つれづれ

日記

私の母はサイボーグ 17

2010年03月31日 17時53分01秒 | Weblog

 

大腸ファイバーで

ポリープの位置を確認すると

とりあえず

直腸に2センチ大の物が一つあった以外

見つからなかった。

腹をえぐられるような痛みの中

母はカメラの画面で

ポリープを確認しながら

嫌な予感がしていた。

ポリープの形が

グロテスクだったからだ。

母は胃にもポリープがいくつかあるが

良性で

こんな形でなかった事は

すぐに分かった。

これはもしかしたら

癌かもしれない

そんな予感がした。

内視鏡でポリープを取り除くが

大きくてかなり難儀だった様だ。

3回に分けて焼き切り

主治医が

「検査に回して悪性だったとして」

「根が深ければ手術になります」

と母に言った。

間違いなく

癌だ。

母はそう思ったらしい。

 

 


私の母はサイボーグ 16

2010年03月30日 18時29分53秒 | Weblog

 

大腸ファイバーを施行するも

ちゃんと絶食していなかったため

見れるところは半分ほどだったが

直腸に

ポリープが見つかった。

どうやらこれが出血している事は

間違いなかったが

更に奥でも

出血の可能性があった。

「うちは循環器専門の病院のため」

「消化器内科の処置は出来ません」

「すぐに転院して下さい」

といわれ

その日のうちに

検査入院した病院へ

転院することとなった。

その日から

血液をサラサラにする薬を止め

絶食となってしまった。

栄養を摂るための点滴をしてもらったが

食べられないのはやはり辛く

寿司やラーメンが

食べたくて仕方がなかったらしい。

絶食5日目。

ついに大腸ポリープの処置の日が来た。

 


私の母はサイボーグ 15

2010年03月29日 18時55分39秒 | Weblog

 

リスが死んでしまった事は

母にとって

とても大きなショックだったが

死んでしまったリスは

戻ってこない。

いつまでも凹んでいても仕方がないと

母は前向きに

気持ちを切り替えるようにしていた。

体調も少しずつ良くなり

一時外出を許されるまでになった母だったが

突然

大量の下血があり

血の気が引いた。

すぐに看護師を呼んだが

「様子を見てください」

との事だった。

しかし

下血は止まる事がなく

その日のうちに貧血になってしまい

起き上がることが出来なくなってしまった。

主治医が飛んできて

「今すぐに内視鏡検査をしましょう」

と言われた。

母は大腸ファイバーの苦しさを

受けた人から聞いて知っていたため

「どうにもやらないといけませんか」

やらなくてもいいようにお願いしていたが

「この出血の量からいって」

「やらない事はきわめて危険」

といわれ

しぶしぶ了承したが

大腸ファイバーは

想像を絶する苦しさだった。

 


私の母はサイボーグ 14

2010年03月27日 21時01分05秒 | Weblog

 

母が可愛がっていたリスを

私は

餓死させてしまった。

私も悲しかったが

母がどれほど悲しむかと思うと

申し訳ない気持ちで

一杯だった。

父が母に

たまたんが死んでしまった事を伝えると

案の定

母の落ち込みはひどく

看護師が心配して

申し送りをするほどだった。

母は数日

泣いて過ごしたらしい。

私は母に合わせる顔がなかった。

母の落ち込みを見て

父が

「多分たまは」

「母さんの代わりに天国に行ったんだよ」

「たまにはありがとうを言って」

「退院したらまた動物を飼おう」

そういって慰めていた。

 


私の母はサイボーグ 13

2010年03月26日 19時50分27秒 | Weblog

 

手術から4日後。

ようやく母は

重湯を食べることが出来るようになった。

一般的にICUに入っている時期は

3日らしく

母の回復は

遅れていた。

状態が悪かったため

リハビリの先生が様子を見に来るが

「やめておきましょう」

と言われ続けたため

母はベッド上

自分でリハビリを行っていた。

少しずつ元気になってきた母に

私は大変なショックを受けさせてしまった。

母が入院する前

可愛がっていたペットのリスの世話を

私は頼まれていた。

「この子に何かあったら」

「母さんは戻ってこないと思っても良いから」

「それくらい大事にしてるから」

「母さんだと思って大事にして」

言われていた。

私は自分が受験だということもあり

リスの世話をすることがなくなっていた。

父がこっそり

世話をしていたようだったが

父も母の入院で

世話がおろそかになっていた。

ある日の夕方

「リスが元気がないよ」

おばあちゃんが言ったが

さほど気にしていなかった。

翌朝

リスのたまたんは

冷たくなっていた。

 


私の母はサイボーグ 12

2010年03月24日 18時20分38秒 | Weblog

 

