小さな旅を愉しむための情報PLUS

生活圏での小さな旅を愉しむために、暮らしの歴史に目を向けた情報発信を目指します。

園原の里😐😐😐人びとの哀歓を語る文学に度々かかわってきたという「東山道」沿いの集落

2020-12-01 15:00:00 | 文学 美術 音楽
中央自動車道「園原インターチェンジ」(下り線入口と上り線出口のみ)から車約20分、「飯田山本インターチェンジ」から車約40分の「長野県下伊那郡阿智村智里杉ノ木平」で、古代から中世にかけて幹線道路だったという旧「東山道(『とうさんどう』『とうせんどう』など諸説)」最大の難所「御坂峠/神坂峠(みさかとうげ)」の信濃国側登り口を左脇にして、「神坂神社」が鎮まり坐す。
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海の神であり航海の神である三神「住吉三神(すみよしさんし)」と言われる「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」が祭神だが、この山中に祀られた経緯は不詳だという旧社格「無格社」の神社だ。
 ❖ 園原碑 
「神坂神社」境内に、1901(明治34)年8月建立されたという石碑で、題字は江戸時代末期から明治時代の政治家「東久世道禧(ひがしくぜ みちとみ)」(1834/天保4年~1912/明治45年)、本文は明治・大正期の文人画家「富岡鉄斎/百錬(とみおか てっさい/ひゃくれん)」(1837/天保7年~1924/大正13年)の書で、「園原の里」の由来を刻む。
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「園原の里」とは、天台宗開祖「最澄」が布教のため「東山道」を下った時、「御坂峠(神坂峠)」の長く続く杣道に難渋したことから、旅人の救済・宿泊施設「布施屋」(現在は「広拯院月見堂」となっている)を設けた土地で、我国古代史における伝承上の英雄第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)の東征にはじまり、「御坂峠(神坂峠)」越えにおける防人歌や、平安時代前期の歌人で三十六歌仙のひとり「坂上是則(さかのうえ の これのり)」の歌に詠まれ、また「紫式部(むらさきしきぶ)」が「源氏物語」巻二「帚木」の想を得るなど、連綿と続く時間のなかで人びとの哀歓を語る文学に度々かかわってきたという「東山道」沿いの集落だ。
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その「園原碑」碑文を文語文で表すと「みすずかる信濃国伊那郡園原の里は みず垣の久しき昔に開け ちはやふる神代にしては八意思兼神の御子天表春之命天降り着き給ひぬ 阿智神社川合の陵などそのみ跡なる うつし身の人王となりては 景行天皇の皇子倭建命いでまして御坂の神を言向け給ひぬ 御坂の杜あるはその遺蹟になむ かく夙よりの官道なれば おのづから都人の往来も多かりしゆゑに、万葉集にも神の御坂と詠み また園原 伏屋 帚木等もいにしへ人の歌詞にもみえて 国風と共にその聞え世に高く また紫の女は物語の巻の名にさへ負わせたりき かく名所多くある地なるにかつて久しく岐蘇路開けし以後 清内路大平などの枝道も漸漸に多くなりきて ここを往き反る人いと稀稀なれば つひにはかくある名所の消え滅びむことを太く慨み この地の志篤き者ら相議りてその由を碑文にのこし 後の世に伝へあるいは古を好む忠人の導にもとて その梗概をかくの如くになむ」となる。
 ❖ 神坂神社万葉集歌碑 
「神坂神社」境内に、1902(明治35)年建立されたという歌碑で、755(天平勝宝7/皇紀1415)年に防人として徴用された信濃国の若者が「御坂峠(神坂峠)」を越える時に詠んだ4402番の歌(「万葉集」巻二十)が刻まれる。その「防人歌」は、「萬葉集 知波夜布留賀美乃 美佐賀爾怒佐麻都 里伊波負伊能知波 意毛知知我多米 主帳埴科郡神人部子忍男」(「万葉集 ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため 主帳埴科郡神人部子忍男」「まんえふしふ ちはやふる かみのみさかに ぬさまつり いはふいのちは おもちちがため しゆちやうはにしなこおりかんとべのこおしお」)だ。
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「ちはやふる」は「神の枕詞」、「神の御坂」とは「東山道の難所と言われる神坂峠のこと」で、その登り口に鎮まり坐しているのが御坂神社(神坂神社)だ。また、「幣」は「祈願するため神前に捧げる供え物」で、神坂峠からは幣の原型といわれる石製品が千数百点出土しているという。
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歌意は「神の境域の御坂峠に幣を手向けて、祈る命の無事は、母と父のためです。」だが、徴用され日々の生活から切り裂かれて信濃の国を後にしなければならない若者の愁嘆が、残された両親のため生きて帰りたいと祈る思いへと集成されて、こころに迫り来る歌となっている。
 ❖ 坂上是則歌碑(帚木)  
三十六歌仙のひとり平安時代前期の歌人で、「小倉百人一首」31番「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」(「古今和歌集」冬 332番)の作者「坂上是則(さかのうえ の これのり)」(生年不詳~930/延長8年)歌碑「その原や伏屋におふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな」(「新古今和歌集」巻十一 恋歌一 997番)が、中央自動車道「園原インター(下り線入口と上り線出口のみ)」から車約15分、「飯田山本インター」からは車約35分の「下伊那郡阿智村智里」で、「神坂神社」に向かう途次にある。その歌に詠まれる「ははき木(帚木)」とは、遠方からは箒を立てたようにはっきりと見えるが、近づくと何れが帚木か見分けられなくなってしまう「園原山」に生える伝説の檜の大木という。
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この帚木に想を得て、紫式部(生没年に定説を得ないが 一説に978/天元元年~1015/長和4年)は、1008年頃(平安時代中期)一部が流布しはじめたとされる「源氏物語」の巻二「帚木」において、17歳の「光源氏」にはかない愛を経験させる。光源氏が、求愛を拒む「空蝉」におくった歌「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」(歌意「近づけば見えなくなってしまう帚木のようなあなたの心が分からないで、園原の道に迷うようにわけが分からず迷ってしまうことだ。」)は、まさに碑の歌に通じていると言える。なお、「ははき木」は1958(昭和33)年9月の台風で倒木してしまったといい、現在は若い後継木になっている。

