陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

澤田瞳子の小説『星落ちて、なお』

2021-10-05 | 読書論・出版・本と雑誌の感想

偉大なクリエイターの子に生まれついた者には、およそ三重の苦しみがある。
ひとつ、観者(読者)としての不作為。下手に目が肥えているだけに自己評価が低くなる。
ふたつ、作者としての不満足。たぎる創作意欲をおさえつけることがままならない。
みっつ、親子としての不義理。親きょうだいですらライバルになる。血はしたたかに流れているはずが、足りない才に悶え苦しむ。

『星落ちて、なお』は、新進気鋭の歴史小説家による天才絵師の娘に生まれたとある女の半生記。著者は澤田瞳子。破天荒な京画家のエリートを主役に据えた『若冲』では惜しくも逃した直木賞を、本作にて引き寄せた。まさに直木賞は、この一作を待っていたといえる──そう形容するにふさわしい読後感だった。




この物語の主人公は、とよこと河鍋暁翠(きょううすい)。幕末から明治にかけて活躍した絵師河鍋暁斎の長女である。
むろん、実在の人物である。とよの苦悩は偉大な父の没後から暗転する。養子先から出戻りした異母兄・周三郎こと河鍋暁雲との確執。遺品の管理を巡り、さらには絵の受注も争い、憎悪うずまく。

父から薫陶をうけたとよは、しかし、跡取り然としていたわけではない。
筆の遅さと凡庸さとを自覚し、女の身ゆえの引け目(明治民法は江戸期までは当然だった女系相続を許さなかった)もあったが、病弱の妹やうだつのあがらぬ次男坊の弟を養うため、生計(たつき)を得ねばならなかった。父に愛憎半ばする想いを抱きながらも画業邁進する兄の非情さにも、どこか遠慮と理解がある。常識的な妹にとって、奔放ものであってもお兄ちゃんなのだ。

しかし、これは絵師の火宅をテーマにした、よくある家族崩壊の愛憎劇ではない。
美に執着し、囚われた者たちの入り乱れた悲劇ともいえる。河鍋派の後継者とされ、帝室の覚えもめでたきはずの兄は志半ばにして病に倒れ、画業に理解のない夫と離別したとよは母子ふたり、女弟子も抱えた画家所帯となる。女子美術学校での教職を退くも、その出身の閨秀画家・栗原玉葉ら若手の美人画に出し抜かれていく。河鍋暁斎の奇想天外な画風が時代遅れと一蹴され、狩野派画壇の物腰柔らかさと内奥された女性美を追求したとよの美学は、新しい時代に打ち砕かれる。しかも、よりによって可愛がっていたはずの弟弟子・真野暁亭の、わが父わが師を蔑ろにした言葉によって。その暁亭の息子との私淑関係や、画業から遠ざけたはずのおのが娘にも、新旧世代ならではの葛藤がある。良くも悪くも、絵によって人が繋がり、男と女はもつれ、親と子はすれ違う。綺麗な額縁に収められて一級品のラベルが貼られた文化には、そも、こういった血の通ったドラマがあるものだ。

日本美術院の絵師たる橋本雅邦の没骨法、脱自然主義の画風へのひそかな反骨心。しかし、その師弟愛への同情。人気を博した寺崎広業たち巨匠の弟子筋から軽く見られ、時代が求める美の在り方、軽薄で表面的な大正期の女の描き方に対する、明治の気丈だが控えめな女としての抵抗。勧業博覧会が催され絵に点数がつけられてしまう哀しいその時代、北村直次郎(四海)をして語らせた画壇への叛逆。女流画家の半世紀を通して、日本近代美術史の光と闇が描き出されてもいく。それは、玉葉と並び称されたあの上村松園が歩んだ波乱万丈な歩みとは違った、とても静謐で冷徹な女流画家としてのまなざしである。傍流にいたからこそ見えてくるものがある。

大正の終わり、関東大震災を経て昭和を迎えようとしたその頃。
初老にさしかかったとよは、やがて絵師としてではない、もうひとつの自分の使命に目覚める。それをもたらしたのは、かつてパトロンであった豪商鹿島清兵衛のもたらした言葉。金に飽かせて放蕩したがゆえに人生破綻し、ひとりの女に狂って落ちぶれた男の物悲しい告解と悟りがこころを動かす。自分の人生に絵があったことは、父や兄との対決ではなかった、そこには喩えんかたなき喜びがあったはずではないか。河鍋暁斎という巨星を仰視してばかりだったとよが辿り着いた真実は、自己肯定は何かにとって代わることではもたらされないという教えでもある。

