神に生かされた人生!

日々の生活の中に出来事や、アフリエリトを紹介します。

私のルーツ

2017-09-01 02:48:55 | キリスト教

私は日常的な家庭生活をしてこないで、20歳まできた。

父は私が5歳の時、事故でなくなった。

母は、それから、私たち兄弟を祖父母の預けて、東京で、家政婦として、働いた。

私は10歳の時,養子にだされ、1年間、中学の英語の先生とお母さんが医者で、2人の兄弟がいた、家

庭にいった。

しかし、女の子が欲しいというお母さんに赤ちゃんができて、また、祖父母おもとに帰った。

そして、厳しい、躾の中、反抗期を迎え、祖父母とは、あまり、親しみのもてないまま、高校を卒業ま

で、世話になった。

普通の家庭なら、子供は自立してせいちょうできたのだろうけれど、私はいつも、人の顔をみながら、劣

等感をもちながら生きてかなければならない性格になった。

なので、父母のこともよくわからないまま、父型の祖父母のこともしらないまま、60歳まできた。

しかし、20歳の時、イエス様に出会い、40年間のあいだに、次第に父母のこと、祖父母のことが少し

ずつではあるが、知ることができた。

私が母と近しい関係のなって、交流できたのは、私が介護職について、介護支援専門員として、はたらき

ながら母の介護をしていたときからだ。

神様が最後に、母を看取るようにしてくださった。

父は戦争に貢献して、勲6等の勲章をいたいたようだ。

ビルマに出征して、食料調達の仕事をしたようだ。

もし、本当なら、死の白骨街道で、大勢の兵隊さんが亡くなったので、生きて帰って、母と結婚しなけれ

ば、私は生まれていない。

それから、中部発電に就職して、労組関係の仕事をしたらしい。

私達兄弟は、戦後うまれたので、何もなくなった日本の復興のために、父の世代は死にもの狂いで、がん

ばったのだろう。

亡くなったのはある程度日本の復興がすすんで、落ち着いてきたころだ。

子供は3歳まで親孝行をすませていると言われている。

東北大震災が起こって、今年で、6年がたった。

丁度、戦争が終わってその時生まれたこどもは、8歳になっている。

私の1年上の兄はちょうどその年に当たる。

東北大震災の後、日本中のたくさんの人が東北にボランテイアにいった。

戦後の何もなくなった日本の社会は、お互いに助け合っていかなければ、やっていかれない状態だったの

だと思う。

会社が家庭より優先され、社会保障が確立され、いい会社にはいれば、定年まで安心して生活できる社会

を作り上げた。

男性にとっては、会社が家庭だった。家にかえっても、奥さんとはメシ、フロ、といえば、すぐ、奥さん

がそれに答えたくれた。

そして、その関係が、定年まで、つづき、奥さんは、定年をまって、退職金を半分もらって、離婚する熟

年離婚が増えた。

馬車馬のように働いた世代は現在85歳くらいになっている。

私の父は生きていれば100歳だ。

私が結婚した人の義理の父は100歳まで生きて、亡くなった。

私のしらない、父と同じ時代を生きた義理の父をもてたことは、神様からのプレゼンと思う。

戦争に行った時も、若い兵隊さんを指導して、多くの若い兵隊さんの死をみて、戦後は共産党にはいっ

て、社会の仕組みをつくる労組の仕事をしながら、若い人に信頼された人だったようだ。

しかし、家にかえってくると、母とはうまくいかず、子供に当たり散らしてたらしい。

ストレスがたまっていたようで、お酒をよく飲んでいたと聴いている。

そんな、父には、山口県で暮らす、両親と妹がいた。

妹は結核性の脊髄カリエスで、10年寝たきりだった。

父はその妹にペニシリンを差し入れて、その命を救った。その妹は臨済宗のお寺の奥さんになって、福岡でくらして、85歳で亡くなった。

妹さんはお兄さんが命の恩人だといっていた。

妹さんとは、年賀状でいつも交流をつづけていたが、いまから、4年前、亡くなった。

2回程、病院にお見舞いのいって、妹さんに会うことが出来た。

私達兄弟に遺産を少し残してくださった。

しらなかった、もう一人の妹さんの従妹の4人に会うことができた。

私が、クリスチャンになっていなければ、父型の親類に出会うこともなかったかもしれない。

私のしらなかった、ルーツが60歳をすぎて、少しづつ解明しだした。

母方の親類が静岡にいて、私が赤ちゃんの時をしっている人達で、母方のルーツはよくしっていた。

普通の家庭生活を知らなかった私が、クリスチャンの家に嫁ぎ、ともに教会につらなってこられた。

 

神は神を愛するものと共に働いて、万事を益としてくださる。(聖書)