葉山嘉樹文学碑 切石公園😐😐😐長野県に移住し工事現場で働きながら生活した葉山嘉樹の一文を刻む文学碑

2020-10-29 11:00:00 | 文学 美術 音楽
「葉山嘉樹(はやま よしき)」(1894/明治27年~1945/昭和20年)は、「文藝戰線」(1924/大正13年6月~1932/昭和7年7月 1925/大正14年1~5月休刊)同人で、「淫売婦」(「文藝戰線」1925/大正14年)「セメント樽の中の手紙」(「文藝戰線」1926/大正15年)長編「海に生くる人々」(改造社 1926年/大正15年)など、新鮮な内容と文体で既成文壇にも衝撃を与える作品を発表し、プロレタリア文学の先駆者として活躍した作家だ。特に、読み手の想像力や判断力が試される「セメント樽の中の手紙」は、高等学校「国語」の教科書にも採録されている瓊玉の作品と言える。
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我が国のプロレタリア文学の代表的作家には、ほかに「黒島傳治(くろしま でんじ)」(1898/明治31年~1943/昭和18年)「小林多喜二(こばやし たきじ)」(1903/明治36年~1933/昭和8年)「徳永直(とくなが すなお)」(1899/明治32年~1958/昭和33年)「平林たい子(ひらばやし たいこ)」(1905/明治38年~1972/昭和47年)などの名前があがるが、過酷な労働で虐げられた労働者階級の立場に立って、社会主義思想に基づき現実を描こうとした文学だ。
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1921(大正10)年の文芸雑誌「種蒔く人」創刊を出発点とするが、激しい弾圧で社会主義運動は壊滅的打撃を受け、『種蒔く人』も廃刊となって、プロレタリア文学は一時まったく沈滞したという。1924(大正13)年の「文藝戰線」創刊を契機に新たな高揚期を迎えたものの、弾圧により1934(昭和9)年には壊滅したという。
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「葉山嘉樹」は、同年に長野県に移住し工事現場で働きながら、庶民性の濃い短編「氷雨」「窮鳥」「馬鹿気た話」などを書いている。その後、「満州国」の開拓団運動に積極的にかかわるようになって、1945(昭和20)年6月に満州に渡ったが、敗戦後の引き揚げ途中の列車内で、1945(昭和20)年10月18日、病死したという。「葉山嘉樹全集」全6巻(筑摩書房 1975/昭和50年~1976/昭和51年)がある。

 ❖ 葉山嘉樹文学碑 切石公園  1934(昭和9)年9月から1938(昭和13)年1月まで、「長野県上伊那郡赤穂村」(現在の「駒ヶ根市赤穂」)に生活し、工事現場での労働を通して、文芸評論家「小田切秀雄(おだぎり ひでお)」(1916/大正5年~2000/平成12年)いうところの「工事場物」といわれる作品を書いた
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この期の作品は、初期作品の評価に比すると見落とされていると言えるが、在住50年を追想し、当処での一文「よし、毎日の生活が不足であり、迫害が絶えず襲ひかゝらうとも、人間の生活から『善』を奪はれることを私たち信州文化の同人たちは、守らうではないか。文学とはそのやうなものと私は思ってゐる。 葉山嘉樹」を刻した文学碑が、県道75号線沿いの駒ヶ根高原で、包丁で切ったかのようにきれいに割れた巨石が名前の由来という「切石公園」内に、1984(昭和59)年に建立された。
〈参考〉 「セメント樽の中の手紙」全文(「青空文庫」)

