陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

万里霧中の山あるき

2009-04-19 | 自然・暮らし・天候・行事




行き先のはっきりしない旅が好きだ。
正確にいえば、目的地につくという道のりのさなかに見つけた、ちいさな風景に思いがけず遭遇してしまうような旅が。いりくんだ路地裏であるとか、浅い岩づくりの底を転がるような水音をたてながら流れている用水路で、隅に寄せられた葉だまりであるとか。特別な場所へむかうはずなのに、いつのまにか、生まれ故郷にあったような原風景を探しもとめてしまう。そうした眼景のかけらのほうが、ひときわ印象にふかく残っていたりする。ふだんなら見過ごしてしまうのに、ひときわするどくなった旅愁が、そこに住むひとにとってはたわいもない日常を拾いあげて、旅びとの想い出の一幕にかえてしまうのである。

ひとり旅によく出かけたのは、美術館廻りという前提があったからだ。しかし、館内に品よくしつらえられた無菌質状態の作品の鑑賞体験よりも、外においてあるモニュメントや建築物、庭などの風景のほうがより、私にとってはしっくりとくる。
そのなかでも、ひときわ忘れられない旅の話をしよう。

数年前に学生だった私は、一年の四分節ごとにやってくるまとまった休暇を利用しては、とおくの美術館・博物館を訊ね歩くのを自分に課していた。ひんぱんに足を運んだのはやはり関東圏で、これは東京の大学に進学した友人をあてにして、宿賃を浮かせるものであった(もちろん、手みやげつき、食事おごりなど気づかいはしておりますよ)だが人ごみの電車にゆられてほうほうの体でたどりついた都心部のギャラリーでは、鑑賞するにも生きた心地がせずにいた。したがって、一週間ほどの行程のなかにはかならず近郊の、なるべく自然豊かな地にいだかれた芸術施設をふくめておく。二度目の東京美術館ツアーのオプション観光にえらんだのは、長野の美ヶ原高原美術館だった。

この美ヶ原美高原術館は、フジサンケイグループ傘下の財団法人が管理運営する山梨県の箱根彫刻の森美術館の姉妹館で、国内外の近現代彫刻をあつめて野外設置したおおがかりな屋外展示施設である。美ヶ原はいうまでもなく、長野県の中央部にあって日本百名山のひとつに数えられる山であり、その最高峰は標高二〇〇〇メートルを超える王ヶ頭。その平坦な台地としてひらけた山頂付近は古くは平安時代から牛の放牧地であったが、一九八一年に観光道路ビーナスラインの開通にともなって、美術館が開館した。私がこの館をめざしたのには訳がある。私の高校時代の恩師の作品が、そこに収蔵されているとうかがったからである。

山梨のほうは、鉄道が通っていた。両側に山がおしせまった狭い一本道のレールを列車というよりはふたつなぎのケーブルカーといった趣きの箱根鉄道。が、今回の長野のほうはあいにくと、車がなければ不自由な土地柄で、頼るのは日に数本しか運行しないバスのみ。
がんらい鉄道マニアでもなく、時刻表をきっちり確かめないままにバスに乗り込んだ私は、美ヶ原美術館ゆきと信じていたバス停で降ろされて、愕然とした。なんと、美術館直行ではなく、高原の牧場まえのバス停であったのである。そこから、およそ二時間かけて歩いていかねばならない。しかも、その数日前に神田の古書店街でしこたま買い込んだ美術書の山が、背中のリュックにはつめられていた。

扁平にひろがっている高原には一本の歩道がかよっていて、見れば「美術館はこちら」というやや剥がれかけた白抜きペンキ文字が、木目の看板に映えていた。私はその道しるべだけを頼りに、歩まざるをえなくなった。なにしろ、そのバス停で待っていても、次にバスが来るのは三、四時間もあとのことであったのだから。

バス停で降りたときには数人いたハイキングを楽しむ観光客も、いずこともなく散っていき、私はただひとり、目的地に向かっていた。
いくら歩いてもまったく先の見えない行路だった。ときおり、枝分かれする地点で、理科の教科書にでてくる指三本の法則図のようなかたちをした案内板が示すもの以外は、これといった道しるべもない。けもの道というほどではないが、かろうじて草をさばいてつくった小路である。ただ、ひたすらまっすぐ進め。そうとしか言ってこない恬淡とした道である。進めどすすめど、まわりの景色はいっかな変わらなかった。柵におおわれた放牧地には一頭の家畜もみあたらず、ただ夏の青さに萌えている草原がひろがっているばかり。

ゆるやかに傾斜がついた上り下りの坂道は、しばしば足を疲れさせた。じわじわと背負った荷物が肩にくいこんでくる。膝小僧は、寒さのために噛み合せなくなったくちびるみたいに、情けなく笑っていた。高原にとどこおる冷たい空気は、長時間ひたると確実に、体力をうばう。夏の山をあなどって軽装ではあったけれど、帰来の寒がりで長袖を着用していたことが幸いしていた。

一時間ほど歩くと、高原のシンボルマークといわれる「美しの塔」が、はるかむこうに、その孤高な姿をあらわしていた。高原の涼風を通しながら、石垣のように反り返って空にそびえているこの構造物は、ガイドブックでみたほど明るく訪問者でにぎわってもいない。火山産の鉄平石で築かれたその霧鐘塔は、登山者のために霧が視界を悪くする日を音で知らせたり、また遭難者の避難所ともなっている。興味がひかれはしたが、そこに立ち寄る余裕はなくて、遠目に観察しながら素どおりするのみであったが、近づくにつれて人は消えてしまっている。十八世紀英国のピクチュアレスク嗜好の絵画によくみられる、無人の遺跡のようにも思われた。
その塔をこえると、めぼしい風物はみあたらず、延々とまたなにもないアルプスの山道がつづく。さいしょは、清浄な空気につつまれて、また足もとにちいさく咲いている高山の花々にも目を留めながら、寂しさをまぎらわす行路であったが、しだいとそんなゆとりは失っていった。

