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諏訪大社下社秋宮 社殿(幣拝殿 東宝殿 西宝殿) 御柱🙂😐😐古代祭祀の形式を今に残す御神木の櫟が祀られる神社

2020-08-21 20:00:00 | 神社仏閣
「長野県下諏訪町」の旧「中山道」旧「甲州街道」分岐に位置する「諏訪大社(すわたいしゃ)下社(しもしゃ)秋宮(あきみや)」は、「下社(しもしゃ)春宮(はるみや)」(諏訪郡下諏訪町)、「上社(かみしゃ)本宮(ほんみや)」(諏訪市)、「上社(かみしゃ)前宮(まえみや)」(茅野市)とともに、四ヶ所に鎮まり坐す「諏訪大社」のひとつで、全国で一万社を超えると言われる「諏訪神社」の総本社だが、記録に示される「上社」「下社」の区分けは、1180(治承4)年が初出だという
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「お諏訪さま/諏訪大明神」とも呼ばれる「諏訪大社」は、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と、その妃神「八坂刀賣神(やさかとめのかみ)」を主祭神とするが、その「建御名方神」は、「高天原(たかまがはら)」系の大和朝廷の神々「天津神(あまつかみ)」の主宰神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に対する、我が国の古称「葦原中国(あしはらのなかつくに)」系の土着の神々「国津神(くにつかみ)」の代表的な神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子で、「高天原」から派遣されて「国譲り」を承諾させた「建御雷神(たけみかづちのかみ)/建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」への抵抗を発端に「州羽の海(すわのうみ)」に逃れることになったとされる。
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一方、「建御雷神/建御雷之男神」にすぐに服従したと言われる兄神「八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)」はここ「下社」で合祀されるが、大和朝廷との縁は深く、神武天皇の岳父となり、皇室の守護神として祀られているという出雲譜系の神だ。
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また、ここ「下社」の最高位の神官「大祝(おおほうり)」は、皇族を祖先とする氏族「皇別(こうべつ)」の「科野国造(しなぬのくにのみやつこ)」後裔と言われる「金刺(かなさし)氏」が務めたが、「上社」と「下社」の対立は続き、戦国時代の1518(永正15)年「上社大祝」の「諏訪頼満(すわ よりみつ)」(1473/文明5年~1540/天文8年)によって、断絶に至ったと伝わる。
 ❖ 幣拝殿  参詣者が、神前に奉献する「幣帛(へいはく)」を捧げる社殿「幣殿(へいでん)」と、拝礼を行うための社殿「拝殿(はいでん)」が、一棟の楼門形式「二重楼門造り」になった「幣拝殿」を中央に、「右片拝殿」「左片拝殿」を並べた祭祀と拝礼のための「下社」独自の様式の建物が「神楽殿」奥にある。
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地元大工が、同じ図面で請負い、流派の面目をかけて競い合ったと語り継がれる「下社秋宮」と「下社春宮」の「幣拝殿」は、いずれも1983(昭和58)年に、国の重要文化財に指定されている。ここ「秋宮」は、「諏訪郡桑原村(現在の諏訪市)」生まれの立川流初代「立川和四郎(たてかわわしろう)富棟(とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)を棟梁に、1777(安永6)年から1781(安永10)年にかけて造営したという。建物全体が「富棟」の発想による華麗な彫刻で飾られた見事な社殿だ。「春宮」は、「諏訪郡普門寺村(現在の諏訪市)」生まれの大隅流「柴宮長左衛門矩重(のりしげ)」(1747/延享4年~1800/寛政12年)により、1780(安永9)年に完成したという。
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「諏訪大社」は「諏訪造り」と言われる神霊を安置する社殿「本殿(ほんでん)」のない社殿造りだが、切妻造りの「左右片拝殿」吹放ちの正面から、背面に入る格子窓越しの奥に、「本殿」にあたる社殿といわれる二つの「宝殿」を目にすることができる。一方に納められた「神輿(みこし/しんよ)」は、6年ごとに遷座するという。
