陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「天使のタブロー」(七)

2013-10-10 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


「わたしね…、この絵が出来たら、かおんちゃんにさよならしなくちゃいけないって思ってたの」

ひみこは、かおんの肖像画に目を転じている。
描かれた微笑に救いを求めるかのように。その色とかたちの織りなす美のうちに、煩悩を鎮めてしまおうと心して。
かおんの顔が、唐突すぎるお別れの言葉に引きつっていたのを、ひみこは知らない。

「だって、かおんちゃんは素敵な人だし、わたしだけのモデルじゃもったいないし…。ひょっとしたら、その、…よくある記憶喪失とかなんかで、実はすごいお仕事してたりしてて、芸能人のいる学校に通ってるとか、そんな気がして。ええと、とにかく、わたしなんかの相手ばかりしてたらもったいないから…。だから、かおんちゃんの大切な用事があるんだったら、そろそろ、わたしはちゃんと送り出してあげないと…。わたしはね、かおんちゃんのこの絵を形見のように思って大事にするから…」

描いただけで充たされるわけがない。
もっと眺めていたい。
ずっと声を聞かせてほしい。
触れあってその熱をたしかめて、いい匂いに包まれていたい。

いつか来る別れの日が怖くてこわくて、臆病なわたしは、なんどもなんども筆に迷ったふりをしたり、構図を変えたり、色づかいにわざとへまをやらかそうとした。このひとが側にいることが永遠でありますように。いつしか、そんな無茶を願うようになっていた。それは呪縛だったのだ。美しすぎるものは、ときにひとを狂おしいほどに我がままにする。好きだからこそ、いつまでも側にいたくなる拘束。画家が独り占めにするものは、描いた画布一枚に過ぎない。描かれた本人の存在ではないのに。

「ちょっと、待っててね。すぐ戻ってくるから」

ひみこは立ち上がって、別の部屋に行き、数分後にちいさな鞄を携えて帰ってきた。
鞄のなかに入っていたのは、なけなしの路銀、数日分の日持ちのする食料、着替え、そして紙袋に入っていた絵葉書、封筒、便箋、そして切手だった。ひみこには大した収入はないが、有名な画家の弟子である縁で、絵師競演の手紙類の意匠を手がけたことがあり、その売上金の一部が毎月かすかに入ることになっている。ひみこが描いた葉書の挿絵は、季節の風物詩だった。かおんはその鞄を見下ろしたまま、何も言わない。

渡したいものが、携帯電話しかなかったなんて、嘘だった。
ほんとうは、もっと、もっと渡したいものが、たくさん、たくさん、あった。溢れぐらいに、惜しみないぐらいに、たくさんに。でも、すべてを受け取ってもらえるか、不安で、渡してはいけないものまで受け取ってと言いそうで。お別れがてらに、あんな甘い想い出がほしい、なんてお願いしたら困惑されるに決まってる。あれは、あくまでも夢だったのだから。だから、もう、ここで送り出そうと決意したのだ。ひみこは瞳が融けて流れそうなくらい、泣き笑いの表情になっている。

「この一箇月間、楽しかったよ。ありがとう、かおんちゃん。携帯電話はもう使えないけど、よかったらこのお手紙使ってね。大学園祭に出品したら、案内状送るから。今度逢うときは…」

俯きがちなままのひみこの言葉が、そこでふいに途切れた。
ちりっ、とした火花が散って、携帯電話の画面に割れ目が走っていた。ふと面をあげて、かおんを見つめたときは、ひみこの顔はひびが入ったかのように引きつった。信じられないものを発見したのだ。



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