寒さが身にしみこんできて、視界がかすんでみえた。いつのまにか霧があたりいちめんを覆っていて、二、三歩先までしか見通しがきかなくなっていた。ただ真っ白なもやに包まれた世界。ふりはらおうにも、いっこうにつかめない。方角もさだまらず、はたして自分の足がすすんでいるか、退いているのかさえ、おぼつかなくなった。恐くなった。誰もたずねるあてもない。
「遭難」という文字が頭をよぎった。塔の鐘は鳴っていない。あたりまえだ。あれはその役割をおえている。登山愛好家で山を甘くみていて遭難し、目を凍傷で痛めてサングラスを愛用していた教師の話を思い起こした。リュックには、めぼしい食糧は残されてはいない。が、いまの私にはその避難所まで引き返していくという考えはなかった。
霧はいまだ深い。案内の目印もかくされてしまった。道を外れて迷ってしまったのかもしれない。そんな不安におびえながら、それでもやみくもに歩きつづけた。山中で迷った場合、いたずらに動いてはいけないと知りながらも。この白い闇から逃れる術はただひとつ、歩くだけだ。この霧を抜ければ、ぜったいにあの憧れの美のモニュメントにであえる。ただそう信じて。

この雲の海のなかを泳いでいくようなふわふわとした足どりが、恐くもあるけれど、その反面こころよくもあった。あんなに高くて遠いと思っていた空が降りてきたようだった。じっさい長野県全域を見渡せるほどの眺望がのぞめる高所なのだから、そう考えておかしくはなかった。小学生のころに青少年自然の家で過ごした山の暮らしの空気に近かった。この世ならぬ不思議な世界に迷い込んだようだった。その目隠しのベールの途切れ目から、やっと建物の連なりが覗いてきた。とうとう意中の野外美術館にたどりつけたのだった。

場内にはいると、ふしぎなことに、さきほどまでの重く垂れこめていた霧がすっきりと晴れてきた。分厚い白雲がながれていく夏の青空のしたで、磨かれた表面に光りをまぶしながら、重厚なフォルムが輝いている。なだらかな緑の丘陵地に沿って、地からうまれてきたかのようにならべられた金属の造形品の群れは、おもしろいものだった。

しかし、私にとっては、さきほどの幻想的な歩路のほうが、ふかく刻まれた。それはあらかじめガイドブックでおぼえていた美ヶ原のイメージとはまったく異なるものであった。私だけがこの身に体験し、そして再現しえないものであった。

街のあざやかなランドマークや、進め止まれを促す信号機や、アスファルトに伸びて描かれた白い道路標示や、そういったもろもろのガイドに縛られない歩行というものが、理想でありながら、じつはいたく恐ろしいものだということをあらためて感じさせられたできごとだった。屋外彫刻というのは八〇年代、都市開発にあわせて景観を美しくととのえるためにさかんに街にかざられたのであるが、いっぽうでそれが、おおきな社会問題をもうみだしている。それは、あれやこれやと、雑多に指示をだしてひとの動きを支配する標識群や、あるいは考えなしの区画整備とかわらない美の公害なのである。

あの霧の時間に私がいたのは、およそひとが創りなしたものが,いっさいがっさい、消え失せてしまった世界。すこし大げさな物言いであるが、あれはこの世にあって、この世あらぬ世界。そうだったといえる。

じつは、これほど苦労してたどりついた高原美術館であるが、お目当ての彫刻家の作品はそこにはみあたらなかった。あとで、当のご本人におたずねしたら、現在国会図書館玄関前に貸し出し設置されているとのこと。おもわず苦笑したけれど、納得もした。高原美術館では、収蔵作品がおおすぎるためか、無秩序におかれたおかげで、お互いに効果を帳消しにしあっている例もみられた。それは美術品というよりは、巨大な遊具をてんでばらばらに配置して眺めさせている。そこに敬愛する師の作品がなくて正解だと思われたし、かつ、けっして無駄足とはいえなかった。

もし、この現実生活から足を向かわせるものをすべてなくして、さあ自由に歩きなさいと言われても、それができるのか疑問である。導きの糸に頼らなければ、道をあゆむことを恐れる今にあって。なんでも、かんでも若さで挑めた昔日がなつかしい。
芸術体験とは日常から逸脱した光景をかいまみさせるものだ。それは普通からのエスケープである。しかしながら、あまりに美術館通いがすぎると、その非日常が日常となり、アートが与えるインパクトはきわめて薄らいでしまう。それは写真に撮ったものほど、あんがいこころを裏切るような軽い想い出の品でしかなく、また必死にノートに書き記したものほど、存外諳んじられるほどおぼえていない、というのに似ている。記録手段に依存すると、想い出は物理の制約から脱しきれずに、日常のなかに丸めこまれてしまう。
あの千里万里さきまでものの見えない山岳体験は、一種のレジャーランドと化したミュージアム鑑賞以上に、孤高で深遠なアルピニズム精神をもたらしてくれた。とても貴重な体験だったといえる。
別の世界を旅してきたような気分だった。






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