日夏耿之介記念館と句碑😐😐😐余生を送った住居を移転復元した記念館と晩年の心境を詠んだとされる句

2020-10-27 17:00:00 | 文学 美術 音楽
「日夏耿之介(ひなつ こうのすけ)」本名「樋口國登(ひぐち くにと)」(「圀登」は通称)は、1890(明治23)年2月22日「長野県下伊那郡飯田町」(現在の「長野県飯田市」)に生まれ、象徴詩人として活躍する一方、翻訳や評論などにおいても独自の美意識に貫かれた活動を展開し、母校「早稲田大学」や「青山学院大学」の教授を歴任、1953(昭和28)年には飯田市名誉市民第1号に選ばれた文学者だ。
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1956(昭和31)年に脳溢血で倒れて以後、療養のために郷里の「飯田市大久保町」の新居に転居したが、1971(昭和46)年6月13日に81歳で没している。

 ❖ 日夏耿之介記念館  昭和の時代を彷彿とさせるこの記念館は、余生を送った「飯田市大久保町」の住居を移転復元し、1989(平成元)年に隣接の国登録有形文化財「柳田國男館」とともに「飯田市美術博物館」付属施設として開館したもので、本人蒐集の書籍・書画などが展示されている。観覧(無料)希望の場合は、「飯田市美術博物館」受付に申し込む必要がある。
 ❖ 「日夏耿之介記念館前」句碑  「日夏耿之介記念館」前には、「黄眠道人」「黄眠堂主人」などの号をもつ「日夏耿之介」の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む 黄眠道人」がある。1989(平成元)年2月の建立だが、同じ句の刻まれた句碑が「風越山(かざこしやま)」にもあり、その句碑には1959(昭和34)年の古希記念に友人たちの勧めで建立したと記される。
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「狗賓(ぐひん)」とは、天狗としての格は低いといわれる「土着の神に近い妖怪」をいうが、この句は「風越山」に重ねて晩年の心境を詠んだと解されている。「わが墓は信南風越山のいただき奥の院の摩崖の下」と定めたとおり、浄土宗「松林山 宝樹院 柏心寺」(「飯田市箕瀬町」)に眠っている。

東山魁夷記念碑 心の旅路館😐😐😐風景画を描いた東山魁夷の原点に建つ美術館と記念碑

2020-10-25 15:00:00 | 文学 美術 音楽
「東山魁夷(ひがしやま かいい)」(本名「東山新吉/ひがしやま しんきち」 1908/明治41年~1999/平成11年)は、東京美術学校(現在の「東京芸術大学」)日本画科で、写実的で穏やかな作風で知られた「結城素明(ゆうき そめい)」(1875/明治8年~1957/昭和32年)に師事、静謐で深い郷愁をたたえた装飾的な風景画を描いた現代日本画を代表する画家だ。
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1968(昭和43)年に制作の「皇居新宮殿壁画」の「朝明けの潮」や、1971(昭和46)年~1982(昭和57)年に描いた「唐招提寺 御影堂」の「鑑真和上坐像厨子扉絵」「襖絵」「障壁画」などが広く知られているが、1987(昭和62)年に所蔵していた自作品を長野県に寄贈し、1990(平成2)年「長野県信濃美術館 東山魁夷館」が開館している



 ❖ 東山魁夷記念碑 心の旅路館  国道19号線「岐阜県中津川市山口」の「道の駅 賤母(しずも)」併設施設に、「東山魁夷」から版画作品約500点を寄贈され、1994(平成6年)に開館した美術館「東山魁夷 心の旅路館」がある
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その同館前には、「ローテンブルグ城シュピタール門」(ドイツローテンブルグ市)に刻まれた「PAX INTRANTIBVS SALVS EXEVNTIBVS(訪れる者には安らぎを 去りゆく人には安全を)」を「東山魁夷」が「歩み入る者に安らぎを 去りゆく人にしあわせを」と訳したことで、ひろく知られることとなった言葉が刻まれた記念碑が建立されている
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この言葉は「川端康成」が「ホテルオークラ」にふさわしい言葉として、色紙で同ホテルに残したといわれ、また「群馬県吾妻郡草津町民憲章」に採用されている言葉だともいうが、この言葉と当処との所縁は「東山魁夷」が、1926(昭和元)年の「東京美術学校」1年生の夏休みに、友人と「御嶽山(おんたけさん)」に登った旅に始まるという。
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途中この地「賤母」(当時「長野県西筑摩郡山口村」現在「岐阜県中津川市山口」)で大変な夕立に遭遇し難渋した「東山魁夷」は、一夜の宿を求めた村はずれの農家から、思いがけずうけた温かいもてなしに、深く感じ入ったという。また、信州で知ることになった雄大な自然にも心打たれて、風景画家への道を決心したといい、信州と結びつく第一歩がここに始まったのだという。