水が飲めるようになった母は

沢山の水を要求し

看護師に飲ませてもらったが

全身麻酔をしていたためか

腸が動いておらず

飲んだ水は

全て嘔吐してしまった。

食事は重湯から始まったが

それらも全て嘔吐。

手術の翌日から

リハビリが始まる予定だったが

全く食べることが出来ず

リハビリが出来ない状態で

流動食用の栄養剤で

栄養を補っていた。

ICUにいた母は

食事が摂れないことで

うつ状態になりかけていた。

何度もドクターに

「食べれるようになりますか」

と聞いていたらしい。

さらにICUでは

管を毎日

1本ずつ取り除かれたが

「痛い事だらけでICUは地獄」

と嘆いていた。

母は低血圧だからか

血液の採取が難しく

血管に当たっても

血液が引けてこない。

看護師が何人も代わって採血するが

引けてこない物は引けてこないため

最終的にソケイ部から

ドクターが採血することになる。

1回の採血で

注射器の針を6回

刺される事となるのだ。

「採血が怖い」

面会のたびに

口癖のように母は嘆いていた。

 


私の母はサイボーグ 11

2010年03月22日 19時59分37秒 | Weblog

 

母の手術は

7時間に及んだ。

肋骨の中心を切り

骨をずらし

心臓の処置をするとか

そういう話だったような気がする。

もちろん

心臓を止めて。

7時間後

手術室から出てきた母に

父が声をかけたが

全く母は意識がなく

反応がなかったらしい。

手術から数時間後

意識を取り戻した母は

口や胸

首からたくさんの管が出ていた。

口の管を取ってもらった後

喉の渇きが尋常ではなかった。

「水を下さい」

とナースコールを押すが

「まだ飲むことは出来ません」

と言われては

意識がなくなる。

再び

「水を下さい」

とお願いすると

「まだ飲めません。5分しか経っていませんよ」

と言われる。

時間の経つのが

長く長く

喉の渇きが

とても辛く

初めて水を飲ませてもらった時

この世の物で一番おいしいのはこれだ

真剣に思ったらしい。

 


私の母はサイボーグ 10

2010年03月21日 07時12分18秒 | Weblog

 

手術当日

早朝から祖父母が

病室に集まり

手術の方法や

その後の病状がどうなるか

などの話は

父が話した。

あっという間に手術時間となり

母はベッドごと手術室に向かった。

手術箇所が

心臓

と言うことで

やはり不安があった母は

涙を流しながら

手術室に入って行ったらしい。

私は学校で

手術が無事に成功することを祈っていた。

学校では

受験が間近に迫っており

教室内には

不穏な空気が流れていた。

そんなクラスに

担任が突然

腹を立てて怒り始めた。

「あなた達は黙っていても」

「お腹が空けば食事が出てくるでしょう」

「部屋に埃があれば」

「気がついて掃除してくれる人がいるでしょう」

「それを自分でやらないといけない人がこの中にいる」

「今この時間、この瞬間にしか」

「勉強が出来ない人がいる」

「その人の気持ちを考えたことがありますか」

担任が話したのは

私の事だと

すぐに分かった。

クラスは一瞬

静かになったが

その後は相変わらずだった。

 


私の母はサイボーグ 9

2010年03月20日 08時00分53秒 | Weblog

 

一生涯

血がサラサラになる薬

を飲み続けることは

どういうことなのか。

何かあった時に

血が止まらない恐怖

母にはあった。

母は

生体弁を考えていたが

父は

「チタンにしてくれ」

と母に頼んだらしい。

自分では

どちらを選べばいいか

分からなくなった母は

一般的にはどちらが多いか

主治医に聞くと

「1割が生体弁9割がチタンです」

との事だった。

「一般的にこの病気は」

「あなたのように若い方がかかるのは珍しいんです」

「心臓がしっかりしていればいるほど」

「生体弁を入れた時の弁の痛むスピードは」

「早いと考えてください」

「10年後に再手術と言いましたが」

「もしかしたら3年後かもしれない」

「チタンの方が無難です」

結局

チタン弁に決めた。

そして主治医は

「一生涯ワーファリンを飲み続けていただくので」

「納豆は食べられなくなります」

「納豆を食べると」

「薬の効果が全くでません」

「それでいいですね」

と両親は言われたが

「納豆が食べられないのならやめます」

ともいえず

承諾した。

 


私の母はサイボーグ 8

2010年03月19日 20時31分50秒 | Weblog

 

手術前日の20時に

父と母は

主治医から

病気の説明と

手術の説明を聞き

山のような同意書

にサインをすることになった。

その中でも

母が一番残念だった話が

「納豆は好きですか?」

という主治医の話だった。

母は特別

納豆が好物と言うわけではなかったが

「手術後は」

「納豆は食べることが出来なくなるので」

という主治医の言葉に

何で昼間に説明してくれなかったんだ。

聞いていたら昼に食べたのに!

本気で心残りになっているらしい。

母の手術は

心臓の弁に付いたばい菌のかさぶたを

取り除く手術だったが

弁が傷ついていれば

弁ごと取り除き

人口弁

と置き換えなければならない。

その人口弁には

豚や牛の皮から作った

生体弁と

チタンから出来た

チタン弁がある。

生体弁は

馴染みやすく

一時薬を飲み続けるだけで

その後薬は必要がなくなる。

しかし

痛みやすいため

10年毎に再手術をしなければならない。

チタン弁は

25年は再手術の必要がなく

おそらく

一生使い続けることが出来る

ということだった。

しかし

全くの機械が体内に入るため

血栓が出来やすく

その為には

ワーファリンという

血液をサラサラにする薬を

一生涯

飲み続けなければならなくなる。

「どちらを選びますか?」

両親は選択を迫られた。