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諏訪大社上社前宮 社殿(拝殿 本殿 御柱 神殿跡)🙂😐😐諏訪信仰発祥の地と伝えられる神社

2020-08-05 01:30:00 | 神社仏閣
「諏訪大社」は、「お諏訪さま/諏訪大明神」とも呼ばれ、軍神・農耕神・狩猟神として信仰されてきた旧社格「官幣大社」神社本庁「別表神社」で、全国に一万社を超える「諏訪神社」の総本社だ
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「上社本宮(かみしゃ ほんみや)」(諏訪市)「下社秋宮(しもしゃ あきみや)」(諏訪郡下諏訪町)「下社春宮(しもしゃ はるみや)」(諏訪郡下諏訪町)とともに「諏訪大社」四ヶ所のひとつ「諏訪大社上社前宮(すわたいしゃ かみしゃ まえみや)」は、祭神の「建御名方神(たけみなかたのかみ)」とその妃「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」が、最初に居を構えた「『本宮』以前にあった宮」で、諏訪信仰発祥の地と伝えられている
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「建御名方神」率いる出雲系稲作民族の「諏訪」進出は、「高天原(たかまがはら)」の神「天津神(あまつかみ)」が、「天孫降臨(てんそんこうりん)」以前から国土「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」を治めていた「国津神(くにつかみ)」から「国譲り(くにゆずり)」を受けるという神話で、「力競べ」に敗れた「建御名方神」が、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたことにはじまるとされる。土着の狩猟系先住民族から、現在の「前宮」周辺を譲り受けて居住地とし、「諏方氏」の出自は諸説あるが、「建御名方神」子孫として、「諏訪大明神」が現れる時に宿る「依代(よりしろ)」たる現人神の地位「大祝(おおほうり)」について君臨したと伝えられる。
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土着「洩矢神(もりやのかみ)」子孫「守矢氏」も、明治時代まで世襲「神長官(じんちょうかん)」として仕え、諏訪地方に根付いていた縄文時代からの信仰の精霊「ミシャグジ神」の祭祀を、取り仕切っていたといわれる。
 ❖ 拝殿  四ヶ所の「諏訪大社」の中で唯一「上社前宮」だけが持つ「本殿」と、祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」とその妃「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」が鎮まり坐すと伝えられる「御神陵」を奥に控える「拝殿」は、「諏訪大社上社前宮社務所」から260m徒歩約5分の上段で、清流と日照に恵まれた高台にある。1932(昭和7)年に「伊勢神宮」から下賜された材で造営されたというが、質実端厳な「上社前宮」の社殿にあって、「拝殿」は聊かの華を感じさせている。
 ❖ 本殿  「諏訪大社」は「社殿」がなかった古代の神社の姿を残しているとも言われ、「上社本宮」は「守屋山」を御神体、「下社秋宮」は櫟の木、「下社春宮」は杉の木を御神木としていて、「本殿」と呼ばれる建物がないが、ここ「上社前宮」だけは、神体と同視された「大祝(おおほうり)」の居館「神殿(ごうどの)」付属の社だったという「本殿」を持ち、周辺は「神原(ごうばら)」と呼ばれたという。
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「諏訪大社上社前宮社務所」から260m徒歩約5分の上段で、清流と日照に恵まれた高台にある「本殿」を覆う古木群は、古代からの空気を閉じ込めているがごとく、ひととおりではない神域の趣を保っているが、「本殿」奥には祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」とその妃「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」の御神陵が鎮まり坐していると伝えられる。また、四方は千年を超える歴史をもつという御柱が、七年に一度建て替えられる。
 ❖ 御柱  「拝殿」と「本殿」の四方に聳立する「前宮一之御柱」から「前宮四之御柱」は、寅と申年の7年毎に行われる「御柱祭」で、氏子が「八ヶ岳」麓「上社綱置場(御柱置場)」から「御柱街道」20数キロを曳行して建て替える樅の木の御神木だ。
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正式には「式年造営御柱大祭」と言われる「御柱祭」は、日本三大奇祭のひとつとされるが、平安初期「桓武天皇」(781/天応元年~806/延暦25年)の時代の記録が残るという。起源は「出雲」の神々との系譜から、縄文時代の山陰・北陸「日本海文化圏」の巨木信仰との繋がりなどが考えられているという。
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「上社」の「御柱」は、前後にV字形の梃子棒「針孔梃子(めどてこ)」がつくが、この「針孔梃子」に乗って、「御幣(おんべ)」を振り指揮する氏子と、曳き手の氏子が一体となって、人力のみで行う曳行はまさに壮観だ。
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「御柱」は、四ヶ所の「諏訪大社」それぞれに4本ずつ曳行され、社殿の四隅に建てられるが、すべてに触れることができるのは、ここ「上社前宮」だけだ。「平成二十八丙申年」の次回は、「令和四壬寅年」の開催になる。
 ❖ 神殿(ごうどの)跡  「諏訪大社」の縁起は、「古事記」の神話「国譲り(くにゆずり)」で、「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたことに始まるという。
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「建御名方神」率いる出雲系稲作民族の「諏訪」進出で、土着「洩矢神(もりやのかみ)」率いる狩猟系先住民族との争いに勝利し、祭神「建御名方神」妃神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」は、「『本宮』以前にあった宮」をいう此処「前宮」で居を構え、諏訪信仰発祥の地になったと伝えられる。
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「諏方氏」の出自は諸説あるが、「建御名方神」子孫で「諏訪大明神」が現れる時に宿る「依代(よりしろ)」として、神体と同視される地位「大祝(おおほうり)」に就き、祭政両権を有して君臨したという。「諏訪有員(すわ ありかず)」を始祖とする「大祝」の居館は「神殿(ごうどの)」、一帯は「神原(ごうばら)」と呼ばれ、「上社」の重要神事のほとんどがここで行われたという。
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やがて「諏訪氏 大祝家」と「諏訪氏 惣領家」の内紛から、政治の中心は惣領家居城「上原城」に移り、さらに1483(文明15)年正月に暗殺クーデターが起きたことで、「神殿」は穢れたとして衰退に向かったという。「大祝」居館は1601(慶長6)年「宮田渡」(現在の「諏訪市中洲」)に移転したが、「諏訪大社上社前宮神殿跡」は、「上社」の祭政一致の時代の姿を残すとして「長野県史跡」に指定されている