 ❖東宝殿 西宝殿  信濃国一之宮「諏訪大社」は、「大国主神」次子「建御名方神」と、その妃神「八坂刀賣神」が主祭神で、「下社」は「八坂刀賣神」を祀り、後に「八重事代主神」が配祀されたという。「大国主神」長子「八重事代主神」は出雲系の神だが、娘「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」(「古事記」では「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」)が初代皇后で、「神武天皇」からは岳父になるという大和朝廷との縁が深い神だ。
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祭神は半年毎に遷座され、「秋宮」から「春宮」へ遷座する「遷座祭(せんざさい)」は2月1日に、「春宮」から「秋宮」へ遷座する「御舟祭(おふねまつり)」は8月1日に行われる
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「本殿」を持たない「諏訪大社」で「本殿」に相当する社殿の「宝殿」は、左右「片拝殿」から格子越しに拝観することができる。「拝殿」奥の神明造りで二殿並ぶ建物が「宝殿」で、新しい方の建物を「神殿」、古い方の建物を「権殿」と呼び、寅年と申年に旧殿を建て直して新殿への遷座祭を行うという。
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さらに「宝殿」奥が、「御神座相殿」と言われる古代祭祀の形式を今に残す御神体である「御神木」の櫟(「春宮」は杉)が祀られている
 ❖ 御柱  正式には「式年造営御柱大祭」といい、日本三大奇祭のひとつとされる「御柱祭」は、寅と申の年に樅の大木を「御柱」として伐り出し、氏子が各地区分担して二社四宮(「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮」)へそれぞれ4本ずつ曳行し、社殿の四隅に建てる「諏訪大社」最大の行事だ。
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起源については諸説あるが、平安時代の桓武天皇の時代(781/天応元年~806/延暦25年)の「御柱祭」の記録が残されているという。縄文時代の日本海が、大陸と列島の文化交流に大きな役割を果たし、生まれた山陰から北陸にかけての「日本海文化圏」で、核をなした「出雲」の神々との系譜から、「日本海文化圏」の巨木信仰が、「諏訪大社」に繋がったという説もあるという。
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「下社」の「御柱祭」は、3年前から御用材選定が始まり、「八島高原」近くの「東俣」から曳き出す4月10日前後の「山出し」に次いで、5月10日前後に「里曳き」が行われるが、見ごたえは何と言っても「男見るなら 七年に一度 諏訪の木落し」と言われる最大斜度約45度、長さ約100mの急坂「木落し坂」を、男たちが「御柱」に跨ったまま下る圧巻の「木落し」だろう。「平成二十八丙申年」の次回は「令和四壬寅年」の開催になる。

諏訪大社上社本宮 境内社(摂社 末社)🙂😐😐境内社として「摂社」2社「末社」1社「摂末社遥拝所」が鎮まる神社

2020-08-18 15:00:00 | 神社仏閣
軍神・農耕神・狩猟神「お諏訪さま/諏訪大明神」として信仰される「諏訪大社」は、全国に一万社を超えるという「諏訪神社」の総本社で、ここ「上社本宮」(諏訪市)の他に「上社前宮」(茅野市)、「下社秋宮」(下諏訪町)、「下社春宮」(下諏訪町)の「諏訪湖」周辺三ヶ所にも境内をもち、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」とその妃神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」を主祭神とする旧社格「官幣大社」、神社本庁の「別表神社」だ。
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「上社本宮」の境内社には、本社の祭神に縁故深い神を祀り、本社と末社の中間に位する枝宮「摂社」2社、本社に付属し摂社に次ぐ社格を持つ枝宮「末社」1社と、「摂末社遥拝所」が設けられている。
 ❖ 出早社  「東参道」の「入口御門」手前右に、境内社の摂社「出早社(いづはやしゃ)」がある。「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と、その妃神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」をいう「諏訪大神」の御子神で、「諏訪大社」を総本社とする「諏訪神社」をいう「お諏訪様」の門番神とされる「出早雄命(いづはやをのみこと)」が祭神だ。
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例祭日は10月15日だが、古くから疣石神として、小石を捧げて疣の全快を祈る土地信仰の対象にもなってきたという。なお、この社の右後方樹間に、「本宮三之御柱」を見つけることができる。
