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矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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佐世保・少女惨殺事件を解析する

2025年04月02日 14時34分22秒 | 社会・事件・事故

<2014年7月に起きた「佐世保女子高生殺害事件」についての解析記事を復刻します>

少女には煮えたぎるような激情があった。やり場のない悶々たる情念があった。実母の急死、すぐその後の父親の再婚・・・それらが重なってうっ積した感情が爆発したのだろう。表向きは極めて冷静で、ハンマーなど凶器を周到に準備し、相手は誰でもよいから機会をうかがっていたのだ。それを思うとゾッとする。
少女は頭が良く、ピアノも上手で美術にも優れていた。将来の希望はNHKのアナウンサーだと言ったり、悪と戦う検事になりたいと語っていたという。夢は沢山あったのだ。しかし、小学生の時に同級生の給食に漂白剤を入れたり、ネコなどの小動物を解剖したり、最近は父親にバットで殴りかかるなど、異常な行動が目立っていた。
ある人から聞いた話だが、異常な男子生徒を持ったある父親が、その子のクラスの遠足などに必ず付き添ったという。何をするか分からないからだ。そのくらい注意しないと異常な行動は防げない。この少女は事実上、ほったらかしにされていた。起こるべくして起きた事件と言えるだろう。
しかし、そんなことを言っても、凶行を未然に防ぐのは容易なことではない。彼女はそれを絶えず狙っていたし、そういうチャンスはいくらでもある。だから、前述の父親のように、最低限 誰かがいつも見守っていなければならない。しかし、母親の急死など不幸な出来事が続くと、荒れ狂う情念を鎮めることは難しいだろう。
こうなると、人間の“きずなが頼りだ。家庭はもとより学校でも。 学校教育では「命の尊さ」をいつも教えている。それは良いが、教師と生徒や生徒同士のつながり、きずなはどうだったのか。その少女はほとんど登校していなかったというではないか! 
いろいろ話し出すと切りがないが、やはり「人間関係」だと思う。もし優れた教育者や指導者がいれば、優秀な少女は才能を磨かれ、周りから認められて生きる方向を見い出せたかもしれない。ほったらかしにされたのが最悪だ。ほったらかしにされれば、多感な子供はますます自分の殻に閉じこもる。
同級生が惨殺されたのは全くやり切れない。その少女のご冥福を祈るしかないが、孤独な人間関係が今回の惨劇を招いたように思う。犠牲になった少女に黙祷。(佐世保・少女惨殺事件)

 加害少女は実母が急死し、父親が再婚してからますます粗暴になったというが、遅くともその時点で何らかの措置を講じなかったのか。父親を金属バットや包丁を持って襲うとはどう見ても異常だ。父親は世間体を気にしたのか、彼女をアパートの一人暮らしにさせ、事実上ほったらかしにした。自由放任主義も良いが、明らかに無責任だと言われても仕方がない。
小学生の時にも、彼女は同級生の給食に漂白剤を何回も入れたりした。大変問題になったが、父親は学校や教師の管理責任を指摘しただけで、後は“うやむや”にしたのである。本来ならその時に、少女を保護入院させるなど何らかの措置を講じるべきであった。その父親は弁護士で地元では名士だそうだが、弁護士ならいろいろな対策を取ることができたのではないか。とにかく、保護者として怠慢である。
また、少女の実母が急死した直後に父親は再婚した。結婚は個人の自由だが、1周忌もたたないうちに再婚するとは、あまりに非常識ではないか。このため、亡き母を慕う少女が反発したのも無理はない。それから彼女はますます粗暴になった。弁護士というのは、法律が全てだと思っているだろうが、法律よりも「人間の心」の方がはるかに大切なのである。人間の心情を踏みにじれば、必ずしっぺ返しを食うだろう。

