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デザインによる公共-水戸岡鋭治さんの講演を聴いて-

2011-01-25 17:25:32 | アート・文化

デザインがこうも鉄道を魅力的にするものなのか、という事を気付かせてくれた水戸岡鋭治さんの講演会が1月15日にあった。宮崎県インテリアデザイナー協会による10周年の特別講演というもので、タイトルは"デザインは公共のために"である。

水戸岡さんがデザイナーという仕事をはじめた時期-まあ、誰でもそういった経験はあるものだが-、仕事を選んでいては食べていけない時代もあった。そこで仕事を断らずに何でも引き受けたと述べていた。そしてこの時の経験は、現在の多様なアイデアに繫がっているのだと。

こう話を切り出した水戸岡さんには、決して飾らない、仕事を一所懸命やる一人の典型的な日本の職業人という感覚が見て取れ、なにやら非常に好感を覚えたのであった。

以下、水戸岡さんの講演内容で目立った所を書き出してみたい。

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デザインとは総合的な計画であって、色やカタチを決めるに留まるものではない。言わば考え方や生き方といったものを生み出すものである。そういった意味で一人の子供を生み出し、生き方を教え、成長するまで見守っていてくれる母親こそが最高のデザイナーである。

公共という考え方をみていくと、人間は一人でいる時はプライベートであるが、二人になった時点で、もう公共の空間に存在しているという認識が必要である。デザイナーの仕事は色々な人の要望を聞き、それをとりまとめるという作業が大きい。いわば代行業であるのだが、公共デザインという事を考える際、時には自分が納得いかない、自分とは異なった考え方を受け入れる(だが決して納得した訳ではない)事も重要になってくる。そうした存在をどう消化して自分のものにしていくのか。そのプロセスこそが、自分自身を育てていく。

JR九州でのこれまでの経験は、鉄道に関して素人な自分を育ててくれたが、そこにはある種の寛容と、他にはない新しいものに取り掛かろうとするビジョンがあった。ただそれは時には専門性の高い現場の負担につながったりもする。デザインと技術との間で膠着してしまう状況が生じる。そういう時はトップダウンでモノゴトを決定する方法を選んでいるが、そうした試みが現場に新しい視点をもたらしたりしているのは確かである。

例えば海幸山幸に強度の弱い杉材を多用する事への反対は多かったのだが、実際やってみると可能であり、そして予想以上のヒットとなった。JR九州は手間隙がかかって、やっかいなものでも、有効ならば使ってみようという意識が高い。これは歴代のトップが優れた判断力を持っていた点に恵まれたからだろう。

鹿児島中央駅を赤から黒に塗り替えた際、行政との間で無彩色(N)の色調の点で周辺景観との調和をとるという点で異論があった。ただ結局人間には数値で表されるような細かい差は見分ける事が出来ない。すなわち、行政はこういった所を決定するべきではない。

JR九州で構築されたソフトが、現在他の鉄道の色々な所へ応用・波及している。優れたデザインがごく普通に使われるという状況になる事は、使う人の意識をも変える。また、そこに住みたいと思う気持ちが生じ、再び人が土地に戻ってくる事にも繫がる。

自分は建築をデザインするに際して、前面に木を植えるという事を行う場合がある。木は風を生み出す優れた装置であるのだが、一方で行政は、方々に散る落ち葉を嫌うケースがある。1年のうち落ち葉の清掃をしなければならない期間は短い。行政ではなく、住民や利用者が落ち葉清掃を行えばいいのであって、公共の意識はそこから育てられていく。新しく出来る博多駅に関しても行政は同じような話をしてきたが、JRが清掃を行うという事で解決した。

デザイナーはモノが生み出されていく最後の段階まで手をかける必要がある。そこに素晴らしいものが生まれる。一方、街を使う側、ユーザーの視点は重要であるが、何でも利用者の意見ばかり取り入れるという考え方には疑問がある。街を使うには、使う人が学習する必要があるのだ。しかしながら、ユーザーのクレームに現場はどうしても反対し難い。デザイナーが現場の代わりに戦っていく姿勢が望まれる。

子供を優れたデザインに触れさせる事は極めて重要。英国では幼児のうちに最高のデザインを家庭で体験出来る環境を構築する。JR九州も近年、この事を重視している。

意識の力でモノゴトを変えるのは可能である。そしてデザインには、意識を変える力がある。

"古くからその土地にある何を残し、何を残さないのか"であるが、優れたものがその土地に残っているという事は、土地の意識の高さの証明でもある。従ってそうではないものは残す必要がある訳ではない。古いモノと新しいモノとは両立しなければならない。0歳と100歳の両方がいなければ街ではない。

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実際は上記の話に、JR九州を中心としてこれまで行われてきた仕事の事例を踏まえて話をされていた。そうした事例がない冒頭の水戸岡さんの話は決して上手いとは言えなかったのだが、それが事例を交える事でとたんに活き活きとしだしたのがとても印象的であった。

デザイナーは作品に自分の言葉を埋め込んでいるのだ、と、その時僕は確信したのであった。


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