 ❖ 大国主社  境内社の摂社「大國主社(おほくにぬししゃ)」の祭神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」は、「高天原(たかまがはら)」系の大和朝廷の神々「天津神(あまつかみ)」の主宰神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に対し、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」系の土着の神々「国津神(くにつかみ)」の代表的な神だ。
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5月14日が例祭日になっているが、「古事記」によれば「諏訪大社」の主祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」は、その次子という。
 ❖ 高島神社  「社務所」の左手前に本宮境内社で末社の「高島神社」がある。「大祝(おおほうり)」中興の祖で諏訪藩祖「諏訪頼忠(すわよりただ)公」(1536/天文5年~1606/慶長11年)と、「大祝」で高島藩初代藩主「諏訪頼水(すわよりみず)公」(1571/元亀2年~1641/寛永18年)、高島藩二代藩主「諏訪忠恒(すわただつね)公」(1595/文禄4年~1657/明暦3年)が祭神で、本来の例祭日は9月23日だが、近年は祭神裔参列のもと8月12日に執行しているという。
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現地に「諏訪氏は当大社の御祭神諏訪大神の子孫で上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った」「御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている」との案内がある。
 ❖ 摂末社遥拝所  「東参道」の「入口御門」をくぐった右手「額殿」の隣に、1828(文政11)年造営で、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けた「摂末社遙拝所」がある。
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かつては「十三所遙拝所」とも称し、江戸時代までは「上社」境外摂社筆頭社格の「前宮社」で、明治以降に現在の社格となった「上社前宮」や、「所政社」「磯並社」など十三社「上の十三所」、「藤島社」「内御玉殿」など十三社「中の十三所」、「ハ剱社」「小坂社」など十三社「下の十三所」の計三十九所の「摂社」と「末社」を、遠く離れた所から拝む「遙拝(ようはい)」場所だったという。現在の摂末社約100社も、この社において朝夕の遙拝が行われているという。

諏訪大社上社本宮 社殿(四脚門 勅願殿 など)🙂😐😐土着の「洩矢神」子孫「守矢氏」が「ミシャグジ神」の祭祀を取り仕切った神社

2020-08-17 05:40:00 | 神社仏閣
軍神・農耕神・狩猟神「お諏訪さま/諏訪大明神」として信仰される「諏訪大社」は、全国に一万社を超えるという「諏訪神社」の総本社で、ここ「上社本宮」(諏訪市)の他に「上社前宮」(茅野市)、「下社秋宮」(下諏訪町)、「下社春宮」(下諏訪町)の「諏訪湖」周辺三ヶ所にも境内をもち、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」を主祭神とする旧社格「官幣大社」、神社本庁の「別表神社」だ。
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「諏訪大社」の由緒については、「古事記」説話における「国津神」の主宰神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神」が、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたことに始まるとされる。出雲系稲作民族を率いる「建御名方神」は、「諏訪」進出による土着の狩猟系先住民族との争いに勝利し、子孫「諏訪氏」が「諏訪大明神」「依代(よりしろ)」としての現人神の地位「大祝(おおほうり)」に就いて、諏訪地方に君臨したといわれる。
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土着の「洩矢神(もりやのかみ)」子孫「守矢氏」は、共棲を選択し世襲の「神長官(じんちょうかん)」として仕え、縄文時代から諏訪地方に根付いていた信仰における精霊と言われる「ミシャグジ(御左口神/御社宮司)神」の祭祀を取り仕切ったといわれる。それぞれの世襲は1871(明治4)年の「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで続いたという。
