ・リキテンスタインの「ヘアリボンの少女」

2008-10-05 | 芸術・文化・科学・歴史
久しぶりに観た「美の巨人たち」
きょうの一枚はロイ・ロキテンスタイン作「ヘアリボンの少女」(一九六五年)

東京都現代美術館にあるこの作品は、十数年前の購入時、おおいな論争を呼んだという。いわく、漫画みたいな絵に何億もの税金を投入してよいものかと。この導入部にひかれておもしろく拝見した。あいかわらず、小林薫の渋いナレーションは魅力だが、解説の幕間に演じられるショートドラマがふざけてる。

私の故郷の県立美術館でも、巨額を投じた絵画の購入をめぐって意見がふたつに割れたことを記憶している。
その対象はフェルナン・レジェ。ぼってりと丸々した人物を描くフランスの画家で、あのマルク・シャガールと知り合いであり、のちには建築家ル・コルビュジエの知遇を得て、舞台美術や壁画など幅広い創作活動を行った。一九一〇年代には、前衛画家グループ「セクシオン・ドール(黄金分割)」にも加わり、当然ながら近代美術史上、重要な画家のひとりである。
ちなみに中学ぐらいの美術の教科書には作品が載っていたので、けっしてマイナーな画家とはいえない。とはいえ、画家と聞けばせいぜい、ピカソかルノワールか、ゴッホか、ぐらいしか思い当たらない一般愛好者にとっては、自分の知りもしない画家の作品をあきらかに画商からの吹っかけ値段で買うことに異議申し立てしたかったのであろう。当時はバブル崩壊後で、八〇年代から九〇年代前半にかけて建設ラッシュのつづいたハコモノ行政にテコ入れがつきはじめる時期であった。そういえば、最近はあまりこうしたトラブルを聞かないが、学芸員がうまく交渉して値引きしているか、そもそも財政難で購入じたい諦めているかなのだろう。美術館側や学識者の陳述としては、山梨県立美術館のミレーの「落ち穂拾い」のように高額であっても将来的に館の目玉となる看板商品を収蔵したかったという思惑があり。また反対の市民メンバーとしては、海外のなじみのない作家を買うよりは、地元もしくは日本の有望株の若手作家を値が安いうちに買い叩いていたほうがいいのではないかという意見だった。けっきょく、美術館側が議会を味方につけて押し切ったのであるが。おかげで私は地方に在住で、アンディ・ウォーホルやセザンヌすら知らなかった高校生でありながら、フェルナン・レジェの作品と名前だけはいちはやく覚えていた。

この東京都現代美術館、通称MOTは、その略称からもわかるとおり、MoMAの名でニューヨーカーに親しまれているあのニューヨーク近代美術館にならったものである。大学生時代にニ度ほど足を運んだことがある。木場公園内にあって、なかなか度肝をぬく建築だが、豊穣なスペースを必要とする現代アートには余裕の展示面積でまったくストレスを感じさせなかった。また展示室に備え付けの解説ガイドパンフは無料で入手できるのがためらわれるほど、凝ったつくり。作家の履歴と簡単な解説文が英訳つきで載せられている。英語で論文を書く際に、よくこうしたガイドの英訳文を参照してアートワールド特有の語感を身につけたものだった。

さて、話をくだんのリキテンスタインにもどそう。
「ヘアリボンの少女」はよく現代美術の本に登場するのでコンテンポラリーアートマニアならば知らぬものはいまい。いやそもそも、美術通でなくとも、これがアメリカンコミックのワンシーンであることはお気づきであろう。この作品を図版でみたものは、実物をまえにしたとき圧倒される。なぜならそれはひとの身の丈に近い巨大キャンバスに、油彩で描かれたものだからだ。目を近づければわかるが、印刷物のあのドットを緻密な計算の元に再現してあるのである。今回、番組をみて合点がいったのであるが、シルクスクリーンの要領で、丸穴のついた金属板の型紙をつかい、筆をおいていく。点描の方向に最新の注意を払いながら制作されたのだ。いっけん安々と既存の印刷物をおおきく引き延ばして楽々と自作だといつわっているえせアーティストのようにみえるが、そのじつ、これはおそろしく緻密な作業なのである。

リキテンスタインは言う。機械的な作業をおこなうことで画家の感情ではなく、事実を描いているのだと。
そう間違いなく、漫画イメージは現代のリアリティといえるだろう。自分ではない誰かによってすでに生み出されていて、そして誰もが知っていて消費されていく。その当時消費文明の生なましさをこれほど代弁する記号は存在しない。一九六〇年以降、漫画を材とした作品を発表することで、批評家連中にはさんざん叩かれこそすれ、リキテンスタインは多くの大衆の支持を得ていちやく時の人となったのである。なお、リキテンスタインを発掘した画商レオ・カステリに二週間遅れてアンディ・ウォーホルがおなじく漫画をネタにした油彩画を見せにきて、先行者のアイデアに完膚無きまでにうちのめされ路線を変えたことは有名な逸話。

さらに知った驚きの事実。
この作品、画家の敬愛するピエト・モンドリアンへのオマージュなのだという。
リキテンスタインは、「ヘアリボンの少女」をキャンバスを自由自在に回転させながら描いた。会場ではモンドリアンにならって45度斜めに展示したという。ドットがどこからみても均等に並んでみえるように。つまりこの絵画は人物を描いておきながら、上下左右の規準がない。そしてそれは、モンドリアンのうちだした絶対主義の絵画理論の彼なりの翻案なのである。また赤、青、黄の三原色を基調とした彩色もモンドリアンスタイルを踏襲したものだった。すなわち、モンドリアンの『コンポジション』シリーズの垂直・水平線を、よくみなれた大衆的な造形の輪郭へとおきかえて、彼の色彩ロジックを拝借したというのだ。

往々にして近代美術史は、六〇年代に登場するアメリカンアートの二大潮流、ポップアートとミニマルアートが五〇年代まで席巻した抽象表現へのアンチテーゼと説くのだけれども、リキテンスタインのそれは偉大な平面絵画の先駆者へおくる賛辞。具象/抽象という形式的な二律背反は、画家の企みによっていともあっさり止揚されてしまう。

それにしてもこんな高度な読みを「漫画みたいな」絵に働かせねばならないとは、誰が思ったであろう。たしかにこの絵画、数億はする値打ちはあるかもしれない。その革新はまた、多くの後続を輩出してきたのだから。そしてまた、この絵画が十八世紀のド・ラトゥール作の「ポンパドゥール夫人」像(図版はこの記事を参照)となんら変わりなく歴史的であることは、それが同時代の最先端の女性美を残しているからである。



(〇八年十月四日)

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