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諏訪大社上社 大祝諏方家屋敷 大祝諏方家墓所😐😐😐2002年に断絶した「諏方大祝家」の屋敷と墓所

2020-08-07 22:30:00 | 神社仏閣

 ❖ 大祝諏方家屋敷  「諏訪大社上社 大祝(おおほうり)屋敷」は、代々「諏訪大社」の「大祝」を務めて来た「諏方(すわ)氏」の住宅で、一族の出自については諸説あるが、「古事記」説話「国譲り(くにゆずり)」における「高天原(たかまがはら)」を追われた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」の裔「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が、「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海(すわのうみ)」に逃れたことにはじまるとされる伝承がある。「建御名方神」子孫としての「諏訪氏」は、「諏訪明神」神霊が現れるときに宿るとする「依代(よりしろ)」として祭政両権を有し、諏訪地方に君臨したという。
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室町時代の1456(康正2)年に、「惣領家」と祭祀の「大祝家」に分かれて、政治の中心は「上原城」に移り、遅くとも安土桃山時代には「大祝家」の屋敷も「上社前宮」境内の「神殿(ごうどの)」から「宮田渡(みやたど)」(現在の「諏訪市中洲」)に移転したという。その後再び「惣領家」に統一されたが、江戸時代に藩主「諏訪(すわ)氏」と大祝「諏方(すわ)氏」への祭政分離を経て、1871(明治4)年の「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで、世襲は続いたという。2002(平成14)年9月1日に、後裔「諏方弘」氏が亡くなって「上社大祝家」は断絶した。
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元々「上社前宮」の「神原(ごうばら)」にあった「大祝」の屋敷は、ここ「宮田渡」の地に移って、「諏方大祝家」を別名「宮田渡大祝家」と呼ぶ所以となったが、現在に残る屋敷は1830(文政13)年の焼失後、天保年間(1830~1844)に再建されたものだという。当時は約3,000坪の敷地に約320坪の主屋が建てられ、2棟の土蔵と別荘や女性が出産時などにこもる別棟の「たや部屋」なども備えていたという。
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昭和初期には敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、現在の主屋は多く天保期の古材を転用しての改修で、さらに縮小されて約43坪になっているという。剰え、当主を失った屋敷は充分な管理の届かぬが故に繁る草木に覆われて、訪れる者に無常の姿を曝すばかりの存在になってしまった。

 ❖ 大祝諏方家墓所  一族の出自については諸説あるが、「出雲神話」における「高天原(たかまがはら)」を追われた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」の裔「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」にはじまるともいわれる「諏方氏」は、世襲で「諏訪大社上社」の「大祝(おおほうり)」を努めてきた一族だ。江戸時代の祭政分離によって、藩主家を「諏訪(すわ)」、大祝家を「諏方(すわ)」と、書き分けるようになったという。
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墓所は当初「少林山頼岳寺」(現在の「茅野市ちの上原」)にあったが、「神長官屋敷」(現在の「茅野市宮川」)西南の「神長官 守矢家」墓地だった現在地の明け渡しを求めて「熊野堂」へ移した後に、「諏方頼廣」から15代の当主とゆかりの人を祀ったという。
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なお、1871(明治4)年の「太政官布告」により神職の世襲が廃止され、さらに2002(平成14)年9月1日、後裔「諏方弘」氏が亡くなって、「諏訪大社上社」の「大祝家」は断絶したという。