 ❖ 清水多嘉示作 獅子と狛犬の像  神霊が降臨し意志を伝えるために依りつくもの「依代(よりしろ)」とされた神職「大祝(おおほうり)」の参拝路で、「四脚門(よつあしもん)」から「硯石(すずりいし)」に通じる石段の上り口になる「天流水舎(てんりゅうすいしゃ)」左手に、「獅子と狛犬の像」が従っている。
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台座の銘文によれば、「神裔 大祝 諏方頼宣」による建立で、「原村出身 日本芸術院会員 清水多嘉示 作」だという。文化功労者「清水多嘉示(しみずたかし)」(1897/明治30年~1981/昭和56年)は、ロダンの助手をつとめ後継者と目されたフランスの彫刻家「ブールデル(1861年~1929年)」に師事し、戦後の具象彫刻をリードした一人とされている彫刻家だが、同氏による「獅子と狛犬の像」は、「諏訪大社下社秋宮」(諏訪郡下諏訪町)の「神楽殿」正面両脇に、青銅製では日本一の高さと言われ、生命の躍動感あふれて気迫みなぎる別次元の「獅子と狛犬」が建立されている。
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神聖な場所を邪気から守る役割をもつという空想上の守護獣像は、向かって右の角がなく開口するのが「阿(あ)像」の「獅子」、左の角があって(簡略化され角がないものも多い)口を結ぶのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が、魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、「狛犬」という言い方で定着して来ているという。
 ❖ 四脚門  「布橋」を進むと、「東宝殿」「西宝殿」を両側にして、2本の本柱の前後に2本ずつ4本の柱がある「四脚門(よつあしもん)」がある。1582(天正10)年「織田信長」による兵火で焼失したが、1608(慶長13)年「徳川家康」が勘定奉行「大久保長安」に命じて建立させたという現在の門は、1983(昭和58)年に国の「重要文化財」に指定されている。
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かつては、神霊が降臨し意志を伝えるために依りつくもの「依代(よりしろ)」とされた祭神裔の神職「大祝(おおほうり)」だけが、「脇片拝殿」屋根に見える最上段の「硯石(すずりいし)と呼ばれる「磐座(いわくら)」(神が降臨し宿る場所を称える語)へ登るために使った門だったというが、現在は重要祭事にのみ開かれる門だ。
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なお、「硯石」については、石の凹面が常に水を湛えていることからその名が来ているというが、現地には「明神の天降り給う場所であり神降しをする古代宗教の最高至極の位置」との案内がある。

 ❖ 勅願殿  「参拝所」に向かって手前右に、昭和39年8月「長野県天然記念物」指定を受けた「諏訪大社上社社叢」(面積約11.5ヘクタール)を後ろに控え、御神体「守屋山」に向かって建てられた「勅願殿(ちょくがんでん)」がある。1690(元禄3)年の建立とも、1847(弘化4)年の再建ともいわれるが、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けた社殿だ。
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「勅願」とは「勅命による祈願」「天皇の祈願」が本来の意味だが、ここ「諏訪大社上社本宮」では、古く「祈祷所」と記された祈祷をおこなう場所で、「幣拝殿」が「諏訪大社」の恒例祭典や重要神事を斎いおこなう場所であるのに対し、「勅願殿」は個人私事の祈祷をおこなう場所だという。
 ❖ 文庫  「幣拝殿」に向かって右手の「勅願殿」と「神饌所」の間に、大きさ一間の小さな、そして古色蒼然たる佇まいを見せる建物がある。1778(安永7)年に建築された記録があって、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けているという社殿だ。
 ❖ 神饌所  「拝所」から「幣拝殿」に向かって右手「硯石」手前に、神前に供える供物「神饌(しんせん)/御饌(みけ)/御贄(みにえ)」を調理し格納する所をいう語を名に負う社殿がある。「摂末社遥拝所」の「中十三所」に「御飯殿」があり、江戸初期の史料には「硯石」隣に「御飯殿」が記録されているという。

諏訪大社上社本宮 社殿(御柱 入口御門 など)🙂😐😐社殿の多くが「国重要文化財」の指定を受けている神社

2020-08-15 12:00:00 | 神社仏閣
