今週末、東京で高校時代の合同クラス会が開催される。もう最後の機会になるだろうから、私も「行きたいな」と考えていた。だが、結果、無理となった。(゚◇゚)ガーン。この機会に当時を振り返り、私の記憶とその時代を思い起こしてみたい。
1 高校時代は1967年4月~70年3月
あの時代の私は、1967年3月から千葉県江戸川河口の野鳥の渡来生息地である干潟・湿地を守る「新浜を守る会」を女子学生3名らと共に結成し、その活動に全力を尽くしていた。平日の昼間、高校に通学していたが、授業中はほぼ寝ていたようだ。
高校時代の学校での思い出と言えば、図書委員だったことと、1968年6月の北海道への修学旅行ぐらいだろうか。図書委員とは図書館の維持・管理の補助と「本を読んでね」の活動だ。クラスという「俗事」とは異なる世界であり、私には大変ありがたかった。今思い起こせば、ヤングケアラーだった私に物静かに過ごせる場所があったのだ。救われた。1962年9月に母が病死し、妹は67年当時まだ小学校1年生だった(今では立場が逆転し、大変お世話になっている)。
初夏の北海道は、野鳥好きにはたまらない魅力的な場所がたくさんあった。その初日の晩、夜発青函連絡船の甲板に、ヒクイナがうずくまっており、私は「これはヒクイナと言う渡り鳥だ」とみんなに話したことをよく覚えている。
私は1965年(中2)から日本野鳥の会東京支部のメンバーとなり(70年から72年同会幹事)、自分でも世田谷区岡本町・宇奈根町・鎌田町での野鳥生息数調査に取り組んでいた(1966年~73年)。屡々夜明け前に自宅を出発し、自転車で約30分。頭上を、羽音を震わせながら塒から餌場に飛ぶコガモの群などを、興奮しながら見守ったことを今でもはっきりと覚えている。
2 クラスメートとは疎遠な学校生活
こんな私だったから、クラスメイトたちとコミュニケーションを取る機会は極限られており、「変わりモン」だと思われていただろう。女の子から「持てる」とかの話しは全くなかったし、私はそんな余裕・関心をもっていなかった。「我が道を行く」だったのだ。
しかし忘れがたいことがある。高3に上がる前だったか(68年から69年にかけて)、私は「理系クラス」を下り、文系に鞍替えした。鳥類学者になるためには、理系大学を受験するしかなかったが、理系(数学・物理・化学)まるでダメオの私は諦めた。その話しを口走った私に3名の女子が「諦めずにがんばりなさいよ」と声をかけてくれたのだ。励ましの言葉に素直に嬉しかった。しかし私は無理なものは無理だと断念した。
こうした支持の言葉をかけてくださったのは、私が新聞・テレビ・ラジオに出て新浜のことなどを伝えていたのを見てくれていたのだろう。私は自分が思っていたほど孤立していた訳ではなかったのだろう。
ここで高校の大先輩の話を少々書いておく。浦本昌紀氏(1931年生まれ)だ。彼は当時山階鳥類研究所研究員。60年代に生態学を知らしめた(学んだ)「自然と生命のパレード」(ジョン・H・ストアラー著 白揚社1961年刊)の翻訳者。彼と私の接点は、山階鳥類研究所でお見かけしたことがある程度だったが、当時も今も私を応援していただいたと、勝手に感謝している。
3 時代はベトナム反戦
時代はベトナム戦争反対運動が国内外で高揚していく時代だった。また同時に文化が急速に変わっていった。近代化(欧米化)の流れの中で、ミニスカートが大流行。しかし68年12月の厳冬の山中湖畔で、膝上20cmのミニスカの女子(カップル)を偶々私は目にしたとき、唖然とした。『若さの探鳥会』に参加していた私たちは、その前夜、ストーブのない部屋で卓球をやって身体を温めていた。手はガチガチにかじかんでいた(室温マイナス7度)。大流行しているからと、無理するなと言いたくなった。朝の野外は零下10度を下回っていただろう。流行に合せ、「彼」のためならば、無理をする(させる)ありかたに、私は呆れた。
ベトナム戦争と反戦運動の広がりについて、こんな小論では書き込めない。但し、私は以下の点について書きとどめておく。ベトナム戦争に抗議したベトナムの僧侶たちによる焼身事件があいついでいたのだ。身を焼き殺して抗議するという凄さ。言葉にならない。ベトナムがベトナムとして生き抜くための抗議だった。こうした戦争にこの日本国は米国に基地を提供することで加担しているのだと私も考え始めていた。当時の私は、沖縄を知らなかった(1972年に沖縄は日本国に返還された)。
1967年11月11日、由比忠之進さんが、日本で焼身事件を起こしたのだ。同じ日本人の決起にただならぬものを私も感じた。1969年6月、新谷のり子さんが「フランシーヌの場合」(作詞:いまいずみあきら、作曲:郷伍郎)をコロンビアレコードから発売。これはフランスのパリで、ベトナム戦争やナイジェリア戦争に抗議したフランシーヌ・ルコントさんの行動を、静かに歌いあげている。当時はまだ音楽業界も日本の大衆もこうした曲に共感できる健全さをもっていた。
さて私は、政治への関心をもちながらも、街頭に出たのは1970年6月だった。私は高校時代に一度も行っていない。ただ1967年8月、『若さの探鳥会』(私も呼びかけ人)主催の妙高高原での野鳥観察会帰りの長野駅(喫茶店)で、ソ連軍がチェコのプラハ(「プラハの春」への弾圧)に戦車を侵攻させたとのニュースに、私は仰天させられた。お陰で私は反米・反ソの立場をとるようになっていく。こうした時間を歩む中で、今の私の基礎が作られていったのだ。
4 新浜につくられたブツと沖縄の今
私たちの新浜運動の結果は、わずか80haの保護区の設定と観察舎の建設に留まった。結果は大人たちの審議会で決まり、私は愕然としたものだ。時代は「開発」振興のど真ん中にあり、「自然保護」などお呼びでなかったのだろう。しかし、私は自分たちの努力を無駄ではなかったと考えている。あちこちから続々と「自然を守ろう」の声があがっていったのだ。
私が初めて沖縄を訪ねたのは1989年5月。そして2013年10月、名護市に居を移した。今度は沖縄の地で新基地建設反対の運動などに20年余り前から取り組んできた。過去の埋め立て工事の結果は、湾岸道路やディズニーランドなどの造成に至ってしまったが、今度の相手は米軍基地だ。いずれも「公共工事」だが、何が「公共」なのかを真剣に問うべきだ。基地とはStanding Army と言われるように常に戦争に備えているものだ。まして危機を煽り、新たな日中戦争を起こしかねない戦争準備と世論形成がこの国全域で進んでいる。
新自由主義が強まる中で、反戦の時代から「武力による平和」の時代に逆回転したようだ。79年前の沖縄戦などの経験を考えれば、私は戦争を止める立場を貫きたい。「人を殺すことを使命」とする国を変えたい。一人でも多くの人たちが共感していただけたら、ありがたい。私は生きものが生きていけるために歩みたい。