葛飾北斎の娘・応為あるいは、東洲斎写楽の娘などなど、実在あるいは架空を問わず、美術史上に埋もれた女流クリエイターを主人公にすえた物語が、ここ近年増えている。
その描き手はやはり女性が多いのだが、女性ならではの男性を仮想敵とみなしたフェミニズムあるいは少女漫画的めいた同業者とのロマンスといったありきたりな展開は、本作には存在しない。勝利か愛しかない戦いはここでは展開しない。三国志やら戦国武将やらのゲームや漫画を入口にして歴史小説に参入した書き手にありがちな、安っぽいヒロイズムもそこにはない。渋沢栄一の新札をつまらないと称するひとにありがちな、大文字の教科書の人物名のみが、派手な事件こそが歴史をつくるという幻想のおろかしさを、これからの歴史小説の担い手たちは認識すべきなのだ。語り伝える名もなき者がいなければ、この国も、どんな偉人たるも、生きながらえてなどいない。

「日本画」という不思議な呼称や概念は明治期になって編み出された。
それまでの日本の歴史上、絵画の本道にあったはずの様式は、明治の文明開化からこのかたバタくさい洋画の隆盛により、小さく一括りにされて片隅に追いやられてしまったのだ。仏像が火の焚きつけにされてもおかしくなかったこの激動期、日本の伝統的な墨と顔料の絵は、のちに近現代コレクションを形成する豪商たちに支持されなかった。モノ好きな愛好家に価値を値踏みされる古物商の取引として、骨董品扱いされた。時代の最先端の美にはなれなかった。とよが、廃れ行く河鍋派を目にして、かたくなに閉じていた父と兄への口述を覚悟したのも無理からぬことであろう。関西に多い、日本画の偉人の子孫による私立の美術館はこうした危機感のもとにはじまったに相違ないのだ。なお、とよの口述相手は『本朝画人伝』で知られる文筆家・村松梢風。

著者の澤田瞳子氏自身も、なんと作家二世。時代小説で知られる澤田ふじ子氏のご息女である。
とよに自己投影したというのでもないが、創作者を親に持つ子の苦労の描写には説得力がある。評者によれば古文を読み下しできる能力があり、事実、多くの一次文献を渉猟して構成されたことがうかがわれる作品には、その時代に居合わせたのではないかと錯覚するほどのリアリティが感じられる。デビュー作の『孤鷹の天』をはじめ、歴史小説に少ない古代史に強いのも魅力のひとつ。また研究者を目指していただけに仏教文化にも造詣が深く、仏師定朝を主人公にし藤原朝の政争を扱った『満つる月の如く』などの良作も多い。

ところで、河鍋暁斎は狩野派に教えを乞うたが、さらには歌川派の浮世絵に属し、さらには土佐派、琳派、四条派まで、流派に囚われず幅広く絵を学んだ。まさに絵の百科全書。
お雇い外国人建築家のジョサイア・コンドルとの交流や、フランス人美術鑑定家ノエミール・ギメと親交を深め、その盟友の画家フェリックス・レガメと肖像画を競い合ったという逸話まである。もし、暁斎が存命であったなら、岡倉天心の肝煎りで東京美術学校(東京藝大の前身)の教授職にあったともいわれ、日本の美術教育の中心にいたはずの人物なのであろう。狩野派の伝統だけをかたくなに保守し続けた不器用な娘とは逆に、この父が余命長寿であったならば、あんがい、当時の世相を反映した若者受けのいい絵だって余裕綽々で描いていたのかもしれないのだ。

河鍋暁翠は昭和初期まで生き延びたが、受賞歴があるものの画壇の中央にはおらず、個人塾として絵を伝えたという。画技や美の感性は教科書ではなく、師弟関係でこそ伝授されるという信念があったのだろう。人の好みに左右されて筆を曲げることへの違和感が。

その娘は医師になり、現在の河鍋暁斎記念美術館の館長は孫娘。画家にはならなかったが、先祖の画風を世に残した。弟子によれば、河鍋暁翠女史は穏やかな人柄であったらしい。人生は短く芸術は長いとは申せ、長く生き延びただけの人間が語れる歴史はあるのだ。後世の小説に選べられるべくして選ばれたお人であったに違いない。

(2021/09/03)




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