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歌舞伎見物のお供

歌舞伎、文楽の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。

「元禄忠臣蔵」げんろく ちゅうしんぐら 4-3

2014年02月19日 | 歌舞伎

六段目「南部坂雪の別れ」、七段目「吉良屋敷裏門」、八段目「千石屋敷」は、ここです。

・六段目 「南部坂雪の別れ」

前段からずいぶん時間がたって、
元禄十五年の12月13日です。
討ち入りの前日になります。
9ヶ月間ずっと大石は、浅野家再興の話が立ち消えるのを待ちながら
吉良を確実に討てる機会を待っていたことになります。

まず、高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)の場面から始まります。
泉岳寺は、ご存知のかたも多いと思いますが浅野内匠守のお墓があります。

翌日、14日はは内匠守の命日です。
当時は、命日の前日は「逮夜(たいや)」といって精進潔斎します。命日と同じに大切な日です。
なので堀部彌兵衛(ほりべ やひょうえ)その他4人のお侍がこっそりお墓参りにやってきます。
14日が雪だったのは有名ですが、2、3日前から降っていたらしく、一面の雪です。

関係ない話ですが、この「堀部彌兵衛」は、有名な「堀部安兵衛(ほりべ やすべえ)」の養父にあたるかたですが(養子縁組した)、
名前が似ているからか、たまにですが、安兵衛と混同するかたがいるようです。
討ち入りのとき、堀部安兵衛は老人だったという記述を複数回見たことがあるのですが、
75歳だったのは、この彌兵衛のほうです。安兵衛は30代のイケイケ年代です。

ところで、じつは、討ち入りの準備は整っています。吉良の在宅さえ確認できればすぐさま突っ込める状況です。
この段階で赤穂浪士が故主の墓参りをすると、また「討ち入りか!? 」とか噂されて吉良側に警戒されてしまいます。
なので、バレないように変装していたりします。
ここで、「また落伍者が出た」などとみんなで嘆きあいます。

学者風の男がやってきます。「羽倉斎宮(はぐら いつき)」といいます。
京都の神社の神官なのですが、国学者でもあります。面識はないのですが大石と同門です。

このひとが、彼らが赤穂藩士なのに気付いていろいろ暴言を吐きますが、みんな言い返せません。

「吉良の在宅さえ確認できればすぐさま突っ込める状況」なのですが、
これが、わからないのです。
当時の大名屋敷は大きいので、家の主人がいるのかいないのか、確認できないのです。
なのでムダに時間だけがすぎていき、周囲に「やる気あるのか」と言われる状況です。

さて、斎宮は、なんと、
吉良を確実におびき出す方法を知っているといいます。
ちょ、まじ?なにそれ!?

というところに大石がやってきます。
こちらはお供も連れて公式にお墓参りです。
目立つから来るなといったのに。ていうか、来るなら堂々と来い。変装とかして墓参りされても殿は喜ばない、と叱る大石です。
正論です。

斎宮と墓参り4人組は退場します。

大石お供の孫左衛門さんはずっと大石に仕えてきた正直者なのですが、
田舎の娘さんが病気です。
今日はなんだかおなかが痛いとか言って挙動不審です。
墓参りをする大石を待っている孫右衛門ですが、迷った末に書置きを残し、雪の中を去っていきます。

決して無責任な男ではないのです。
でも、2年近く全てを犠牲にしてただ待つというのは本当につらいことなのだと思います。
その「つらさ」を見る側に伝える、哀愁漂う場面だと思います。

さて、墓参り4人組が戻ってきて斎宮の計画を大石に知らせます。
斎宮の知り合いが、名品の茶釜を手に入れたのです。
吉良は茶会が大好きです。
茶釜をエサに茶会を開いて招待すれば、絶対にやってきます。その帰りを襲えば確実です。

という計画なのですが、大石はこれを断ります。
卑怯な手だからです。
「敵を討つためにまっとうな方法でがんばる」ことが主君への忠義なのであって、
手段を選ばすに相手を殺せばいいわけではないのです。

