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歌舞伎見物のお供

歌舞伎、文楽の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。

「時雨の炬燵」しぐれの こたつ (心中天網島)

2015年07月15日 | 歌舞伎
近松門左衛門の代表作のひとつ、「心中天網島(しんじゅう てんのあみしま)」の後半部分になります。
前半の「河庄(かわしょう)」は=こちら=です。

一応ここにも前半の流れを、基本設定の説明がてらさくっと書きます。

主人公の「紙屋冶兵衛(かみや じへえ)」は、その名の通り紙屋さんの主人です。
代々続く安定した商売で、妻も子もいるいいオトナなのですが、
新地の遊女「小春(こはる)」と相思相愛になってしまいました。
茶屋に通いつめたので店の経営は火の車。スキャンダルを嫌う遊女屋からも出入り禁止を食って小春に会えなくなります。
どうにか会って、会ったら一緒に死のうと思いつめて遊郭付近をウロウロする冶兵衛。

兄の「粉屋孫右衛門(こや まごえもん)」が小春に会いに行き、別れてくれと頼みます。
すると小春は「実は死にたくない。どうにか別れたい」と言い出します。
それを外で立ち聞いて怒り狂う冶兵衛。
気付いた孫右衛門に中に招き入れられて、ふたりは正式に別れます。
このとき、孫右衛門が小春の持っている手紙に気づきます。
差出人は「おさん」。冶兵衛の妻です。
小春はおさんに頼まれて別れる決心をしたのかと気付き、心で拝む孫右衛門でした。

ところで、現行上演の脚本は近松の原作とかなり違い、特にこの後半部分には改変が多いです。
そういう部分についても説明しつつ書いていこうと思います。

「紙屋内(かみや うち)」と呼ばれる場面です。

冶兵衛夫婦の店です。奥が住居で座敷になっており、店はもう閉まっているので基本的にこの座敷でお話が進みます。
炬燵(こたつ)が置いてあり、外は時雨です。
妻のおさんさんが働いている中、冶兵衛はこたつでうたた寝をしています。
実際、冶兵衛を取り巻く現実は外の時雨のように厳しいわけですが、妻のおさんさんがかばっているから無事に過ごせています。
「時雨の炬燵」という副題は、なので単に舞台の様子をタイトルにしたのではなく、
そういう状況を象徴的に表現しているのだと思います。

現行上演ですと、前の幕でも出た「太兵衛(たへえ)」が仲間と共に押しかけてきます。
太兵衛たちは冶兵衛がニセ金を使ったと言いがかりを付けます。
ここに、前の幕でも冶兵衛を助けてくれた、兄の「孫右衛門」がやってきて
太兵衛を追い返してくれます。
ここは原作にはない部分です。多少強引な「入れごと」だと思いますが、
途中でせりふだけで出てくる太兵衛について、「太兵衛だれ?」とならずにすむメリットがあります。

孫右衛門は、おさんの母親と一緒にやってきました。
おさんと冶兵衛は「いとこ」です。おさんさんの母親は冶兵衛には「おば」にあたります。
という設定はストーリー上は特に機能していませんが、
血縁に守られた、ふつうに生きていれば非常に安全な立場の男、という雰囲気を強調しているのだと思います。

新地ではいま「小春のなじみの男が小春を身請けする」という話でもちきりなのです。
「なじみの男」が「身請け」と聞いて、冶兵衛に違いないと思ったおさんの両親が怒り狂います。
なんとかなだめた孫右衛門が、事実確認のためにおさん母を連れてやってきたのです。

それは自分ではない。なじみの男が身請けというなら、あの太兵衛だろうという冶兵衛。
それでも不安なおば(おさん母)のために、「起請文」を書いて誓いをたてます。
「起請文」というのは熊野神社が発行する誓紙で、これに書いた約束は神聖なのでやぶってはいけない、
みたいなものです。
安心して帰るおばと孫右衛門。

