小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

ジャンヌ・ダルク火刑場跡🙂😐😐「Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク)」が焚刑に処せられた巨大十字架の立つ刑場跡

2020-05-31 13:15:47 | 海外旅行

フランス北西部「Basse-Normandie(ノルマンディー地域圏)」の首府「Rouen(ルーアン)」は、パリ「Gare Saint-Lazare(サン・ラザール駅)」から、SNCF(フランス国鉄)Intercités(アンテルシテ/在来線特急列車)約1時間20分で、その「Gare de Rouen(ルーアン駅)」からは徒歩約12分、「Cathédrale Notre-Dame de Rouen(ルーアン大聖堂)」からは徒歩約8分で、「Le Bûcher de Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク火刑場跡)」に至る。
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「Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク)」(1412年~1431年)は、フランスを戦場にイングランドとフランスの間で、1337年~1431年に断続的に行われた「百年戦争」後期に、救国の神託を受けたとして、フランス軍に従軍し、イングランドと戦った国民的ヒロインだ。捕らえられてイングランド軍に引き渡され、宗教裁判で「異端」の判決を受けて、ここ「Place du Vieux-Marché(ヴィエ・マルシェ広場)」において、19歳で焚刑に処せられたという
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ローマ教皇「Calixtus Ⅲ(カリストゥス3世)」(1378年~1458年)の命による 1456年の復権裁判で、「無実」と 信仰ゆえの迫害を受けて死ぬ「殉教」が宣言され、その後1909年には 信仰と徳により死後に崇敬の対象となる「福者」の地位に並ぶ「列福」に、1920年に 信仰の規範になるにふさわしいとして「福者」が死後に教皇の宣言により「聖者」に列せられる「列聖」にされたという。
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ここ「Le Bûcher de Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク火刑場跡)」への往訪は、建立されている巨大な十字架による鎮魂もさることながら、折しも小雨勝ちの天を仰いで、人間が背負う過酷で闘争に走る業に相変わらず支配され続けることへの愁傷を、嘆じているかと感じ入る時間になった。


ルーアン大聖堂🙂🙂😐「Claude Monet(クロード・モネ)」の連作で知られる北フランス三大ノートルダム大聖堂のひとつ

2020-05-30 16:28:34 | 海外旅行


フランス北西部「Basse-Normandie(ノルマンディー地域圏)」の首府で、「Guerre de Cent Ans(百年戦争)」のヒロイン「Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク)」が焚刑に処せられた地「Rouen(ルーアン)」は、パリ「Gare Saint-Lazare(サン・ラザール駅)」から、SNCF(フランス国鉄)Intercités(アンテルシテ/在来線特急列車)約1時間20分で、「Cathédrale Notre-Dame de Rouen(ルーアン大聖堂)」は、「Gare de Rouen(ルーアン駅)」から徒歩約15分の距離にある。
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11世紀に建設が始まったという「大聖堂」は、1544年の完成まで増改築が重ねられ、初期から後期までの「Architecture Gothique(ゴシック様式)」を併せ持つという。
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第二次世界大戦の戦禍で著しく損傷し、1956年に修復が終わったというが、19世紀に完成した尖塔は151メートルの高さで、フランスで最も高いという。
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「Chartres(シャルトル)」「Amiens(アミアン)」とともに、北フランス三大ノートルダム大聖堂と言われるが、印象派を代表する「Claude Monet(クロード・モネ)」が、1892年から1894年に、光の移り変わりによる変化をとらえた連作30点を描いたことでも、広く知られている。
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屹立してカメラで全景を撮りきれない大聖堂は、「Notre-Dame(ノートル・ダム/聖母マリア)」の名前を持つものの、訪問者を優しく迎え入れるというより、近づきがたい威圧感を放って聳え立つ印象を残す大聖堂だ。



 

シャルトル大聖堂🙂🙂🙂伝承「聖母マリアのチュニック」が公開される「bleu de Chartres」のステンドグラスで知られた大聖堂

2020-05-29 20:31:42 | 海外旅行


穀倉地帯「Plaine de Beauce(ボーズ平野)」の商業都市「Chartres(シャルトル)」まで、パリから車で約1時間半だが、鉄道利用の場合は「Montparnasse(モンパルナス)駅」からSNCF(フランス国鉄)のTER(地域圏急行輸送)で約1時間だ。
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到着した「Chartres(シャルトル)駅」から徒歩約10分にある「Cathédrale Notre-Dame de Chartres(シャルトル ノートルダム大聖堂)」のはじまりは、4世紀の聖堂に遡るともいうが、度々火災に遭い、11世紀にロマネスク様式を基調に再建された大聖堂も、再び1194年の火災により大部分が焼失したという。焼失、再建、修復を繰り返し、13世紀中ごろまでにほぼ現在の形になったという。
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尖塔の左が、高く垂直線を強調した「Architecture gothique(ゴシック建築)」で16世紀に再建され、右が半円アーチをもつローマ風という「Architecture romane(ロマネスク建築)」で、火災を免れて1140年の建設当時の姿を見せている。
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同大聖堂は、フランスを代表する美しい宗教建築と言われているが、「bleu de Chartres(シャルトル・ブルー)」と言われる鮮やかで奥深い色彩を放ち、繊細な配色に彩られた176(172とも)窓のステンドグラスも、その比類ない美しさでよく知られている。第二次世界大戦で同地方が大きな被害を受ける中にあって、ステンドグラスを外してドイツ軍の爆撃から守り、13世紀の姿を現在に伝えているという。
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また、「Karl Ⅱ(カール禿頭王)」(823年~877年)寄進の聖母マリアの聖衣「Sancta Camisia(サンクタ カミシア)」を所蔵し、「ノートルダム(聖母マリア)信仰」の中心地となって、多くの巡礼者を集めて来たというが、キリスト生誕時に着衣していたというその伝承の「聖母マリアのチュニック(丈が長めの上着)」も公開されている
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荘厳だが、その名前「Notre-Dame(聖母マリア)」にふさわしい優しさを湛えて、訪問者を迎え入れてくれる大聖堂で、「bleu de Chartres(シャルトル・ブルー)」見学のためにも、ぜひ訪問したい聖地だ。なお、月曜日~土曜日の11:45からと18:00からのそれぞれ約30分間、水曜日と金曜日の09:00からの約30分間、日曜日の09:00~12:00は、ミサのため入場制限があるので、承知したうえで予定を組みたい。