軍神・農耕神・狩猟神「お諏訪さま/諏訪大明神」として信仰される「諏訪大社」は、全国に一万社を超えるという「諏訪神社」の総本社で、ここ「上社本宮」(諏訪市)の他に「上社前宮」(茅野市)、「下社秋宮」(下諏訪町)、「下社春宮」(下諏訪町)の「諏訪湖」周辺三ヶ所にも境内をもち、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」を主祭神とする旧社格「官幣大社」、神社本庁の「別表神社」だ。
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「諏訪大社」の由緒については、「古事記」説話における「国津神」の主宰神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神」が、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたことに始まるとされる。
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出雲系稲作民族を率いる「建御名方神」は、「諏訪」進出による土着の狩猟系先住民族との争いに勝利し、子孫「諏訪氏」が「諏訪大明神」「依代(よりしろ)」の現人神の地位「大祝(おおほうり)」に就いて、諏訪地方に君臨したといわれる。
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土着の「洩矢神(もりやのかみ)」子孫「守矢氏」は、共棲を選択し世襲の「神長官(じんちょうかん)」として仕え、縄文時代から諏訪地方に根付いていた信仰における精霊と言われる「ミシャグジ(御左口神/御社宮司)神」の祭祀を取り仕切ったといわれる。それぞれの世襲は1871(明治4)年の「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで続いたという。
 ❖ 御柱  正式には「式年造営御柱大祭」といい、日本三大奇祭のひとつとされる「御柱祭」は、寅と申の年に樅の大木を、「御柱」として伐り出し、氏子が各地区で分担して、「上社本宮」「上社前宮」「下社秋宮」「下社春宮」の四ヶ所へそれぞれ4本ずつ曳航し、社殿の四隅に建てる「諏訪大社」の最大行事だ。
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起源については諸説あるが、平安初期「桓武天皇」の時代(781/天応元年~806/延暦25年)の「御柱祭」の記録が残されているという。縄文時代の日本海が、大陸と列島の文化交流に大きな役割を果たし、生まれた山陰から北陸にかけての「日本海文化圏」で、核をなした「出雲」の神々との系譜から、「日本海文化圏」の巨木信仰が、「諏訪大社」に繋がったという説もあるという。
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実際の「御柱祭」にあたって、「下社」の担当御柱の地区割りは、取り決めで固定されていて毎回同じだが、「上社」は担当御柱の地区割りを、「抽籤」で決定するので、一番大きな「本宮一之御柱」担当の光栄を目指して、悲喜交交「哀歓劇」が毎回生まれているという。
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「上社」の「御柱」の前後には、V字形の梃子棒「針孔挺子(めどてこ)」がつき、これに氏子が乗り「御幣(おんべ)」を振りながら指揮を執るが、氏子が一体となり「御柱」を曳行する様子を見るのはまさに壮観だ。
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なお、七年に一度建て替えられる「御柱」4本にすべて触れることができるのは、「諏訪大社」の中で「上社前宮」だけになる。「平成二十八丙申年」の次回は「令和四壬寅年」の開催になる。
 ❖ 入口御門  上社宮大工棟梁「原五左衛門親貞」と弟子「藤森廣八」が、1829(文政12)年に上棟した「入口御門」は、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けた建造物だ。近年は駐車場が整備され土産物店が連なる「北参道」を使う参詣者が増えているが、「上社前宮」方面からの「東参道」が本来の参詣順路という案内がある。
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その順路は、「東参道」の鳥居に続いて「入口御門」があり、その先の庇のある廊下「布橋」が、系列39社が鎮まり坐す「摂末社遙拝所」などを左手に、「神楽殿」などを右手に見ながら「塀重門」まで続く。境内にひろがる社殿の一つひとつを拝観できる「東参道」から「拝所」まで進む順路での参詣をしたい。
 ❖ 布橋  「東参道」は、1812(文化9)年に建築され、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けた「布橋」が、「入口御門」から続く。桁行37間の切妻造り板敷の通路「布橋」は、かつて「千度大内」と呼ばれ、千度参りをする道であったことが古資料に残されているというが、現在は神宝と神輿の遷座にあたって、新旧の「東宝殿」「西宝殿」間に白布「布単(ふたん)/毯代(たんだい)」が敷かれるという通路だ。