ふたり残った冶兵衛夫婦ですが、
冶兵衛がボロボロと泣き出します。
小春が身請けされるのが悲しいのか。やはり未練があるのかとなじる妻のおさんですが、
冶兵衛が泣いていたのは、
あんなに嫌がっていたのに、結局太兵衛との身請け話を受けた小春の不実さが悲しかったのでした。
太兵衛に身請けされるなら死ぬと言っていた小春。あれも全部ウソだったんだな。

しかしそれを聞いたおさんはあわてます。
おさんは、遊女街での小春の詳しい事情は知りません。
ふたりが別れれば、あとは小春はどうにか穏やかに遊女として生きていってくれると思っていました。
どうしても嫌な相手に身請けされるという事態までは考えていませんでした。

小春の気持ちは実際には変わっていません。ということは、太兵衛に身請けされる気はないでしょう。

「小春は死ぬ気だ」と冶兵衛に告げるおさん。
信じない冶兵衛におさんは、自分が小春に出した手紙の返事を見せます。
冶兵衛は小春の気持ちが変わっていないこと、自分のために身を引いて死ぬつもりなことを知ります。

覚悟を決めたおさんは、店のためにギリギリ取っておいたいくばくかのお金と、あとは
自分の着物もほとんどは質に入れてしまっているのですが、
残った着物と子供の晴れ着までもまとめて冶兵衛に渡します。質入れすればまとまったお金になります。
小春を助けるには身請けするしかありません。

冶兵衛にはりっぱな着物を着せ、行ってこいと送り出します。
自分が迷惑をかけたあらゆる周囲の人々について、自分は罰を受けるであろうが、
そんなものよりも、ただ、あまりにありがたいこの女房を裏切るのがおそろしい。女房の罰がおそろしい。と冶兵衛は泣きます。
これは、おさんさんが冶兵衛に罰を与えるのではなく、
この女房を裏切ることによって自分に下る罰がおそろしい、という意味です。

さて家を出ようとしたそのとき、
おさんの父親の「五左衛門(ござえもん)」がやってきます。
さっき帰っていった「おば」の夫になります。おばの言葉が信じられすに心配でやってきたのです。
「おば」は、おさんの母でもあり、冶兵衛にとってもおばですが、五左衛門は外婿なので冶兵衛とは他人です。
なので、娘のおさんの心配はしますが冶兵衛のことは完全に敵視しています。

着飾って、明らかに遊郭に行く様子で出かけようとする冶兵衛を見て当然怒り出す五左衛門。
おさんは連れて帰ると言い出し、嫁入りのときに持たせた箪笥や着物も回収しようとします。
箪笥はすべて空です。
呆れ果てる五左衛門。
質入れしようとしていた着物も取り上げて、おさんと寝ていた子どもたち。丁稚や下女まで連れて帰ってしまいます。

もう小春の身請けはできなくなりました。ずっと守ってくれていたおさんもいません。
がっくりうなだれる冶兵衛です。

原作では、この場面はここで終わるのですが、
歌舞伎だと以降がかなりの改変になります。

まず、小春がやってきます。逃げてきたのです。
原作での小春の覚悟を考えたらありえないですが、舞台面は華やぎます。
もう心中するしかない、と嘆くふたり。

ここに、さっきおさんと一緒に出て行った丁稚の三五郎くんがやってきます。
盃とか持っています。「仮祝言」、正式ではないですが結婚式の用意なのです。
さらに、冶兵衛とおさんの娘、お末(おすえ)ちゃんが戻って来ます。
髪を切って尼の姿になっています。白い服にはなにか字が書いてあります。よく見ると五左衛門からの手紙なのです。
このへんは全部、歌舞伎独自の展開です。

五左衛門は、以前お金に困ったときに冶兵衛に助けられたことがあったのです。
なので恩返しをしたいと思っていました。
おさんを連れて帰ったのは、小春と冶兵衛にとってジャマだからです。
おさんは娘のお末と一緒に出家させる。
さらに五左衛門は、さっき箪笥の中身を見た時にこっそりお金も置いて行きました。
心置きなく小春を身請けして夫婦になるといい。