 以上、少女の父親の態度を問題にしたが、そのとばっちりを受けて犠牲になったのは同級生の少女である。彼女とその遺族はまことに哀れであり同情を禁じえないが、問題の父親は自分には「非がない」と思っているだろう。なにせ弁護士だから、全てを法律で判断する。法律的には、彼は問題がないかもしれない。善を悪と言い、悪を善と言いくるめるのが法律家の仕事だ(笑)。だから、彼の娘は「善悪の判断」ができなかったのだろう。
まあ、いい。後はどうなるか知らないが、加害少女の父親は問題の佐世保北高校のPTA会長だそうだ。PTAがどういう動きをするか分からないが、大いに注目しよう。どうせなら、この父親は娘に撲殺されていれば事が済んだのに・・・ と思ってはいけないのだろうか。

事件発生のおよそ1ヶ月半前(6月10日)、佐世保市の児童相談所に、ある精神科医から「人を殺しかねない」少女について相談があった。精神科医は少女の名前を明かさなかったが、児童相談所は医師に助言をしたという。この少女こそ今回の加害少女であり、その後 適切な対応を取っていれば、あるいは惨殺事件を未然に防げたのではないかと悔やまれる。
私は素人だからよく分からないが、児童相談所も精神科医もそれなりに対処したと思う。ただし、こういう場合、児童相談所がもっとよく聞き取り、少女の高校や警察署、佐世保市などに通報すべきではなかったのか。そうすれば、事件を未然に防ぐ手立てがあったかもしれない。
例えば、少女を保護入院させるなり、あるいは学校や教師、クラスメートに注意を喚起するとか、相談所が少女の保護者(父親)と連絡を取り合うとか、いろいろな対策が考えられたはずだ。誰も悪くはない。しかし、せっかく情報が入ったのに、それを生かせなかったことが悔やまれる。
皆よくやっていると思う。それは分かるが、最後は決断と実行だ! 児童相談所は対応は妥当だったと言うが、最後の時点でもっと踏み込めなかったのが残念である。この事件はもっと情報が出てくるだろうから、また何かあれば書いていきたい。

 加害少女を診察して「人を殺しかねない」と述べた医師は先月(7月)、少女の両親と3回も面談している。そして、「このままでは事件を起こしてしまう可能性がある」と伝えたという。3回も両親と面談したのは、極めて深刻な状況にあるということだ。両親もそれは分かっていることで、あらためて何とか手が打てなかったのかと悔やまれる。
一方、少女は父親を「尊敬している」とか、殺した同級生の少女と「とても仲が良かった」と語ったそうだ(弁護士の話)。もし、それが事実なら、どうして父親をバットで襲ったり、被害少女を殺害せねばならなかったのか。ここに大きな謎がある。要するに、殺したかっただけなのか。
マスコミはこれを“純粋殺人”などと呼んでいるが、そうなると、善悪の判断や罪の意識は全くないことになる。こういう事例は少ないが、他にもあるという。実に恐ろしいことだ。
しかし、少女が英語の弁論大会で自分の父親を「エイリアン」と呼んだことを思えば、分からないことでもない。彼女こそ正にエイリアンなのだ! 宇宙人、異星人、地球外生命体・・・ エイリアンには地球人の道徳や規則、法律などは一切関係ない! 勝手に何でもできる。それが少女の本質であり、普通の人には全く理解しがたいものである。人はこれを“心の闇”と言うが・・・(続く)

私は観ていないが、2006年の『カミュなんて知らない』という映画は「人を殺してみたかった」という高校生の心理を、正常か異常かで学生たちが議論を交わすものだそうだ。これは2000年の豊川市主婦殺人事件(行きずり殺人)が背景にあるそうだが、人を殺してみたかったというのは、今回の少女惨殺事件にそっくりである。
ところで、カミュと言えば「不条理」の哲学で知られ、彼の小説『異邦人』は実存主義文学の代表作として有名だ。その主人公・ムルソーは殺人の動機として、「太陽がまぶしかったから」と話す。その辺が人体の解剖に熱意がありそうな佐世保の少女とは、かなり違うようだ。ただ、いとも簡単に人を殺す点ではよく似ている。
私がここで指摘したいのは、ムルソーは結局、人間として「救われなかった」ということだ。彼は“罪”を罪と認識せずに死刑になった。佐世保の少女は少年法で死刑になることはないが、できることなら、罪の意識を持つに至って欲しい。少女は今のところ、反省や謝罪の言葉を述べていないというが、いずれ罪を罪として認めて欲しいのだ。それが、人間として救われることになるだろう。実存主義はそうではないだろうが・・・
その点、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる主人公・ラスコーリニコフは全く違う。彼は強欲な金貸し老婆を「選ばれた非凡人は・・・社会道徳を踏み外す権利を持つ」として、何の躊躇もなく簡単に殺す。しかし、その後いろいろな経緯をたどって、最後は“罪”をはっきりと自覚し警察に出頭するのだ。私はムルソーよりもラスコーリニコフに親近感を持つ。
どうも話が飛んだようだが、加害少女の行く末を思う時、更生して社会復帰ができるかどうかが問われるのだ。(続く)