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参詣者は「入口御門」からこの「布橋」を進むことで、左手に「額堂(絵馬堂)」「遥拝所」「大國主社」「東宝殿」「四脚門」「硯石」「西宝殿」「塀重門」を、右手に「勅使殿」「五間廊」「神楽殿」「天流水舎」「本宮一之御柱」を拝観しながら「拝所」へと至ることができる。ぜひ体験したい参拝順路だ。
 ❖ 額堂  「入口御門」を抜けると、左手に1896(明治29)年の建築で、2016(平成28)年に国の「重要文化財附指定」を受けた「額堂(がくどう)/絵馬堂」がある。
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かつては願い事にあたって、神が乗るための馬・木馬を奉納したというが、時代とともに馬の絵を描いた額を、後には馬以外の画題も扱った額を奉納するようになり、その明治期に奉納された絵馬や額を中心に納めているという古色の濃い建造物だ。

諏訪大社上社本宮 社殿(阿像 吽像 神楽殿 五間廊 勅使殿 など)🙂😐😐全国に一万社を超える「諏訪神社」の総本社

2020-08-13 15:00:00 | 神社仏閣
軍神・農耕神・狩猟神「お諏訪さま/諏訪大明神」として信仰される「諏訪大社」は、全国に一万社を超えるという「諏訪神社」の総本社で、ここ「上社本宮」(諏訪市)の他に「上社前宮」(茅野市)、「下社秋宮」(下諏訪町)、「下社春宮」(下諏訪町)の「諏訪湖」周辺三ヶ所にも境内をもち、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」と「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」を主祭神とする旧社格「官幣大社」で、神社本庁の「別表神社」だ。
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「諏訪大社」の由緒については、「天孫降臨(てんそんこうりん)」以前から、日本の古称「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」を治めていた「国津神(くにつかみ)」が、「高天原(たかまがはら)」の神「天津神(あまつかみ)」へ「国譲り(くにゆずり)」する「古事記」の説話にその発端があるとされる。「国津神」の主宰神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神」は、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたが、進出による土着の狩猟系先住民族との争いに勝利し、出雲系稲作民族を率いる「建御名方神」子孫「諏訪氏」が、「諏訪大明神」「依代(よりしろ)」の現人神の地位「大祝(おおほうり)」に就いて諏訪地方に君臨したといわれる。
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土着の「洩矢神(もりやのかみ)」子孫「守矢氏」は、共棲を選択し世襲の「神長官(じんちょうかん)」として仕え、縄文時代から諏訪地方に根付いていた信仰における精霊と言われる「ミシャグジ(御左口神/御社宮司)神」の祭祀を取り仕切ったといわれる。それぞれの世襲は1871(明治4)年の「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで続いたという。
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なお、参詣にあたっては、土産物店の連なる「大鳥居」から「北参道」を使う機会が増えているが、本来の参詣順路として案内される「東参道」に回り、境内にひろがる社殿の一つひとつを拝観しながら「拝所」へ進みたい。
 ❖ 阿像(獅子) 吽像(狛犬)  「北参道」入口「大鳥居」脇の「阿像(獅子)」と「吽像(狛犬)」は、彫刻家の「矢崎虎夫(やざきとらお)」(1904/明治37年7月25日~1988/昭和63年9月24日)の制作だ。同氏は、「諏訪郡永明村」(現在の「茅野市」)に生まれ、「高村光雲(たかむらこううん)」門下「平櫛田中(ひらくしでんちゅう)」に師事、渡欧してキュビスムや黒人彫刻の影響を受け独自のスタイルを生んだといわれる「オシップ・ザッキン」(1890~1967)に師事して、仏典や歴史に取材した作品を多く手がけたという。