泉鏡花旧居跡と泉鏡花揮毫筆塚😐😐😐神楽坂芸妓「桃太郎」との同棲を始めた借家跡と「湯島天満宮」の筆塚

2020-10-23 22:00:00 | 文学 美術 音楽
「尾崎紅葉(おざき こうよう)」(1868/慶応3年~1903/明治36年)門下の「泉鏡花(いずみ きょうか)」(1873/明治6年~1939/昭和14年)は、処女作「冠弥左衛門」(1893/明治26年)を紅葉の幇助で完成、その後「外科室」「夜行巡査」(1895/明治28年)などの所謂「観念小説」で好評を得たが、やがて繊細優美な独自の浪漫的境地を開いて、晩年まで旺盛な執筆を続けた作家だ。
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その独特の文体とともに、少年時代の追懐、母性崇拝、幻想、エロチシズムなどが織り込まれた300編以上の作品で、近代小説史に異彩を放つが、自然主義隆盛期には文壇的に不遇の時期もあったという。師の紅葉を超える人気作家の地位を獲得し、岩波書店「鏡花全集」(1973/昭和48年~1976/昭和51年)は全29巻にもなる。 
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代表作には「照葉狂言」(1896/明治29年)「化鳥」(1897/明治30年)「湯島詣」(1899/明治32年)「高野聖」(1900/明治33年)「婦系図」(1907/明治40年)「草迷宮」(1908/明治41年)「歌行燈」(1910/明治43年)「天守物語」(1917/大正6年)「眉かくしの霊」(1924/大正13年)「縷紅新草」(1939/昭和14年)などがあげられる。


 ❖ 泉鏡花旧居跡  「泉鏡花」が1903(明治36)年3月から暮らしたという借家「泉鏡花旧居跡」が、東京メトロ「有楽町線/南北線/東西線」都営地下鉄「大江戸線」の「飯田橋駅」B3出口から徒歩約1分、JR総武線「飯田橋駅」から徒歩約3分で、「東京理科大学」裏手「新宿区神楽坂2丁目」の「小栗通り」に面して残る。
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「泉鏡花旧居跡」は、1899(明治32)年の「硯友社」新年会で、「神楽坂(かぐらざか)」の芸妓「桃太郎」(本名「伊藤すず」1881/明治14年~1950/昭和25年)と出会い、落籍し同棲を始めたという場所だ。二人の同棲を知った師「尾崎紅葉」の激怒は、「婦系図」の中で「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と迫る恩師の言葉となって描かれる。現実に一旦は別離を余儀なくされたが、紅葉が没すると復縁し、1906(明治39)年7月までここで生活したという。
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「伊藤すず」を苦しめたこの顛末は、「婦系図」の名台詞として知られる「お蔦」の「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉。私には死ねとおっしゃってくださいな」を生んだとされている
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なお、「泉鏡花旧居跡」は、「北原白秋旧居跡」でもある。白秋は鏡花の後、1908(明治41)年10月から翌年10月まで、約一年をここで過ごしたという。

 ❖ 湯島天満宮 泉鏡花揮毫の筆塚  東京メトロ千代田線「湯島駅」から徒歩約6分の「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」は、旧社格が1868(明治18)年に「郷社」から「府社」へ昇格した「江戸/東京」を代表する「天満宮」で、神社本庁「別表神社」だ。
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由緒は、458(雄略天皇2)年 「雄略天皇」の勅命により「天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)」を祀る神社として創建され、1355(正平10)年に「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を勧請合祀したという。合格祈願の受験生やその家族の参詣は、年間を通して絶えることないが、「小畑実」の出世曲、1942(昭和17)年の「湯島の白梅」で歌われた境内の梅の花も知られている。
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1899(明治32)年に刊行された「神月梓」と神楽坂の芸者「蝶吉」の恋を、戯曲的構成で描く小説「湯島詣」の作者「泉鏡花」揮毫の「筆塚」が境内に建立されている