 インターネットに出ている加害少女の顔を見ると、ボーイッシュですっきりしている。私の好きな顔で、初恋の彼女を思い出させてくれる。どこにも嫌味な感じはないのだが、しかし・・・
少女がいたマンションの冷蔵庫からネコの生首が見つかったというが、事件直前まで解体していたのか。少女はこれまでネコを解剖したことがあるから、十分にうなずける話だ。それはともかく、父親の対処のまずさが指摘されている。
精神科医と何度も話し合い、学校からも注意を受け(少女の不登校とマンション一人暮らし)、危機が迫っているにもかかわらず事実上野放しにしておいたのは、保護者としての責任を問われても仕方がない。保護入院など矯正施設に入れる機会はいくらでもあったはずだ。
今後は少女の「精神鑑定」が注目されるが、どのような診断が下されようとも後に問題を残す事犯となりそうだ。

 

加害少女の父親は事件発生前日に、精神科医に少女の入院を依頼するなどいろいろな処置を取っていたという。しかし、これは「自己弁護」みたいなものだろう。本当に事件を未然に防ぎたかったのなら、3月2日、少女に金属バットで殴られ大怪我をした直後に、なぜ警察に通報するなり適切な措置を取らなかったのか。
また、その直後、診察した医師に「同じ家に寝ていると、命の危険がある」と言われ、少女をマンションの一人暮らしにさせたと弁明しているが、それなら“猛獣”を野放しにしたのも同然ではないか! 自分だけの命を守り、異常で危険な娘を事実上ほったらかしにしたのである。
その後、精神科医に何度も相談するなどしたが、肝心なのは3月2日の“バット事件”の直後である。あわや尊属殺人にもなりかねなかったのだから、最低限、警察に通報するなど適切な措置を講じるべきであった。そうすれば、その後の展開も変わり、今回の少女惨殺事件は防げたかもしれない。
今さら言っても遅いが、個人の尊厳や人権、プライバシーは重要である。それは百も承知しているつもりだが、万全の措置を講じても事件が防げなかったとするなら、当然、措置入院や保安処分などの問題が取り上げられてくるだろう。しかし、これは人権やプライバシーとの兼ね合いで問題があるだけに、軽々に述べるのは差し控えたい。ただし、法律上のことはよく知らないが、今回の惨殺事件で大きな課題として浮上してくると思う。(続く)

 少女は「善悪」とは何かを親から教わったのだろうか。学校では道徳教育があるそうだが、家庭ではさまざまだろう。モーセの“十戒”ではないが、人殺しはもちろん万引きだって良くないとか、日頃いろいろな機会に親は子供に教えるはずだ。それもしていなければ、親として最低である。
加害少女の父親は、何かあれば娘を叱ったり躾(しつけ)たりしたのだろうか。この子は異常だからと放っておいたのだろうか。小学6年の時、少女が同級生の給食に漂白剤などを混入して問題になった際、母親は土下座をして謝ったそうだが、父親は学校や教師の「管理責任」を問題にしたそうである。テレビで、ある保護者がそう証言していた。無責任な親は、何でも他人のせいにするものだ! まったく腹が立つ。
その時は少女もさすがに謝ったそうだが、以後、だんだん謝らなくなった。今回の同級生殺害事件では、いまだに反省や謝罪の言葉はないのである。子供を自由に好きなようにさせるのも良いが、最低限「善悪」の何たるかを教えるのは親の務めだ。少女の父親は本当にそれをしていたのかと疑いたくなる。
少女がいたマンションから100万円が見つかったそうだが、そんなに金をやる親は滅多にいない。父親は弁護士で金持だと聞いているが、娘を事実上ほったらかし、好きなようにさせていれば今度のような事件が起きるんだ!(続き)

