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延岡というまちについての記憶を考えていく。

ヴォーリズの家のリノベーション

2008-06-24 14:33:34 | アート・文化

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは明治38(1905)年に宣教師として来日し、近江八幡や軽井沢、さらには広く日本各地で活躍し、かのメンソレータムで有名な近江兄弟社の設立者の一人でもある人物である。

なんと言ってもこの人の功績は、教会や学校を主体とする数々の建築物を設計した事で、その数1,600にも及んでいる。かつて保存か解体かで大きな事件となった滋賀県の豊郷小学校もそうだが、日本各地に存在していたヴォーリズ設計の建築が少しづつ解体されていっている現状がある。

そのような中で、延岡市内の土々呂(ととろ)町で、ヴォーリズが設計した個人住宅をリノベーションし、地域活性化に取り組んでいる事例があるのを知った。

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この建築は昭和10(1935)年に、船舶会社のエージェント(代理店)を行っていたご主人(県外他所の出身、失念)と、択捉島出身の奥様とが建てられた家で、熱心なキリスト教徒であった事から、ヴォーリズが設計したという。

昭和10年当時、土々呂港には大正時代から国内の航路を拡大していた大阪商船や宇和島運輸等の船舶が寄航しており、ご主人は何らかの関係があったと考えられる。このあたり、商船三井に資料が残っているかもしれない。

ちなみに日本民俗学の出発点である"後狩詞記"を記した柳田國男は、明治41(1908)年に椎葉村を訪れた際には博多から反時計回りで陸路を移動し、宮崎市から北上して椎葉村に入っているが、大正9(1920)年に再び日向路を旅した際には、汽車で臼杵まで到達した後、海路を南下して蒲江港を経由して土々呂港に入り、そこから延岡市街に向かっている(哀調の旋律-柳田國男の紀行文-)

日豊本線が延岡に開通するのが大正12年であり、それ以前の明治後期から大正中期にかけての交通機関の発達と利用の変化を確認する上で興味深い事例であるが、さらにこの家屋の主の存在は、鉄道開通以降においても海上交通が大正期から昭和にかけて重要な役割を有していた事を示している。

さて、この家屋の設計はヴォーリズだが、施工は地元の大工さんが行ったとの事である。この頃、同地での建築は周辺に残っているように伝統的な日本建築が主であるから、職人さん達も戸惑いがあったのではなかろうか。

建物をみると、さまざまな特徴がある事がわかる。例えば屋根の軒の通風孔の形状や、通風孔周辺に板を綾杉状に組んでいるのは装飾的効果をも高めているものであると考えられる。

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また、北側の台所の窓を大きくして採光を良くしているのは、同時期のこのあたりの家屋とは異なった形状であると考えられる。勝手口にカマドを設けて、そこから風呂を炊くようにしているのはどうか?これがこの家屋に特徴的なのか、それとも地域の伝統的建築との融合であるのかは調査が必要だろう。



20080621dsc_0074b1店舗内部の様子(やや手ブレ)。現在はおしゃれな雑貨屋となっている。

また、この店のオーナーである稲田さんご夫妻は、このヴォーリス設計の住宅以外にも、隣接して2軒の古い住宅をリノベーションしており、こちらもセンスがいい雑貨屋・ギャラリーとなっている。


ここはオーナーが最初に手がけたお店。昭和9年に建てられたもの。天上裏を取り外して屋根裏をむき出しにしているのがいい。

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最後の一軒は古い農家をギャラリーとして改修している。この地区は漁業をやっている家と農業をやっている家、あるいは兼業していたり、する御宅があったりするが、生業活動に伴った住宅形式の差が存在したのかどうかを比較してみても面白いだろう。

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今のところ延岡では、古い建造物を再生して活用していくという認識が決して高い訳ではない。完全否定する訳ではないが、古くなった個々の施設はまず解体してまとまった面積を持った土地としてから、次に再開発が入れるようにする、という認識の方が強い。

そのような現状を考えるならば、この土々呂地区の事例は、現状を上手く生かしながら地域を再生していこうとするという意味で高く評価出来るだろう。

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