 

ピラミッド広場のジャンヌ・ダルク騎馬像🙂😐😐パリ市内で最も知られているジャンヌダルク像

2020-05-28 21:42:20 | 海外旅行

Métro Ligne ①「Tuileries駅」から徒歩約3分、Métro Ligne ①⑦「Palais Royal Musée du Louvre駅」から徒歩約4分で、「Jardin des Tuileries(チュイルリー公園)」隣接の「Place des Pyramides(ピラミッド広場)」に、「Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク)」(1412年~1431年)が、イングランド軍より解放した「La Loire(ロアール川)」中流域の古都「Orléans(オレルアン)」方向を向いた「Statue de Jeanne d’Arc Paris(ジャンヌ・ダルク騎馬像)」がある
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「Jeanne d’Arc(ジャンヌ・ダルク)」は、フランスを戦場にイングランドとフランスの間で、1337年~1453年に断続的に行われた「Guerre de Cent Ans(百年戦争)」の後期に、救国の神託を受けたとして、フランス軍に従軍しイングランドと戦った国民的ヒロインだが、捕らえられてイングランド軍に引き渡され、宗教裁判で「異端」のの判決を受けて、フランス北部「Rouen(ルーアン)」の「Place du Vieux-Marché(ヴィエ・マルシェ広場)」において、19歳で焚刑に処せられたという。
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ローマ教皇「Calixtus Ⅲ(カリストゥス3世)」(1378年~1458年)の命による 1456年の復権裁判で、「無実」と 信仰ゆえの迫害を受けて死にいたる「殉教」が宣言され、その後1909年には 信仰と徳により、死後に崇敬の対象となる「福者」の地位に並ぶ「列福」に、1920年に 教皇の宣言により、信仰の規範になるにふさわしいとする「聖者」に加えられる「列聖」されたという。
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1874年に建立された彫刻家「Emmanuel Frémiet(エマニュエル フレミエット)」(1824年~1910年)による「Statue de Jeanne d’Arc Paris(ジャンヌ・ダルク騎馬像)」は、パリ市内に6体あるというジャンヌダルク像で最も知られているというが、19世紀の建築物による街並みと見事なまでに調和して、無類たるパリのセンスを見せている。 

コンコルド広場🙂😐😐フランス革命で三千数百人が処刑された歴史を背負う広場

2020-05-27 19:44:15 | 海外旅行

Métro Ligne ①⑧⑫「Concorde駅」直上のパリ8区にある「Place de la Concordo(コンコルド広場)」は、1755年(1748年とも)「Louis XV(ルイ15世)」(1710年~1774年 在位1715年~1774年)の命により、「Jacques-Ange Gabriel(ガブリエル)」(1698年~1782年)が設計、1757年~1763年に建設されたという。
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はじめ「ルイ15世広場」と言われたが、1789年に始まった「Révolution Française(フランス革命)」後は「革命広場」と改められ、設けられたGuillotine(ギロチン/断頭台)により、1793年1月21日には、暗君と明君の相反する評価を受ける「Louis XVI(ルイ16世)」(1754年~1793年 在位1774年~1792年)が、1793年10月16日には、我がままな浪費家として人々から反感を買っていたという王妃「Marie Antoinette Josèphe de Habsbourg Lorraine d’Autriche(マリー・アントアネット)」(1755年~1793年)が、他にも三千数百人が処刑されたという。
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過ぎて来た歴史に思いを寄せる時、権力と富の偏在が華麗な文化を育てる一方で、その憤怒が革命を呼び多くの血を流すことになってしまった教訓を受け止めないわけにはいかない。
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「Napoléon Bonaparte(ナポレオン・ボナパルト)」(1769年~1821年)が、「Révolution Française(フランス革命)」後の混乱を収拾した1800年前後から「Place de la Concordo(コンコルド広場)」と呼ばれはじめ、1830年に公式に現在の名前に改められたという。
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エジプト国王「محمد علي باشا(ムハンマド アリー)」(1769年~1849年)から贈られた古代エジプトの太陽神を象徴する記念碑で、「ルクソール神殿」入口の右手にあったという「Obélisque de Louxor(ルクソール オベリスク/『クレオパトラの針』と呼ばれているがクレオパトラの生誕より千年以上前に造られているという)」を、1836年に広場の中心部に設置した「Place de la Concordo(コンコルド広場/『コンコルド』とは『和合』の意)」の背負う歴史は、ここで繰りひろげられたのだ。