今朝の気温は17度・・この夏では最低でした。たぶん九月
の気温でしょう。2時間のwalking中にも汗をさほど感じな
くて、涼しいので距離も伸びました。
そして今朝の朝ごはんがなんとなく格別においしく感じま
した。今朝は4時20分に家を出ましたが、そろそろ足元が
怪しく、懐中電灯が必要かな~と感じながら、空を見上げ
ると丁度真上にお月様が綺麗な半分の姿で輝いていました
家に戻って暦を見ますと、今日は下弦の月(半月)、月と太陽
の黄経差が270度となる日・・とありましたが、説明はでき
ませんが新月と満月の中間なのかその半分の月の日という
事らしい。そして俳句の日と書かれています。8月19日とい
う数字の語呂合わせらしいのですが、江戸時代の三大俳人
とは、「松尾芭蕉」「与謝蕪村」「小林一茶」と言われます。
俳句が誕生したのは明治時代ですが、江戸時代にはすでに
俳句のもとである俳諧(はいかい)が存在していました。
俳諧とは、連歌から派生したもので、一首の短歌の上の句(
五・七・五)と下の句(七・七)を二人以上で詠み合い、
繋げていくものです。そのため、三大俳人が残した名句は、
正しく言えば「俳句」ではなく「発句」という俳諧の最初
の一句目(五・七・五)です。明治時代になり「発句」を
「俳句」と呼ぶようになり俳句が誕生したようです。
【~明治十年】の俳人
正岡子規 夏目漱石(慶応3) 高浜虚子
【~明治二十年】
臼田亜浪 種田山頭火 飯田蛇笏 尾崎放哉 富安風生
原石鼎 竹下しづの女
【~明治三十年】
杉田久女 水原秋櫻子 山口青邨 高野素十
【~明治四十年】
阿波野青畝 橋本多佳子 三橋鷹女 横山白虹 西東三鬼
永田耕衣 秋元不死男 阪口涯子 中村草田男 日野草城
山口誓子 富澤赤黄男 芝不器男 橋本夢道 星野立子
大野林火 加藤秋邨 篠原鳳作 平畑静塔
【~明治四十五年】
石川桂郎 高屋窓秋 能村登四郎
等の多くの俳人が沢山の作品を残されています。江戸の
俳人の中に小林一茶という、信州信濃町の俳人がいてその
優しい愛に満ちた俳句は今でも多くのファンがいる。
雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
大名を 馬からおろす 桜かな
初夢に 古郷を見て 涙かな
春風や 牛に引かれて 善光寺
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
17文字の文芸は、まさに至宝の芸術かもしれません。
の気温でしょう。2時間のwalking中にも汗をさほど感じな
くて、涼しいので距離も伸びました。
そして今朝の朝ごはんがなんとなく格別においしく感じま
した。今朝は4時20分に家を出ましたが、そろそろ足元が
怪しく、懐中電灯が必要かな~と感じながら、空を見上げ
ると丁度真上にお月様が綺麗な半分の姿で輝いていました
家に戻って暦を見ますと、今日は下弦の月(半月)、月と太陽
の黄経差が270度となる日・・とありましたが、説明はでき
ませんが新月と満月の中間なのかその半分の月の日という
事らしい。そして俳句の日と書かれています。8月19日とい
う数字の語呂合わせらしいのですが、江戸時代の三大俳人
とは、「松尾芭蕉」「与謝蕪村」「小林一茶」と言われます。
俳句が誕生したのは明治時代ですが、江戸時代にはすでに
俳句のもとである俳諧(はいかい)が存在していました。
俳諧とは、連歌から派生したもので、一首の短歌の上の句(
五・七・五)と下の句(七・七)を二人以上で詠み合い、
繋げていくものです。そのため、三大俳人が残した名句は、
正しく言えば「俳句」ではなく「発句」という俳諧の最初
の一句目(五・七・五)です。明治時代になり「発句」を
「俳句」と呼ぶようになり俳句が誕生したようです。
【~明治十年】の俳人
正岡子規 夏目漱石(慶応3) 高浜虚子
【~明治二十年】
臼田亜浪 種田山頭火 飯田蛇笏 尾崎放哉 富安風生
原石鼎 竹下しづの女
【~明治三十年】
杉田久女 水原秋櫻子 山口青邨 高野素十
【~明治四十年】
阿波野青畝 橋本多佳子 三橋鷹女 横山白虹 西東三鬼
永田耕衣 秋元不死男 阪口涯子 中村草田男 日野草城
山口誓子 富澤赤黄男 芝不器男 橋本夢道 星野立子
大野林火 加藤秋邨 篠原鳳作 平畑静塔
【~明治四十五年】
石川桂郎 高屋窓秋 能村登四郎
等の多くの俳人が沢山の作品を残されています。江戸の
俳人の中に小林一茶という、信州信濃町の俳人がいてその
優しい愛に満ちた俳句は今でも多くのファンがいる。
雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る
大名を 馬からおろす 桜かな
初夢に 古郷を見て 涙かな
春風や 牛に引かれて 善光寺
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
17文字の文芸は、まさに至宝の芸術かもしれません。