小さな旅を愉しむための情報PLUS

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池康山泉龍院😐😐😐境内の三色の藤が見ごろを迎えて甘い香りを放っている

2022-05-01 20:00:00 | 神社仏閣



中央自動車道「松川インターチェンジ」から車で約15分の「池康山泉龍院」(長野県下伊那郡豊丘村河野)境内の三色の「フジ(藤)」が見ごろで、藤棚の下の華やかで甘い香りと美しさが印象に残った。


 ❖ 池康山泉龍院 
「曹洞宗」で本尊「十一面観世音菩薩」の「池康山泉龍院」は、1438(永享10)年に「諏訪大社」大祝家後裔「知久為行」「知久敏範」父子が開基、「物外性應禅師」を招いて開山したと伝えられる。
◇ ◇ ◇
1554(天文23)年の「武田氏」信濃侵攻により「知久氏」居城「神之峰城」は落城、「泉龍院」も兵火により焼失したが、1602(慶長6)年に再建再興されたという。
◇ ◇ ◇
江戸時代後期の楼門建築として「豊丘村指定有形文化財」に指定されている「泉龍院山門」は、1818(文政元)年第26世「快芳悦厳和尚」時に、立川流宮大工「立川和四郎(たてかわ わしろう)」弟子「小松松四郎」が手掛けた「入母屋」三間三戸の「八脚楼門形式」で、「木鼻」「虹梁」等には「獏」「唐獅子」「龍」「鳳凰」「麒麟」などの彫刻が施されている。
◇ ◇ ◇
「本堂」は1770(明和7)年造営の「入母屋」「桟瓦葺き」「平入」で、外壁は「真壁造り」「白漆喰仕上げ」、腰壁は「縦板張り」だ。




新年おめでとうございます☺️☺️☺️今年もよろしくお願いいたします

2022-01-01 18:00:00 | 神社仏閣
昨年末、初詣への準備が進む「諏訪大社」四社を、巡りました。
諏訪大社上社本宮 幣拝殿
諏訪大社上社前宮 本殿