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1985(昭和60)年に奉献された力強さあふれる「空想上の守護獣像」は、神聖な場所を邪気から守る魔除けの役割をもつが、向かって右の角がなく口を開いているのが「阿(あ)像」の「獅子(しし)」、左の角があって(角がないものも多い)口を閉じているのが「吽(うん)像」の「狛犬(こまいぬ)」だ。現在は「獅子と狛犬」という呼称が消えて、両者合わせて単に魔除けのために置かれる像「拒魔犬(こまいぬ)」から、「狛犬」という言い方が定着して来ているが、「狛犬」とはあくまでも空想上の動物で「犬」ではない。
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起源は古代オリエントの「スフィンクス」まで遡るといわれるが、ガンダーラを経由して中国に入り、遣唐使が我国に持ち帰って、対の獅子像が寺院山門の仁王像の影響を受け、平安時代までに「獅子と狛犬」という独自の「阿吽」形式に変わったのではないかと言われている。
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ちなみに沖縄の「シーサー」は、「獅子」を沖縄語で発音した伝説の獣で、災厄をもたらす悪霊を追い払う魔除けとされている。なお、「上社本宮」境内の「雷電像」も「矢崎虎夫」の代表作のひとつとされている。
 ❖ 神楽殿  2016(平成28)年に「国重要文化財」の指定を受けた「神楽殿」は、1827(文政10)年、「上桑原村」(現在の「諏訪市」)の大隈流「伊藤伝蔵」によって上棟された「四方吹き通し」桁行四間、梁間三間の入母屋造りの建造物だ。「神楽殿」とは、祈願者の神楽奉納の御殿を言うが、神楽の奏上だけではなく、拝殿の意味をもっているといわれる。
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収まる大太鼓は、「神楽殿」建立と同時に奉納された江戸時代のもので、胴は樽と同様の合わせ木作り、直径180センチメートルだというが、国内一と言われる牛の一枚皮でつくられていて、大晦日のみ打たれるという。
 ❖ 天流水舎  1828(文政11)年造営、1959(昭和34)年改修で、2016(平成28)年に「国重要文化財」の指定を受けた「天流水舎(てんりゅうすいしゃ)」は、「宝殿の天滴」で知られ、「諏訪大神」が水の守護神として崇敬される所以となっている。現地に「俗にお天水と称されるどんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ諏訪の七不思議の一つ」で、「旱天の祈りにはこのお水を青竹に頂いて持ち帰り雨乞いの祭りをすると必ず雨が降ると云い伝えられる」と案内される。

 ❖ 五間廊 勅使殿  「廊下様式切妻造り」の「五間廊」は、上社五官の「神長官(じんちょうかん)」「禰宜太夫(ねぎだゆう)」「権祝(ごんのほうり)」「擬祝(ぎのほうり)」「副祝(そいのほうり)」着座による神事について古記録が残る社殿で、現在の建物」は1773(安永2)年に再建され、2016(平成28)年に「国重要文化財」の指定を受けているという。
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その「五間廊」とともにある「勅使殿(ちょくしでん)/神門戸屋/帝屋」の現在の建物は、1690(元禄3)年に造営され、安政年間(1855年~1860年)に大修理が加えられた「切妻流れ正面大唐破風造り」で、やはり2016(平成28)年に国の指定を受けている「重要文化財」だ。
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かつての「勅使殿」は、現在の「神楽殿」周辺にあり、拝殿の性格を持っていたというが、「大祝(おおほうり)」即位の神事や、「勅使参向(ちょくしさんこう)」では天皇や地方官から神に奉献する供物「幣帛(へいはく)」の授受が行われたり、元旦の朝「上社本宮」東参道鳥居前の「御手洗川」で、蛙を捕え神前に捧げる「蛙狩神事(かわずがりしんじ)」や、1月5日に行われる「上社」の特殊神事「御頭受神事」など数々の神事が行われたという。なお「蛙狩神事」とは、「諏訪大社」起こりの祭神が、蛇神とされる土着神「ミシャグジ神」「ソソウ神」であったことによる神事と言われている。
 ❖ 神馬舎(駒形屋)  古くは「諏訪大社」の祭神で「建御名方神」とその妃「八坂刀売神」の神馬の屋形だったというが、明治以降は1649(慶安2年)に郡主と家中が寄進した御幣を背負う「黒い唐銅製の駒形」と、祭事などに使う作り物の馬「白い木製の駒形」の二体を安置している。現在の「神馬舎(しんめしゃ)/駒形屋」は、1846(弘化3)年の造営で、2016(平成28)年に国の指定を受けている「重要文化財」だ。
 ❖ 贄掛けの欅  「神馬舎」傍近にある境内最古の樹木のひとつで、1974(昭和49)年「諏訪市指定天然記念物」に指定された推定樹齢約千年の「欅」だ。古くは神に供える土地の魚・鳥など「贄(にえ)」や「御狩(みかり)」の獲物を掛けて祈願したことから、「贄掛けの欅(にえかけのけやき)」と呼ばれるという。樹高35m、幹回り8.7mだが、近年は樹勢が弱って、養生に注意を傾けているという。