殺された松尾愛和さん(15歳)は父親が海上自衛官の一家で、加害少女とは中学時代からの同級生である。2人は仲が良かったようで、愛和さんは加害少女の数少ない友人の1人だったという。彼女は明るく人懐っこい性格で友達も多かったようだ。
松尾さんの話は、すでにマスコミで多く伝えられているので止めるが、その人懐っこい親切な性格が今回かえって“仇”になったのはまことに不幸である。なんとも言葉にならないが、かえすがえすも悔やまれる。
こんな事件は二度と絶対に起こしてはならないが、そのためには、ありとあらゆる方策を再検討しなければならない。場合によっては“強制的”な手段も必要である。“強制的”と言うと反発する人もいるだろうが、事件を未然に防ぐためにはやむを得ない面もある。
私はごく当たり前のことを言っているつもりだが、エイリアンみたいな異常な人間が現われた場合、非常の手段を講じるのは当然だろう。すでに多くの人が論じているので止めるが、この事件は絶対に“風化”させてはならない! (2014年8月9日。続く)

 この少女は本当に更生するのだろうか。彼女は「精神鑑定」を受けることになったが、11月まで3ヶ月もかかるという。そんなに長い間 鑑定しなければ分からないのか。結果がどうなろうとも、私は精神鑑定というものをあまり信じたくない。
素人が何を言うかと叱られそうだが、精神鑑定は医師によって結果が全く逆になる場合がある。数学なら答えは一つしかないが、精神鑑定はシロにもクロにもなるのだ。だからあまり信じたくない。だいたい、これは「科学」なのか? まあ、いい。それよりも、加害少女はいずれシャバに出てくるから、彼女が本当に更生しているのか、罪を自覚しているのか、できれば罪の償いをするのかが気になる。それは将来の問題だが、外見上はいくらでも顔の整形をしたり、戸籍の変更もできる。少女の父親は弁護士だし、いくらでも対応策を考えることができるだろう。しかし、変わらないのは、被害少女の遺族らの癒されない感情である。(8月10日)

思いつくままに書くが、加害少女は「人体解剖」に強い執着があった。マンションの部屋から医学書も見つかったという。その前に、猫を何匹も殺して解剖していた。そういう欲望や執着というのはけっこうあるのだろう。問題は動機が、善か悪かということだと思う。この少女は肝心の善か悪かの判断ができなかったのだ。
また、“嗜虐性”もあったと思う。これは心の闇に包まれ、どの程度か分からないが、かなり強烈なものだったろう。いずれにしろ、少女は人体解剖をしてみたかったのだ。それがあの残虐な事件を引き起こした。しかし、解剖というのは江戸時代に“腑分け”と言い、杉田玄白や前野良沢で有名な『解体新書』を生み出した。動機が善であればなお更、医学の発展に多大の貢献をするものだ。
少女は相当に優秀だから、道を間違えなければ立派な医師になる夢はあったろう。外科医など最適か。しかし、殺人犯として一から出直しだ。彼女は更生するだろうか。精神鑑定が始まったばかりである。(8月16日)

殺人容疑で逮捕された高1少女の父親が5日、自宅で首を吊った状態で見つかった。父親は死亡しており、長崎県警は自殺とみて調べている。代理人弁護士によると、事件直後に父親は「私は生きていていいんでしょうか」などと発言。弁護士は「生きていてもらわないと困る」と答え、補償などについて話し合ってきたという。 

以上は読売新聞の記事によるものだが、自殺となれば痛ましいものの、この父親は少し無責任ではないのか。社会的な批判があろうともそれに耐え、殺された少女の遺族と向き合い、自分の娘が更生するのを見届けるべきだ。それこそ父親としての責任を果たすことになる。(10月6日)

写真は『週刊文春』の記事

 


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