ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

感動は誰に帰属するものなのか?(20210713)

2021年07月13日 | 考え直すために

 東京オリンピックが強行されようとしている夏。沖縄は夏、真っ盛りだ。海も空も雷雨も。パインもマンゴーも。

 オリンピック参加選手がこのように言っていることを耳にする。「感動を国民の皆様に与えられるよう、このオリンピックで精一杯努力します」(要旨)のようなことを。このオリンピックはそうはならないだろうに、自分たちの努力をことさら強調しているのだ。

 ここでふと私は思う。「感動とは何だろうかと」。皆さんはこれまでの経験から、どう考えていますか? 私は大変危ういものを感じるのだ。感動とは心の機微である。プラスへの方向であれ、マイナスへの方向であれ。心とは個々人に属しているはずだ。私は●●に感動したとはいう。小説であれ、絵画であれ、写真であれ、スポーツであれ。

 大きく違うことは、小説・絵画・写真などは、あくまでも個人が読んだり見たり、描いたりして感動するものだ。スポーツなどは、必ずしも個人がではないだろう。観客がだったり、ファンがだったり、「国民」がだったりしているのだ。いつの間にか自分の感動が「集合体」の歓喜に組み替えられていく。

 例えば高校野球だと、地元のチームが勝てば盛り上がる。それは地元に肩入れしているからだし、よく言えば「共感」したいからだ。「共同体」なるものが、個々人にも作用しているのだろう。人間は様々な「共同体」とクロスしながら生きているからだ。個々人は「共同体」に助けられているからだ。同時に「共同体」に押さえ込まれてもいる。これは地域と国家を比べたら、ダントツに国家が危ないのだ。いや最近何かと国家が地域行政にやらせる下請け化も「地域の共同性」を国家が役立つと判断しているからだ。

 話がややこしくなるので、ここでは、そこに深く立ち入らないが、感動とはそもそも個人に属することだと私は強調したい。しばしば個人対「集合体」(家族・会社・学校・地域・国家などなど)が対立するが、私は多くの芸術は個人がふるまえる場だと考えている。個人が感得し、表現するものだ。創作者はもちろん、鑑賞者も。自分を養い育てる力が芸術にあるはずだ。

 スポーツによる感動も個人に属しているなら、先の選手達のような発言は生まれないだろう。オリンピックがやっかいなのは、個人競技も団体競技もひっくるめ、すべて国別で総括するものだからだ。金メダル何個、銀メダル何個、銅メダル何個。そこに初めからナショナリズムが埋め込まれている。感動がナショナリズムの中に押し込まれているのだ。

 菅政権は科学的な見地をもたず、唯我独尊。ひたすらオリンピック開催に固執している。日本人選手の活躍が、人々の不満・批判を、「感動」に組み替えれば、如何なる失敗・失政も忘れてくれるとばかりだ。

 しかしここまでおしこまれてきた中だからこそ、私は自分の感動を自分の怒りをますます手放さない。人間は不完全な存在だからこそ、個人と、国家に代表される「集合的な存在」がぐちゃぐちゃしている。不完全だからこそ如何なる社会の元で、如何なる国家の元で生きているかが問われる。ひとり一人が問うべしなのだ。感動できる力と、政治に関わる力は実はパラレルなのだ。実は官僚主義的な政治を変えるためには、芸術などの感動できる力が重要なのだ。

 多様性が重要ということも、ここに深く関わっている。ひとり一人が感動する力をもてれば、沖縄も日本も大きく変わるだろう。

 



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