諏訪大社下社秋宮 神楽殿
諏訪大社下社春宮 神楽殿

諏訪市「上社本宮(かみしゃ ほんみや)」と茅野市「上社前宮(かみしゃ まえみや)」、下諏訪町「下社秋宮(しもしゃ あきみや)」、下諏訪町「下社春宮(しもしゃ はるみや)」の四ヶ所に境内をもち、軍神・農耕神・狩猟神「お諏訪さま/諏訪大明神」として信仰される「諏訪大社(すわたいしゃ)」は、全国に一万社を超えるという「諏訪神社」の総本社だ。「建御名方神(たけみなかたのかみ)」とその妃神「八坂刀賣神(やさかとめのかみ)」を主祭神とし、旧社格「官幣大社」で神社本庁の「別表神社」だが、記録に示される「上社」「下社」の区分けは、1180(治承4)年が初出だという。
◇ ◇ ◇
「建御名方神」は、「高天原(たかまがはら)」系の大和朝廷の神々「天津神(あまつかみ)」の主宰神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に対し、我が国の古称「葦原中国(あしはらのなかつくに)」系の土着の神々「国津神(くにつかみ)」の代表的な神「大国主神(おおくにぬしのかみ)」の次子で、「高天原」から派遣されて「国譲り」を承諾させた「建御雷神(たけみかづちのかみ)/建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」への抵抗を発端に「州羽の海(すわのうみ)」に逃れることになったとされる。
◇ ◇ ◇
一方、「建御雷神/建御雷之男神」にすぐに服従したと言われる兄神「八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)」は「下社」で合祀されるが、大和朝廷との縁は深く、娘「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)」(「古事記」では「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」)が初代皇后で神武天皇の岳父となり、皇室の守護神として祀られているという出雲系譜の神だ。
◇ ◇ ◇
「国津神」の主宰神「大国主神」次子「建御名方神」は、「建御雷之男神」との「力競べ」に敗れて、「州羽の海」に逃れたが、進出による狩猟系先住民族との争いに勝利し、出雲系稲作民族を率いる「建御名方神」子孫「諏訪氏(後に『諏方氏』)」が、「諏訪大明神」の「依代(よりしろ)」として現人神の地位「大祝(おおほうり)」に就いて諏訪地方に君臨したとされる。世襲は1871(明治4)年の「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで続いたという。
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「下社」神官の最高位「大祝」は、皇族を祖先とする氏族「皇別(こうべつ)」の「科野国造(しなぬのくにのみやつこ)」後裔と言われる「金刺(かなさし)氏」が務めたが、「上社」と「下社」の対立は続き、戦国時代の1518(永正15)年「上社大祝」の「諏訪頼満(すわ よりみつ)」(1473/文明5年~1540/天文8年)によって、断絶に至ったと伝わる。
◇ ◇ ◇
「諏訪大社」は「上社前宮」以外に神霊を安置する社殿「本殿(ほんでん)」がなく、「幣拝殿」と「片拝殿」のみで、社殿の四隅に「御柱」が建つ「諏訪造り」という独自様式で、「上社本宮」は「守屋山」を御神体、「下社秋宮」は「櫟」、「下社春宮」は「杉」を御神木としている。「本殿」にあたる社殿といわれる二つの「宝殿」の一方に納められた「神輿(みこし/しんよ)」は、6年ごとに遷座するという。
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なお、「下社」の祭神は半年毎に遷座される。「秋宮」から「春宮」へ遷座する「遷座祭(せんざさい)」は2月1日に、「春宮」から「秋宮」へ遷座する「御舟祭(おふねまつり)」は8月1日に行われる。
諏訪大社上社本宮 勅願殿
諏訪大社上社本宮 拝所
諏訪大社上社本宮 幣拝殿
 ❖ 諏訪大社 上社本宮 
「上社本宮」は「守屋山(もりやさん)」を御神体とし、「幣拝殿」と「片拝殿」のみで「本殿」がなく、社殿の四隅に「御柱」が建つ「諏訪造り」という独自様式だが、1964(昭和39)年に指定を受けた「長野県天然記念物」の落葉樹自然林「社叢」に相応しい質実森厳な趣をもって、その姿を見せてくれる。
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「拝所」は、1983(昭和58)年12月26日に、国の「重要文化財」に指定されているが、一般参詣者が進むことのできる最終の社殿で、ここから恒例祭典や重要神事の場である「幣拝殿」への参拝をおこなう
