ピーター・オトゥールのことをもう少し。
ワタシが初めてピーター・オトゥールの映画を観たのは『ロード・ジム』(監督リチャード・ブルックス1965年)だった。
たしか封切りではなく、2番館での公開を観たはずだから翌年の1966年だったか。
当時博多駅構内にあったステーションシネマで観たような記憶がある。
こぢんまりとしたきれいな映画館だった。
それもそのはず調べてみると、1965年頃の開館である。
1965年頃とはずいぶんイイカゲンだが、映画館それも地方の映画館だとあまり正確な資料は残されていない。
閉館は1981年だから、わずか16年の営業でしかない。
駅構内商店街の改装にともなって閉館との記事(『福岡市の映画と映画館100年の歩み』葦書房)もあるが、再開しても映画観客の減少で経営がおぼつかない状況だったのではないかと思われる。
ここには何度か行ったが、天神や中洲の映画館ほど通わなかったのは繁華街から離れていたせいだろうか。
〈昭和駅舎〉と呼ばれる当時の博多駅ビル。このなかにステーションシネマがあった。
ステーションシネマは当時センターシネマと並んで「百円映画」劇場と呼ばれていたとのことだが、ワタシには記憶がない。
天神にあったセンターシネマはよく行った劇場である。
西日本鉄道が運営する福岡スポーツセンターの1階に併設された、洋画専門の再映館で開館は1956年になる。
封切作品の上映もあり、1964年にはビートルズの『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』は1日の来場者が3005人を記録したらしい。
客席数は360だからエラいことである。
『E.T.』を上映しているところを見ると1982、3年か。センターシネマ。
1987年に福岡駅の再開発にともない一時閉館。
1989年には重低音で振動するシステムを設けたロードショー館、センターシネマ時代を継承した再映館、単館系作品を上映するスクリーンと3館を有した「ソラリアシネマ」として、商業施設「ソラリアプラザ」7階に新装した。
この頃の福岡のことについてはワタシはほとんど知らない。
2012年にはこのソラリアシネマも閉館となったようだ。
『ロード・ジム』の原作は1899年から1900年にかけて書かれたジョセフ・コンラッドの長編小説。
ジョセフ・コンラッドは『地獄の黙示録』(監督フランシス・フォード・コッポラ 1979年)の原作である『闇の奥』(1902年)も書いている。
ただ原作の舞台はアフリカ奥地のコンゴ川一帯のコンゴ自由国であり、コッポラは舞台背景をベトナム戦争に翻案している。
『地獄の黙示録』
『ロード・ジム』には伊丹十三や斎藤達雄が出演していることでも知られている。
ワタシもこのイギリス映画にこの国の俳優が出演しているのを観て驚いた憶えがある。
とはいえもう57年も前に観た映画である。
そのあとテレビ放映もされたのだろうが、ワタシは劇場で一度観ただけであまり憶えていない。
監督のリチャード・ブルックスは1955年の『暴力教室』をテレビ放映されたさいに観ている。
テレビ放映の初回は1968年の〈木曜洋画劇場〉だった。
この映画は、ビル・ヘイリーと彼のコメッツによる主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が強い印象を残す。
『暴力教室』オリジナルポスター。
荒れた高校の不良少年が集まるクラスの担任となった教師(グレン・フォード)と、不良少年たちの物語であるがそのボス的存在のウエストを演じるのがヴィッグ・モロー。
この映画はヴィッグ・モローのデヴュー作になる。
『暴力教室』のヴィッグ・モロー。
ヴィッグ・モローといえば1962年から1967年にかけて放映された戦争ドラマ『コンバット!』のサンダース軍曹だが、これはよく観た。
無線通信で「チェックメイト・キング、こちらホワイトロックどうぞ」という会話が始まるのだが、ワタシたちガキはこれをよくマネしていた。
『コンバット!』のヴィッグ・モロー(右)。
第66話「軍曹が死んだ」のワンシーン。トンプソン・サブマシンガンを構えるモロー。
隣でM1ガーランドを構えているのはコーガン二等兵役でゲスト出演したサル・ミネオ。
サル・ミネオはこの前書いた『理由なき反抗』の演技が印象に残る。
『コンバット!』にはサル・ミネオだけでなくテリー・サバラス、ロバート・デュヴァル、デニス・ホッパー、リー・マーヴィン、ジェームズ・コバーン、チャールズ・ブロンソンなどがゲスト出演しているが、当時のワタシにはまるでわからない役者ばかりである。
また話が大きくそれてしまった。
ピーター・オトゥールについてはもう少し続くことになる。
〈続く〉