このところ本屋に立ち寄る度に、「時刻表」を探していた。「時刻表」とは鉄道等の運行が出ているあの時刻表だ。昨日、那覇のジュンク堂に寄ったら、やはりない。時刻表の「復刻版」と全国路線図があっただけだ。廃刊だと覚りました。これも時代の流れかな。
国鉄が分割・民営化されたのが1986年のことだった。その後、地域の経済の稼ぎ高によって、廃線が膨らみ、日本列島はズタズタだ。私には「廃線跡を歩く」趣味はない。廃れた場所を歩いてどうするのだ。歩けば復活するなら、話はわからぬでもないが、感傷で時代を変えることはできないのだ。昔は時刻表さえあれば、どこをどう動くのか、大概のことはわかった。謂わば旅のバイブルだった。
今じゃ、スマホでナビタイムかよ。膨らみがないのだ。発想がまったくわいてこない。前後左右の動きも、よほど注意してかからなければ、へまをしかねない。アナログ人間の私は、もう生きている価値はないのかもしれない。
そしてさらにノートすら満足に売っていない。小学生が使うノートならあるが、ないのだ。今日やっと地域の事務用品を売っている店で買えた。お店の人に聞いたら、高校生が使わないそうだ。PCやスマホで勉強しているのかも知れないが、もう人間社会は終わっている。政権だって、そうだろう。農村・過疎地をデジタルで復活させると言うが、なんのこっちゃ。農作業をデジタルでできるはずがない。AIはそんなにおりこうではない。
閣僚の辞任があいついでいるが、知りません、覚えていませんで通じるならば、ただただ「おばか」だと言っているだけだろう。考えることができない大臣だと、いつのまに王様の時代にもどってしまったのだろうか。
本題に戻るが、ノートを取るのは、自分で考えるための基本だ。PCで読むだけならば、受け身でしかないのだ。与件を如何に料理するかだけだ。ノートを取る、書きながら考えることで、自己意識が育まれる。PCならば、いくらでも書き直せるし、組み直せる。しかし書いたり消したりすることが消えてなくなるから、思考回路・経緯がわからなくなる。器械のお便利さに調子を合わせていたら、自分の変化も結果でしかなくなる。問題は結果の変化ではなく、思考回路の変化を確かめることだ。
肝心要のことを失っていくデジタル社会は、危険だ。自己総括もデジタル社会の中で、ごく形式だけが残るだけになるだろう。言葉がどんどん軽くなる。降水量とか、災害で何人が亡くなったとか、その裏側にしみ出してくるものを全部無視できるのだ。
PCはたしかに便利だが、切り捨てていることがあることを忘れてはならない。血の滲むような総括を叚るんじてはいけません。自分で考えるためのツールであるノートを大切に使い続けたい。一人一人がノートを使って考え始めれば、この行き詰まった社会を打開できるかも知れない。ノート連盟を作り出そうか!
【追記】2015年の戦争法反対運動の中で、若者たちが頑張っていた。しかし見ていたら皆スマホを見てしゃべっていた。私は変な連中だと思っていた。スマホメモがなければしゃべれないのか。私はメモなしでしゃべる。5分から1時間ぐらいならば。
スマホで書いたとおりしゃべるのは、テープレコーダーみたいなものだ。読み流す。考えてあれば、そんなものを見ずにしゃべれるものだ。頭の中にしっかりと思考回路が入っていれば、せいぜい、数字とか名前とか、地名を覚えておく必要があるにしても問題なく上手くいくはずだ。