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現在の「幣拝殿」は、1835(天保6)年に左右「片拝殿」「脇片拝殿」とともに、宮大工「二代目立川四郎富昌(たてかわ わしろう とみまさ)」(1782/天明2年~1856/安政3年)と地元の宮大工「原五左衛門親成」によって上棟されたという。1983(昭和58)年12月26日に、国の「重要文化財」に指定されている。
◇ ◇ ◇
御神体「守屋山」に向かって建てられた「勅願殿(ちょくがんでん)」は、1690(元禄3)年の建立とも、1847(弘化4)年の再建ともいわれるが、2016(平成28)年に国の「重要文化財指定」を受けた社殿だ。「勅願」とは「勅命による祈願」「天皇の祈願」が本来の意味だが、ここ「諏訪大社上社本宮」では、古く「祈祷所」と記された祈祷をおこなう場所で、「幣拝殿」が「諏訪大社」の恒例祭典や重要神事を斎いおこなう場所であるのに対し、「勅願殿」は個人私事の祈祷をおこなう場所だったという。
諏訪大社上社前宮 御神燈
諏訪大社上社前宮 拝殿
諏訪大社上社前宮 拝殿
諏訪大社上社前宮 内御玉殿
 ❖ 諏訪大社 上社前宮 
「諏訪大社 上社前宮」は、主祭神の「建御名方神」とその妃神「八坂刀賣神」が、最初に居を構えた「『本宮』以前にあった宮」で、諏訪信仰発祥の地と伝えられている。
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 「諏訪大社」の中で唯一「上社前宮」だけが持つ「本殿」は、主祭神「建御名方神」とその妃神「八坂刀賣神」が鎮まり坐すと伝えられる「御神陵」を奥に控える。「拝殿(はいでん)」は、1932(昭和7)年に「伊勢神宮」から下賜された材で造営されたというが、質実端厳な「上社前宮」の社殿にあって、聊かの華を感じさせる社殿だ。
◇ ◇ ◇
「内御玉殿(うちみたまでん)」は、1932(昭和7)年に現在の社殿に改築されるまで1585(天正13)年造営の社殿で、「諏訪大明神」の祖霊がやどるとする「神宝」が安置されていた「上社」では最も古い建物だったという。中世まで強大力な権力で君臨し諏訪地方を支配した神職「大祝」が、神事にあたり「内御玉殿」を開いて、神宝「弥栄の鈴(やさかのすず)」「眞澄の鏡(ますみのかがみ)」「御鞍轡(みくらくつわ)」を人々に示し、現身の「諏訪明神」そのものとして神威を示威して、「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体をなす」と言わしめたと伝えられている。
諏訪大社下社秋宮 さざれ石
諏訪大社下社秋宮 神楽殿
諏訪大社下社秋宮 神楽殿
諏訪大社下社秋宮 幣拝殿
諏訪大社下社秋宮 幣拝殿
 ❖ 諏訪大社 下社秋宮 / 春宮 
JR中央本線「下諏訪駅」から徒歩約15分、「長野県下諏訪町」の旧「中山道」と旧「甲州街道」分岐に、「下社秋宮」は鎮まり坐している。
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「下社秋宮」から徒歩約20分、西に「砥川(とがわ)」が流れる「下諏訪町大門」で、「下社」最初の遷座地とされる地に鎮まるのが「下社春宮」だ。
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「神楽殿(かぐらでん)」はその名称のとおり雅楽や舞を奉納するほか祈願も行う建物だ。「下社秋宮」の「神楽殿」は、宮大工「立川和四郎二代目富昌」によって、1835(天保6)年に上棟され、1983(昭和58)年に国の「重要文化財」指定を受けている。一方、「下社春宮」の「神楽殿」は、天和年間(1681~1684)の造営といわれるが、その後修改築が繰り返され、1936(昭和11)年に大改修されて現在に至っているという。同一の図面で建築されたというが、「下社秋宮」より小ぶりの建物で、施されている彫刻も異なっている。
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「幣拝殿」は、地元宮大工の立川流初代「立川和四郎(たてかわわしろう)富棟(とみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)が「秋宮」を、大隅流「柴宮/伊藤長左衛門矩重(のりしげ)」(1747/延享4年~1800/寛政12年)が「春宮」を、同じ図面で請け負って、技を競ったといわれる。
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その「幣拝殿」は、参詣者が神前に奉献する「幣帛(へいはく)」を捧げる社殿「幣殿(へいでん)」と、拝礼を行うための社殿「拝殿」が、一棟の楼門形式「二重楼門造り」になった「幣拝殿」を中央に、「右片拝殿」「左片拝殿」を並べた祭祀と拝礼のための「下社」独自の様式の建物だ。「下社秋宮」と「下社春宮」の「幣拝殿」は、いずれも1983(昭和58)年に、国の重要文化財に指定されている。
諏訪大社下社春宮 大鳥居
諏訪大社下社春宮 神楽殿
諏訪大社下社春宮 幣拝殿
諏訪大社下社春宮 幣拝殿