大石はそのまま立ち去ります。


このまま大石は、表題の「南部坂」に向かいます。

南部坂というのは赤坂にあった坂の名前です。
内匠守の死後、奥方は瑤泉院(ようぜんいん)と名を変えて出家して南部坂の屋敷に住んでいます。

大晦日が近いのですす払いをしています。
赤穂藩の藩士たちを見知っている腰元たちが、
以前の藩邸を眺めている藩士たちを見かけたなどと気になる噂話をしています。

ここに大石がたずねてきます。

内容としては、
敵を討つ気がないように見える大石にいらだっている瑤泉院は、死んだ内匠守の形見でもある仏像に、大石が焼香するのを許さず、
大石はそのまま、蔭ながらのお別れを言って退出する。
これだけです。

むしろ印象的なのは、
同じような雪の日、高台にあった赤穂藩邸から一面雪景色の麻布や目黒の家並み、
そのむこうにくっきりと富士が見えたこと、
さらに夕日に沈む赤い富士、などの思い出を大石が語る部分だったりします。
簡潔なセリフなのですが、当時の江戸の美しさがふと目に浮かぶような場面です。

全体にこのお芝居は、真山成果先生らしい重厚な台詞劇という点が強調されがちですが、
台本を見ると、膨大な資料とともに場面場面の舞台構成が細かく指定されており、
真山先生が当時の江戸のさまざまな光景の魅力を伝えようとしていた意図が感じ取れます。
この場面も、当時の武家屋敷町の、物堅いと当時に豪奢な、洗練された雰囲気をうまく味わえるといいなと思います。

大石は京都から江戸に今回やってきたわけですが、
道中に詠んだ和歌をしたためた日記を置いて、退出します。


門外の場面です。

前半にも出た「羽倉斎宮(はぐら いつき)」が道を通りかかり、そこに大石も出てきます。
斎宮は大石を見てからみ、いろいろののしりますが、
討ち入りの本心を言えない大石は反論しません。

ここで、
赤穂城明け渡しのとき、大石は奥方の瑤泉院の「化粧料(けわいりょう)」の中から「690両ちょっと」借りた、
という話が出ます。
「化粧両」は、持参金です。瑤泉院は赤穂に嫁入りするとき持ってきた持参金をそのまま持っていて、
大石がそれを借りたということになります。
従来版の忠臣蔵でも、「大石の祇園での遊興の膨大な資金はどこから出たのか」と聞かれることはありますが、
一応千五百石の知行があったので、ためこんだお金もあったのだとは思いますが、
瑤泉院の持参金から借りた、というのは興味深い考察だと思います。

反論しない大石を、ついに足蹴にしてののしった斎宮は、そのまま門内に入ります。
歌道に詳しいので、瑤泉院が斎宮に和歌を習っているのです。

当然、直後に斎宮と瑤泉院は一緒にさっきの大石の和歌日記を読んだことになります。

突然屋敷の窓が開いて、瑤泉院が今までのことを謝ります。
その他関係者も出てきて謝ります。
ここで「あやまりました」と言うのは、当時の言い回してす。
「ごめんなさいと言いました」という意味ではなく「私が間違っていました」というニュアンスです。

そこに、吉良邸を偵察していた「寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)」がやってきます。
今晩、吉良が在宅していることを確認したのです。
では今晩決行です。
南部坂の屋敷のひとびとに別れを告げて、大石は去っていきます。



・七段目 「吉良屋敷門」

討ち入り直後の場面になります。

吉良邸は制圧したのですが、吉良がまだ見つからないへんから始まります。
舞台面はずっと門の周辺ですので、屋敷内で吉良を探す場面はありません。
浪士のひとり、「近松勘六(ちかまつ かんろく)」の家来の「甚三郎(じんざぶろう)」が、
主人を心配して屋敷の周りで一生懸命旦那様を呼んでいるのがいい味を出している場面です。
この甚三郎は、下男とかそういう立場のひとで正式なお侍ではないので、討ち入りにはまぜてもらえません。

屋敷の外をうろうろしている4人は見るからに怪しいですが、味方です。
赤穂藩士の親戚筋のひとたちで、助太刀に来たのですが、
身内以外に迷惑はかけられないと断られて、
邪魔者が来ないように屋敷外をボランティアで警護してくれています。

