陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ある彫刻家の話

2009-05-27 | 芸術・文化・科学・歴史
きょう帰宅したら、ドアポケットに角2の封筒がはさまっていた。待っていた実家からの速達だった。
郵政公社の配達員、ドアポケットにむりやりねじこんだのだろう。書き留めじゃないからしょうがないのだけど、中身の冊子に傷がついてしまったよ。

それはともかく郵便物は心待ちにしていた、とある申込書と、そして風邪のために先日行けなかった恩師の個展のカタログだった。傷がついたのはこのカタログだったので、残念でならない。

恩師はことし、地元の工業高校を定年退官され、その記念として四〇年あまりの制作をふりかえる回顧展をひらいた。
彼が全国的なコンクールで受賞したのは、四十代になってからだった。それまで、彼は美術教師をしながら静かに制作をつづけていた。誰にも評価されなくとも、彼はつくりつづけた。しかし、そこには創作上の発展があって、ただ惰性的に制作をつづけていることで芸術家然としたいというようなおこがましさなどなかった。
90年代にブームとなったモニュメント設営に乗じて、多彩な作品を手がけた。その作品は国内はじめ、モロッコや中国にも設置されているという。四年前にお会いしたときは、韓国に渡り、国際的な企画展覧会にも出品されていた。

私がこの彼を、いまでも恩師と呼ぶのは、ひとえに彼の芸術に対する情熱と、それとは裏腹の謙虚さにある。
はじめて会ったのは、彼が私の家を訪れた高校一年時のことだ。彼はただ、学校のことはなにも言わず、ただどんな絵が好きかとだけ聞いてきたように思う。
私は彼を進学校では異端視されている風変わりな美術教師としか、認識していなかった。
彼の正体を知ったのは、その後、一年あまり経ってから。しかも、私のほうから訊ねたのである。彼のことが新聞に載っていたからだった。

彼は自分の作品について解説たらしいことなど、ほとんど言わない。作品の評判が悪いのに、ぐだぐだ不満をこぼすようなみっともない表現者であることを嫌っているのだろう。そして、なによりも奢らない。自分が誰にも負けない、世界一の作品をつくっているというむこうみずな自尊心、そのくせどこかでみたような安っぽい造形美などではない。
彼の作品のクオリティについてうんぬん論評するのは控えるが、私が彼をいまでも「先生」と呼ぶ理由は、彼のその精神性にある。「先生」と呼ぶに足らないような作品づくりをし、驕慢なアピールをしてくるようなえせ表現者を、私はもはや「先生」などとは呼ばぬ。

私の高校時代のクラス担任になった教師のうち、ふたりは今年の人事異動で学校長に昇格していた。彼らは生徒の進学率のことしか頭になく、生徒を人間としてほとんど扱わなかった。私が在学時の学校長が引っ越しするというので、この腰巾着たちはこぞって手伝いにいったが、私の恩師はけっして行かなかった。そのことで、彼らは私の恩師を影ながらさんざん馬鹿にしていた。こういう職員室の風評が生徒の間にもひろまって、このいかめしい伝統校では先生は肩身の狭い思いをされたに違いない。こんな「先生」と呼ぶに足らないような人種が、県の教育委員会でのしあがっている。私の親戚の小学校校長もかなり高慢ちきな人だ。

この先生との思い出で忘れられないものが、いくつかある。
高校二年のとき、私は文化蔡の広報パンフレットや垂れ幕、校門まえのアーチのデザインを担当していた。そのことを知らせると、すでに他校に転出された先生は、出勤前の朝早くにうちの学校に立ち寄って見てくださり、わざわざ感想をくださった。
文化祭で私の油彩画が受賞した際も、美術部門の審査員をなされていた先生が、嬉しいコメントをつけてくださった。
そしていちばん涙したのが、家族の葬儀に参列してくださったことだろう。新聞の朝刊の死亡者欄をみて駆けつけてくださったのだという。あのときの御恩を、私は生涯、忘れないだろう。忘れないがゆえにここ数年間、私は彼に会うのを避けていた。けっして胸の張れる数年間を順調に送ってきたわけではないからだった。

進学と就職で当地にとどまることになってからも、毎年かならず自作のモニュメントを載せ、短い添え書き付の年賀状を贈ってくださった。ここ数年の環境の変化によって自分のことしか頭になかった私は、返礼をしないこともあった。会いにも行かなかった。いまから考えればひどい教え子だったと思う。しかし、私は彼の恩を忘れたわけではない。

私はその恩にむくいるために、大学時代に研究室で発行していたアートジャーナル紙で、彼の作品を紹介した。自分の論文の謝辞には、指導教官の名とともに、彼の名を附した。ほんとうは先生の名前をいちばん上に記したかったくらいだった。病気のために彼からの薫陶をうけた時間は短かったが、おそらくあの時期に彼に会っていなければ、私はいま、ここには存在などしていない。ほんとうにそう思う。
彼はこの春、いち美術教諭のまま、退官された。地元の大学教授なんぞよりもはるかにすぐれた業績を残しながら、大学でいかめしく教鞭をとることも、また教頭や校長になることもなかった。

県のゆがんだ教育界は、彼をただの平凡な美術教師と記録するだろう。
しかし、日本の現代彫刻史と彼の気性を知る数少ない人びとはそうはさせない。

現代の芸術家の使命は、自分の美学を極度にきわめ、それを押しつけることではない。社会との宥和を図り、生きるうえでの絶えざる問いを投げ、答えを暗示させる、あるいは体験者に感じさせ、考えさせ、行動させることである。これができない作品は、芸術ではない。
彼こそはまちがいなく、すばらしい教師であり、そしてまた芸術家である。ヘンリー・ムーアにもオーギュスト・ロダンにも、高村光太郎にも及ばないかもしれない。それでも、私が知るすばらしい現存の彫刻家である。

権力におもねらない、そしてまたひとりの凡庸な人間の人生を救ったヒーロー。彼こそは、私の人生にふみこんで大きな影響をあたえてくれたヒーローと言っていいのかもしれない。


【掲載画像】
エミール=アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)『弓をひくヘラクレス』(1909)
ブールデルは、フランスに生まれ、近代彫刻家の父ロダン翁の助手を十五年間つとめた、近代彫刻史を語るうえでは欠かせない重要な作家。ロダンの影響を色濃く受けてはいるが、文学性のたかい師の作風に対し、雄々しい肉体美を誇る裸体の記念碑像を数多く手がけた。彼は先生としても慕われており、かのアルベルト・ジャコメッティやアリスティド・マイヨールらが師事した。

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