御頭御社宮司総社🙂😐😐石や樹木を依代とする「ミシャクジ(御左口神/御社宮司)神」を祀る社

2021-12-31 16:00:00 | 神社仏閣
静かに新年を待つ年末の「御頭御社宮司総社」を訪ねた。


 ❖ 御頭御社宮司総社 
茅野市宮川の「神長官(じんちょうかん)屋敷」西南上段に位置し、静かに新年を待つ「御頭御社宮司総社」は、茅野市指定天然記念物の「社叢」に囲まれて、「ミシャクジ(御左口神/御社宮司)神」を祀る社だ。
◇ ◇ ◇
「ミシャクジ神」は石や樹木を、神霊が現れる時に宿る「依代(よりしろ)」とする神で、やがて蛇の姿をする神にもなったと言われているが、縄文時代の遺跡から「ミシャクジ神」の御神体や依代とされるものが出土することから、信仰が縄文時代から存在し、ご当地でも先住民族の信仰の神だと考えられている。
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近接「諏訪大社」は、「建御名方神(たけみなかたのかみ)」を祭神とするが、本来の祀神は土着神「ミシャクジ神」だとも、「ミシャクジ神」と後から進出した出雲系稲作民族の「建御名方神」が習合して同一視されるようになったとも言われている
◇ ◇ ◇
共棲の道を選んだ先住「洩矢神(もりやのかみ/もりやしん)」子孫の「守矢氏」は、「建御名方神」子孫「諏訪氏(後に『諏方氏』)」の「大祝(おおほうり)」に仕える「神長(後に『神長官』)」として祭祀を取り仕切ったが、その中核に「ミシャクジ社」が存在して来たという。
◇ ◇ ◇
この社叢に囲まれた社に向かい合う時間は、宗教が権力として人々を支配する以前の原始信仰の神韻を感じ取るよい機会になる。



 ❖ 神長官守矢史料館 
「神長官守矢史料館」は「神長官守矢家」敷地内に建ち、鎌倉時代から守矢家が伝えてきた県宝155点を含む1618点の古文書「守矢文書」を保管・公開している。
◇ ◇ ◇
「守矢家」の由緒については、「古事記」説話「国譲り(くにゆずり)」まで遡る。「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」率いる出雲系稲作民族の諏訪への進出で、「諏訪大社」は始まったと伝えられるが、狩猟系先住民族「洩矢神」子孫「守矢氏」は共棲を選択して、現人神の地位「大祝(おおほうり)」に就いて君臨した「建御名方神」子孫「諏訪氏(後に『諏方氏』)」に仕えたという。
◇ ◇ ◇
縄文時代から諏訪地方に根付いていた信仰における精霊「ミシャクジ(御左口神/御社宮司)神」を中心とした祭祀を取り仕切って、1871(明治4)年「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで、「神長官(筆頭神官の位)」として世襲を続けたといわれる。

宝積山 無動院 光前寺🙂😐😐春の鼓動がようやく始まった信州の山寺

2021-03-21 16:31:01 | 神社仏閣


春遅く、未だ梅の開花のない信州の山寺「宝積山(ほうしゃくざん)無動院 光前寺」に、ようやく春の鼓動が始まった。

森々として聳立する杉の古木に囲まれ、高遠石工「守屋貞治(1765/明和2年~1832/天保3年)」が文化年間(1804~1818)に制作したという坐高1.38mの親地蔵と、その周辺に並ぶ三十余体の子地蔵、そして積み上げられた小石によって、現世のなお果てぬパトスが治まる空間となって存在する「賽の河原」にも、まもなく春がやってくる。





