陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

こども美術展

2009-12-06 | 芸術・文化・科学・歴史
今週末から開かれた新聞社主催のこども美術展に、日曜の午後に出かけた。会場は三年ほど前にリニューアルオープンした商業施設の、展示場だった。通常なら、市民会館だの、図書館だの、電力会社がもってる企業ギャラリーだので開かれる辛気くさい展観になったはずだ。買い物がてらに寄れる駅前とあって、客足は多かった。

美術展といっても四つ切り画用紙に描いた絵画と、半紙サイズの書道だけではあったが、なかなかの見応えはあった。小学一年から中学三年までの、のべ二百点あまりの力作が並ぶ。こういう庶民的な展覧会は、ふたつみっつ抜きん出た作品が見つかればいいが、これは凄い!とうならされる逸品が何点かあった。

新聞社特別賞を受賞したNさんの書。
小学三年生の女子とは思えない、絶妙な字の配し方が目をひく。とくに「の」のカーブする線の強弱のつけ方がすばらしい。書は絵画と違い一発勝負で、運筆をごまかしようがない。ブレーキのかけ方を誤れば線が崩れてしまうところをしっかり抑えながら、美しい曲線を描く。すばらしい。
彼女がすばらしいのは、半紙に折り目をいれていないことである。縦長の半紙に二列四文字を描こうとすれば、たいがい中央から伸びたうっすらと十字形の折り目がついてしまう。書き手はこの枠内の案内に囚われ、生き生きと書けないことが多い。漢字仮名まじりなのに、漢字と平仮名とバランスが不自然になったりするものである。
折り目が多いと紙は浮き上がり、筆に吸われやすくなる。そのため、墨がぼったりとついて思い切った撥ねやかすりが表現しづらくなる。なにより、白紙のなかに字を並べる構成力が育たない。みっともないのは、字を書いたあと、左側に名をいれる余白を忘れてしまい、本字の隙き間を縫うように氏名を記してしまう例。油彩画のサインなら達筆でなくともよいが、習字はそうはいくまい。最後まで気が抜けないのである。

絵画部門でも、いくつか遠目に光る作品があった。
大賞を受賞した小学四年男児の盆踊りにいそしむ群衆を描いた一枚は、賑やかな様子を色彩豊かに描いていた。しかし、私がこころ惹かれたのはその隣にあった、女の子が水槽のなかで鰻を手づかみしている絵。こんなワンショットを捉えて材としただけでもユニークなのだが、斜め横から捉えた構図のセンスにうならされる。たいがい小学生というものは、真正面か真横からしか人間をとらえず芸がない(しかも、画風がさくらももこ風(苦笑))ものだが、この小さな画伯は違う。色づかいがやや平坦だっただけに評価はやや低かったかもしれないが、大輪を予感させる。骨のしっかりとおった肉感のある人体の描き方で、この年頃の子がやりがちなぬいぐるみか昆虫のような手足をもった人間とは一線を画している。

小学校高学年から中学生ぐらいになると、無難な絵柄が多くなる。とくに、なにがしかの漫画かイラストを模したようなものは、小ぎれいなのだが興趣に欠ける。また蛍光塗料を肌に混ぜ込んであるのも、アニメーションやインターネットの画像、商業印刷物のべったりした色彩感に慣れてしまった世代ならではといえるだろうか。こういう絵画を平気で展示してあると、教育者ないしは選定者はいったいどういった審美眼をもっているのか、と疑いたくもなってくる。国がアニメや漫画文化の発展を後押しし、いまや大学でそれらを教える時代にすらなったので、こういう絵柄が好まれているのだろうが、ちゃんとしたデッサン力がないのに、作風だけカワイイ系にしたものが多くなって代わり映えがしない。
また、あまりに大人顔負けの様式美があるものは敬遠されるきらいがある。あくまで審査員が望んでいるのは、「美術以前」の「図工」とよぶべき子どもらしい絵画なのである。

ちなみに上述のNさんは、ご母堂が書道の師範であるらしい。血筋というのもあるが、幼い頃からすぐれた書に触れてきたのだろう。画家の作品を眺めていると、その人の生まれた環境というものが透けてみえるものだ。

手前味噌な話で恐縮だが、私はこういった絵画展に入賞したことはなかった。とくに小学校の先生は美術の専科出ではないので、ありきたりな指示しか出さない。印象派ふうに点描で描きなさいといえば、横にならえでクラスの皆が一様な画風になってしまうのが我慢ならなかった。
選ばれたといえば、ポスターなど字が組みさっていて、絵の巧みさよりも伝えるメッセージの面白さを競うようなものばかり。おなじように育った姉妹に比べ才がなさすぎたが、この劣等感は美術館巡りをしてさらに広がってしまった。幼い頃に、太陽を赤とも黄とも思わず、無心に光りのゆらぎだけを追いかけたような、あの感性がなくなってしまった。つまり、筆先の重なりによって、ものの本質を形成していこうという探究心がなく、既製品のような色とかたちのなかに埋没してしまっている。描いてはいるが、それはどこかで買ったことのあるような絵だ。そして、この年になってこんなものしか描けないという羞恥心がはたらいてしまう。

年齢にみあった絵を描くべきだと思うのは、やはり古い絵画教育にとらわれているせいかもしれない。
批評精神をもたない子どもの眼でまた世界を視られたらと願うばかりである。


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