泣いて感謝するふたり。

と、そこに太兵衛と仲間がやってきます。
身請けしようとしていた小春が逃げてしまったので追ってきたのです。
お金もできたし、小春を渡すつもりはない冶兵衛と争いになります。
明かりが消えます。
暗闇で争っているうちに太兵衛たちは同士討ちをして倒れます。
冶兵衛はそれにとどめを刺します。

人殺しになってしまった冶兵衛。もう小春とは夫婦にはなれません。
はやり心中しるしかないと覚悟を決めたふたりは、死に場所を求めて出発します。

原作だとこれらの部分は全部ありません。
一応原作の内容も書くと、

五左衛門が、おさんを連れて出て行ってしまい、絶望して取り残される冶兵衛。

すぐに、遊女茶屋の「大和屋」の場面になります。
太兵衛が小春を身請けすると決まって、遊女屋もひと安心です。
なので冶兵衛も小春を呼ぶことができました。あきらめたので最後に小春にあいさつという感じです。
夜もふけて、店を出る冶兵衛。店のものにふだん通りの明るい態度であいさつします。
そのまま雪の中、外で隠れて小春を待ちます。

冶兵衛がいないのに気付いた孫右衛門が子どもを連れて探しに来る場面があり、

小春がしのび出て来ます。
手に手を取って心中に向かいます。

と、これだけです。
追い詰められた男女の狂おしい愛と、死に向かう緊張感はもちろんこっちのほうがよく出ているのですが、
お芝居としてはシンプルすぎるのだろうと思います。

このあとは、心中にむかうふたりの「道行(みちゆき)」があります。
近松の浄瑠璃の名文句を聞くところですが、今日びの客は聞き取れないのでつらいところです。
「橋尽くし」になっており、新地からずっと川にそって河口まで歩いていきます。
最後に「網島」にたどり着いてそこで心中するのです。

今は、孫右衛門が追いかけてきてふたりは助かる展開のなるようです。
この部分は、ほとんど出ません。

これで全部おわりです。


さて、この作品に限らず、近松門左衛門の作品は、作品自体の完成度はほぼ完璧なのにもかかわらず、
歌舞伎に移入する際はかなりの改変をすることが多いです。
もったいない気もするのですが、その理由を書きます。

上記のように、動きやメリハリに欠ける、というのもあるのですが、
それより何より、近松が書く主人公は、けっこう「ダメ人間」なのです。

治兵衛も、この「紙屋内」を原作で読むとかなりのナマケモノのダメ男です。
しかも外面をいいかげんにつくろおうとしてすぐにバレます。人生ナメてます。
妻のおさんさんは大変そうです。

これが歌舞伎だと、ダメさはネタっぽく流され、そこそこ甲斐性のある男に描かれます。
歌舞伎は演じる役者さんのイメージも大事ですから、主人公をかっこよく見せる工夫をしなくてはならないのだと思います。
人間ドラマとしては薄味になりますが、エンターテインメントとしてはわかりやすくて楽しいとも言えます。


ちょっと前までは人気作で、よく出ていた作品なのですが、
数年前に「河庄」の解説を書いた後、後半はまた上演されたときに書こうと思って放置していたら、
いつまでたっても上演されなかったのでした。
出たのに気付かなかったのかもしれないですが、上演頻度が低いことはまちがいありません。

もともと先代の中村鴈治郎さんのような、ひょうひょうとした中に色気があるような上方役者さんが演らないと
雰囲気が伝わらないお芝居かもしれません。
今の藤十郎さんでもいいのですが、少しやわらかすぎるのかもしれません。
あとは、こういう、上方のダメ男の甘々の恋というのが
今はあまり受けないのかもしれないなとは思います。

前半「河庄」

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