大御食神社😐😐😐神代文字による「神代文字社伝記」を社宝として伝える神社

2020-09-15 18:00:00 | 神社仏閣

中央自動車道「駒ヶ根インターチェンジ」から車約10分の「美女ヶ森(びじょうがもり)」と通称される「大御食神社(おおみけじんじゃ)」は、神代文字による「神代文字社伝記(じんだいもじしゃでんき)」を社宝として伝える旧社格「郷社」で、「献幣使(けんぺいし)参向(さんこう)指定神社」だ。
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その由緒は、第12代「景行天皇(けいこうてんのう)」の皇子で、九州「熊襲(くまそ)」東国「蝦夷(えぞ)」の征伐を行ったという記紀伝説の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰途、当処で饗応した里長「赤須彦」が、118(景行天皇48/皇紀778)年に「日本武尊」を祀り、「大御食ノ社(おおみけのやしろ)」と名付けたことに始まるという。「清々しく弥栄えて丈高く奇杉なり」と愛でた大杉の元で、「日本武尊」は酒餞の饗応を受けたとされ、以来「御蔭杉」と称す御神木として、現在まで3代にわたって植え継がれて来ているという。
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地元が「美女ヶ森」と呼ぶ所以は、「日本武尊」が東征の帰途尾張で娶った「宮簀姫(みやずひめ)」(「古事記」では「美夜受比賣」「五郎姫」とも)を、307(応神天皇38/皇紀967)年に迎えて祀ったことによるという。さらに879(元慶3)年には、「応神天皇」の諡号で武運の神とされる「誉田別尊(ほんだわけのみこと)/八幡大神(ハチマンダイジン/ヤハタノオオカミ)」を、山城国より迎えて合祀しているという。
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9月第3日曜日には、旧赤須村の9行政区を5年番区に編成して、獅子練りが大規模に行われる例大祭がある。なお、柳田國男「一目小僧その他」(昭和9年7月 小山書店)に、「上伊那郡赤穂の美女森の社の神を五郎姫神といひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申してゐるが、これなどは姫神を五郎といふので殊に珍しく感ぜられる。」の記述がある。
 ❖ 拝殿  現在の「拝殿」は、「平之内大隅守(へいのうち おおすみのかみ)」がおこした流派で、神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻の宮彫を流派として最初に完成させ、「日光東照宮」「湯島聖堂」などの造営にあたったという「大隅流」の棟梁「小口平助」により、1923(大正12)年10月22日に竣工したという。1911(明治44)年辛亥改築のものと、構造様式は凡そ同じと記録されているという。現地に「流し造入母屋、唐破風御拝入母屋、千鳥破風、間口二十九尺七寸六分、奥行二十三尺五寸二分」の案内がある。
◇ ◇ ◇
なお、宮大工集団として並び立つ「江戸立川流」は、大隅流から分かれた流派で、のち幕府御用になったという。

