鎌倉八百ヶ谷戸

鎌倉の街はそのものが環境遺跡

善財 一 写真集

朝比奈辺り

2020-04-12 11:37:51 | 環境遺跡 鎌倉の谷戸
2019年の水害で朝比奈の切り通しが不通となって以降おとずれていない。
 
金沢、六浦から鎌倉に入るための要路は、朝比奈の切り通しを経る以外に、白山寺を経て和泉ヶ谷(現鎌倉霊園の北部)から十二所あるいは天台山辺りの山越えをするルート、六浦から現東朝比奈2丁目辺りから山中に分け入り、大刀洗に出るルート、さらに南の山中をへてに入り現十二所果樹園南の尾根筋を経て明石橋辺りに至るルートがあったと思われる。
 
 
 
現環状4号線沿いの鼻欠地蔵を経て朝比奈の切り通しへと向かう。
この新道からわずかに北へそれているのが旧道と思われ、民家の脇の石段を経て山中に分け入ったところに浄林寺跡がある。
 

 鎌倉の街造りは鶴岡八幡宮を中心として成り立っている。かつて由比の海浜部に鳥居があり、まっすぐに鶴岡八幡宮まで参道が続き、その左右に武家屋敷や民家が建ち並んでいた。海岸から鶴岡八幡宮まではおよそ二キロメートル。参道から東に五百メートルほどで屏風山、祇園山に行き当たる。かつて北条氏の最期の地となった東勝寺の跡が残され、妙本寺が佇む山である。同様に西へ六百メートルほどで源氏山の山並みに至る。海岸部でさえ、東の光明寺から西の長谷寺まで二キロメートル。このわずかな平地が鎌倉であったと言って良いのだろうか。

 大きく捉えると、鶴岡八幡宮の北側には大臣山が迫り、鎌倉の街全体を猛禽が翼で包み込んでいるように鷲峰山の山並みへと続き、東は瑞泉寺の裏を経、朝夷奈切通しを経て六浦、池子、逗子に至り、その手前には衣張山から尾根を連ねる山筋が名越切通しを経て小坪の海浜部まで続いている。北西は建長寺の最奥部に当たる勝上獄から明月院の佇む辺りを経て六国見山に至り、その裾野は大船方面になだらかに広がっている。建長寺の海側に聳える急峻な兜卒獄は大臣山から続いており、その山裾が巨福呂の切通しを経て西に向かい、亀ヶ谷の切通しを経、東慶寺のある松ヶ岡と尾根筋が一つになり海蔵寺の北を経て化粧坂のある源氏山、銭洗い弁天、桔梗山、一向堂、大仏坂切通し、長谷観音の背後を経、極楽寺坂切通し、由比ヶ浜の端に聳える霊鷲山へと続き、海辺に切り立つ断崖へと至る。これらすべての山襞により、平地が細かに切り刻まれているのである。

山襞によって形成された大小数えきれない谷戸こそ鎌倉の街。山襞と共に成り立っていると言えるであろう。これらの山襞も鎌倉という都市の一部として機能していたのである。

 
 
 
 


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