吉良がなかなか見つからないので心配してると、
誰が吹くやら呼子の笛ー(三波春夫先生の浪曲)
吉良を討ったようです。喜ぶ4人。
引き続き警護することにして退場します。

また甚三郎が出て心配していると、「堀部安兵衛(ほりべ やすべえ)」が門から出てきます。
自分の主人の近松勘六が怪我をしたと聞いてパニック、
入るなと言われていたのに屋敷に駆け込んでいきます。

安兵衛は、なんだかぼやっとしていて元気がありません。まるで討ち入りに失敗したかのようです。

ここに他の浪士も集まってきます、
討ち入りのときの様子を思い出して話し合ったり、いまの気持ちを言いあったりします。
気が抜けてぼやっとしているものもいれば、
テンションが高いままのものもおり、
それがうっとうしくて怒るものもいます。
特異な体験を共有したものだけの特別な高揚感が出ていると思います。
なかでも
「夕べの自分が今の自分とは思えない」
「いつの間にか遠い、知らないところに運ばれてきたような気がする」
というセリフは、臨場感がると思います。

とりあえず、怪我をした近松勘六のために、周辺の民家に頼んで白湯(さゆ)をもらってくることにします。


吉良家の裏側です。
お隣の土屋主税(つちや ちから)のお屋敷とに間の路地に酒屋さんがあり、
浪士数人でそこの木戸を叩きます。
店の主人の十兵衛さんは浪士たちを強盗だと思い込んで怖がってパニックです。

浪士の「神埼與五郎(かんざき よごろう)」は町民にばけてこの近所に住んで吉良邸を偵察していたので、
十兵衛さんとは知り合いなのですが、
相手が怖がっているのでなかなか話が通じないところがおもしろいです。
やっと気付いて、がらっと態度が変わるところも面白いです。

浪士たちは、せっかく酒屋さんなので酒がほしいのですが、
彼らが赤穂浪士だと気付いた十兵衛さんは、よろこび勇んで、いちばんいい酒をあるだけおごるのでした。

ここで「年寄たちが来るぞ」と浪士たちが警戒しているのは、
老人が来るという意味ではなく、主だった責任者たちを「年寄(としより)」と言うのです。
ここにやってくる「年寄」も、一番若い「原惣右衛門(はら そうえもん)は36歳です。

「年寄」たちがやってきて、
お隣の土屋家のひとたちに討ち入りが成功した報告と、迷惑をかけたお詫びを言って、去ります。
シリアスな場面ですが、酒樽を隠そうとしている浪士たちが横にいる、
作品中でもめずらしくコミカルな場面でもあります。

ここで、酒でひと息ついて平常心に戻った浪士たちが、
いまの心境をそれぞれ気の聞いた発句にして言い合いう場面がつきます。
何言っているかわからないと思いますが、発句(俳句)なんだなと思って聞くといいと思います。(まず出ませんが)


また表門に来ます。

足軽の「寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)」はここで離脱です。最初からの命令です。
関係者に結果を報告し、必要に応じて手紙なども渡さなければならないのですが、
浪士たちはこのままおそらく切腹するので、誰かが抜けなくてはならないのです。
大石はこの後の段でも、寺坂吉右衛門について聞かれて「彼は逃げた、残念なことだ」と言っています。
安全に関係者のところを回らせるには他に方法がないのですが、
かわいそうな役回りです。
ここで彼が「本当にその首は吉良のものなのか、ひと目見せてくれ」と言っているのは
本当に信じられないのではなく、
みんなでがんばったことの結果を一瞬でも共有したかったのだろうと思います。

さて、吉良は討ちましたが、目下の不安材料は
吉良家の本家、上杉藩からの援軍です。
これが来たら勝てません。大群なので。
最初は近所の「回向院(えこういん)」というお寺の境内を借りて立てこもり、討ち死にか切腹、という計画だったのですが、
回向院が門を開けてくれませんでした。

というか、上杉藩はどうも来ないようなのです。
ということは、あれ?少し時間がある?
ここで初めて大石が「討ち入りの後のことはまったく考えていなかった」ことに気付いて愕然とするのが面白いです。