 ❖ 本殿  1733(享保18)年癸丑6月造営、1748(寛延元)年戊辰10月改築遷営された「本殿」は、さらに1864(元治元)年甲子10月に改築遷営されて、現在に至っているという。
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間口が4.2メートルの母屋正面に、4本の柱を用いて柱間が三つある「三間社(さんげんしゃ)」、屋根の前が長く伸びて向拝を覆い庇と母屋を同じ流れで葺く「流造(ながれづくり)」で、現在は「銅版葺」だが、元は屋根を木の薄板で葺く「杮葺(こけらぶき)」、軒の一部について中央部は弓形で両端が反り返った曲線状の屋根「軒唐破風(のきからはふ)」の社殿だが、2011(平成23)年12月27日「駒ヶ根市有形文化財」に指定されているという。
◇ ◇ ◇
見るべきものとして、正面や繋ぎに立川流による彫刻があるが、建物造営の由緒などを記して棟木に打ち付ける木札「棟札(むなふだ)」は、1枚に1863(文久3)年9月の「釿始め」が、もう1枚には1864(元治元)年4月の「地鎮祭」が、記録されているという。その「大工キソ斉藤常吉 彫工下スワ立木音四郎」の記述から、「諏訪大社下社秋宮」の社殿建築により、競合する「大隅流」を圧倒する評判を得た「立川流」棟梁「立川和四郎冨棟(たてかわ わしろう とみむね)」の子どもで、卓越した彫刻技術により、単なる装飾彫刻を芸術性高い彫刻へ押し上げたといわれる「立川和四郎冨昌(たてかわ わしろう とみまさ)」の高弟「斎藤常吉英知(さいとう つねきち ひでとも)」が大工棟梁、同じく弟子の「立木音四郎種清(たつぎ おとしろう たねきよ)」が彫工で上棟したことが確かめられるという。
 ❖ 神饌殿  「拝殿」奥の左手にある檜造りの建物が、間口十一尺六寸、奥行八尺三寸の「神饌(しんせん)所」だ。「御饌(みけ)/御贄(みにえ)」とも言われる神前に供える供物「神饌」を、調理し格納する所をいう語が「神饌所」だが、天皇と皇后の写真「御真影」と、「教育勅語」などを納めていた太平洋戦争までの「赤穂小学校」の建物「奉安殿(ほうあんでん)」として、大隅流の棟梁「小口平助」が、1926(大正15)年に造営したものを、戦後の1947(昭和22)年に「神饌所」として移築した社殿だという。
 ❖ 神楽殿  「拝殿」手前で右手奥にある社殿が「神楽殿(かぐらでん)」で、神の来臨や神託を願って、神と人が酒食をともにし、歌舞する鎮魂呪術と、この時行われる神事芸能をいう「神楽」を奏するために、神社の境内に設けた社殿をいう。1920(大正9)年に旧「拝殿」を改造し「神楽殿」としたが、2009(平成21)年に現在の「神楽殿」に改築したという境内で最も新しい建物だ。
 ❖ 御神木 御蔭杉  「日本武尊」(「古事記」では「倭建命」)東征の帰路の112(景行天皇42)年、里長「赤須彦」が杉の大樹の元に仮宮を設けて、酒饌を饗したというその杉について、現地で「『尊 大いに悦ばれ この杉の樹蔭 清々しく弥栄えて丈高く 奇杉なりと愛で給ひぬ 以後 この杉を御蔭杉と称せし』と社宝『神代文字社伝記』に記述される」と案内される。
◇ ◇ ◇
しかし、204(神功皇后4)年春に枯れて、翌年春に中枝の大虚に実生の杉の植継を行ったとされ、さらに856(斉衡3)年5月に枯れて、858(天安2)年春に再び植継を行って現在に至ると伝えられている。3代目だが伝「樹齢千百余年」というみごとな大樹だ。
 ❖ 二木社  境内社「二木社/日本岐社」の祭神は、天地開闢時に最初に現れた神で「造化三神(ぞうかさんしん)」のひとり「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と「清和源氏」の祖となった平安中期の武将「六孫王経基(ろくそんおうつねもと)」だ。
◇ ◇ ◇
さらに境内社としてミシャクジ信仰に端を発したものが多いと言われる「社宮司社(しゃぐうじしゃ)」のほか「神若衆社」「甲子社」「齊殿社」「清和荒神社」が祀られる。
 ❖ 天神地祇  境内の「覆屋(おおいや)/鞘堂(さやどう)」に「天神地祇(てんじんちぎ)」額が架かる。その「天神地祇」とは、天界「高天原(たかまがはら)」に属する神とその子孫をいう「天津神/天つ神(あまつかみ)」(「つ」は古語で所属・位置を表す語)と、記紀神話で「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の命を受けた「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」が、記紀神話での地上界であり我が国の古称である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるため、「高天原」から「日向国(ひゅうがのくに)」の「高千穂峰(たかちほのみね)」に天降ったことをいう「天孫降臨(てんそんこうりん)」の以前から、「葦原中国」を治めていた土着の神「国津神/国つ神」とをいう。
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「天神」は「天照大神」「素戔嗚尊(すさのおのもこと)」など、「地祇」は「大物主神(おおものぬしのかみ)」「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」などをさし、「天神地祇」ですべての神々を言う。