けっきょく、吉良の首を持って隊列をくんで、故殿の墓がある泉岳寺まで歩いていくことになります。
最後に大石は全員に深く礼をのべます。




・八段目「千石屋敷」

「千石伯耆守(せんごく ほうきのかみ)」のお屋敷です。
門前から始まります。

大石ら、浪士たち一行は泉岳寺に向かっています。
道すがら、使者を2人立てました。
千石伯耆守は、大目付(おおめつけ)です。幕府の要職です。

大石は、当初は、終わったら全員で切腹、と漠然と考えていたのですが、
やはり今回の行動は幕府の方針に背いた、つまり犯罪です。
個人の判断でただ切腹すればいいとは思えなくなりました。
泉岳寺までの引き上げの間に討ち入り後の世間の反応を見て、
社会的影響の大きさを考えた部分もあったかもしれません。

なので、幕府に出頭して裁きを受けようと考えました。
そのための使者です。

ちょっと考えると、江戸市中での「犯罪」ですので町奉行に行くのが筋のように思うのですが、
大石は、死んだ主君、浅野内匠守は、幕府の直接の裁きで死罪になった。
自分たちの処遇についても、幕府の裁きを願いたい、と言って
大目付の屋敷に直談判の使者をたてたのです。

出迎えた家来たちも、出てきた伯耆守も非常に好意的でハイテンションです。

このあと、座敷で両人に聞き取りをして調書を作る幕があります。
ここもみんなハイテンションで、しきりに感心しています。

さらに、大石ら残り44人も伯耆守屋敷に呼ばれて、全員から聞き取りがあります。
この様子は今も資料として残っているはずなので、内容は史実どおりでしょう。
伯耆守その他の性格付けや細かいエピソードで見せる場面だと思います。

だいたい
・在所勝手か江戸勝手か(ようするに江戸に土地勘があるか)→ない。
・深夜に討ち入ったのだが提灯などは持ったのか(火事の危険がある)→月夜だったので使わなかった。
・屋敷内の証明はどうしたのか→屋敷のものに蝋燭を出させてあちこちにともし、終わったら集めて数を数えて全部消した。完璧。
・吉良を探して見つけ出すまでの経過
・吉良の息子がいたはずだがどうしたか→眼中ないので知らない。

その他戦闘や引き上げ時の様子について細かい質問などがあり、
本題に入ります。

・討ち入りもだが、そもそも市中で武器を持って徒党を組むこと自体が禁止されている。他に」やりようがなかったのか。

→そもそも徒党は組んでいない。
誰かが、ほかの大勢をそそのかして自分に都合のいい集団を作ったものが「徒党」である。
我々はすべて、自分の意思で集まったのであって、計画はしてその通りに行動はしたが、徒党を組んだのではない。
また、刀や槍は武士のたしなみとして持ったが、鎧は付けていなし、鉄砲も持っていない。
あくまで日常的な装備であって戦闘用の武装はしていない。

・そもそも吉良は浅野の仇(かたき)なのか。松の廊下でもいざこざの結果浅野が切腹したとして、
それが吉良のでいだというのは言いがかりにならないのか。

→我々は、あとちょっとで吉良を切り損ねた、主君のその無念を晴らしただけである。
敵討ちではなく、主君の思いをとげたのである。

だいたいそのような話をします。

伯耆守は感心します。


さて、
全員は4つの班に分けられて、それぞれ4つの大名や旗本の屋敷に預けられ、そこで処分が決まるのを待つことになります。
おそらく生きて帰ることはなく、死ぬとしても預けられたその屋敷でということになります。
なので、別の屋敷に預けられるひとたちは、これが最期の別れです。

表玄関です。
浪士たちを預かる大名、旗本たちが充分な警護の準備をして迎えに来ています。
彼らを逃がさないためではなく、守るためです。

大石父子をはじめとして何組かの親子が、ここで最期のお別れをします。
千石伯耆守に見送られて、大石も屋敷を後にします。

=一段目「江戸城の刃傷」、二段目「第二の使者」、三段目「最後の大評定」=
=四段目「伏見撞木町」、五段目「御浜御殿綱豊卿」=
=九段目「大石最後の一日」=

=50音索引に戻る=
=従来版の「仮名手本忠臣蔵」を見る=



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