武弘・Takehiroの部屋

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都会の“オアシス”か、ネットカフェ

2024年08月16日 05時07分09秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど

2007年5月17日に書いた以下の記事を復刻します

 1カ月ほど前、私はインターネットに接続するADSLを解約するという、とんでもないミスを犯してしまった。 発端は迷惑メールが跡を絶たないのでアドレスを変更したのだが、どこがどう“狂った”のか、勢い余ってADSLまで解約してしまったのだ。

 機械(メカニズム)に極めて弱い私だが、これは致命的なミスである。 あわてて新しいADSLの接続申し込みを行なったが、ゴールデンウィークの連休を挟んでいたので、接続完了までには3週間ほどの日数がかかるというのだ。

 仕方がないので、購入したばかりのハイビジョンテレビを見ては憂さを晴らしていたが、時間を持て余すばかりである。読書や散歩にも限界がある。 そうした時にふと、ネットカフェ(正式な名称はインターネットカフェ)に行ってみて、自分のホームページの掲示板に書き込みをすれば良いのではと思いついた。

「ネットカフェ」はテレビなどで存在を知っていたが、一度も行きたいとは思わなかった。そういう所は若い人達の溜まり場だし、“ネットカフェ難民”なる者がうようよしているだろうから、年寄りの行く所ではないと決めつけていたのだ。

 しかし、メールもネット検索もHPへのアップロードも何も出来ない状況は、耐え難いものである。精神的に窒息した状況だ。 そこで、意を決してネットカフェに行ってみようと思い、電話(104)で調べてみたら、私の住む所沢市内に店が3軒あることが分かった。

 車で行きやすい所は「自遊空間」という店だったので、早速そこへ行く。受付で聞くと5種類の部屋の中から好きなルームを選べることになっており、何も分からないから取りあえず“リクライニングシート”のある所に入った。

 一畳ほどの広さは狭く感じるが、シートに腰を下ろすと落ち着いた気分になれる。誰にも見られないという安心感からだろうか、一畳の空間が完全に自分のものになったと感じる。「自遊空間」とは“しゃれた”名前だと思った。「自遊」は「自由」に通じるし「空間」とは「小宇宙」を連想させる。

 そこで、私は自分のホームページを開き、掲示板に「ADSLの解約でホームページを暫く休止する」旨の書き込みをしてから、インターネットの検索を幾つか行なったあと帰宅した。 店には10人ほどの客がいて全員若者だったが、自分のような年寄り(65歳)でもけっこう馴染めるものだと思った。

 それから一週間ほどして、私はまたネットカフェに行ってみたくなった。家にいても退屈だし(テレビで大リーグ中継はよく見たが)、掲示板に書き込みをしたくなったからだ。 そこで、再び「自遊空間」に行くと、今度は“パソコン専用”の部屋に入った。私はDVDを見るつもりはないから、真正面にテレビモニターがあるのは邪魔である。 早速、ホームページの掲示板を開けると、いつもお世話になっている大阪の方からメッセージが届いていた。

 私は嬉しくなって「ネットカフェより」と題して書き込みを行なった。そして、二木紘三さんが主宰する私の好きな「MIDI音楽喫茶」を備え付けのヘッドホンで聴いた。 ヘッドホンで音楽を聴くのは久しぶりのことだったが、天空から音楽が舞い降りてくる感じがして非常に感動した。思わず体を揺すったり腕を振ったりしたが、声を出すのは抑えた。

 それから10日ほどたって、私は三たび「自遊空間」を訪れた。ADSLの接続が想定していた時期より遅れたので、家でじっとしていることが出来なかったのである。 今度も掲示板に書き込みをしたり、音楽を聴いたりして過ごしたが、三度目の来店なので私はネットカフェにすっかり慣れてしまった。

 コーヒーや紅茶、ジュースなどの飲料は“飲み放題”なので、それらをたっぷりと味わいタバコをふかした。 店内を見てまわると“ネットカフェ難民”用のものだろうか、シャワー室が設けられている。携帯電話や公衆電話用のボックスもあり、トイレもきれいに掃除されている。私は何となくくつろいだ気分になってしまった。

 さて、それから数日して、あるテレビ局の夕方のニュースを見ていたら、ネットカフェの特集企画を放送していた。いろいろな利用客がいるもので、司法試験を受けるために勉強する女性、夜勤に備えて仮眠をとる男性などが映し出されていた。

 そういう光景を見ていると、“難民”ではない一般の人達がけっこう多くネットカフェを利用していることが分かり、自分の体験と相まって有意義な側面があるものだと思った。 一畳ほどの空間の中に『自由』があるのだ。

 狭いということが問題ではない。どんなに広い家に住んでいても、不幸な人は不幸だし幸福な人は幸福なのだ。そう考えると、ネットカフェは現代の都会の“オアシス”ではなかろうか。そこで自由な時を過ごし、少しでも癒されるのであれば幸いである。

 私は又いつネットカフェに行くのだろうか。 いや、ADSLに接続できたからもう行かないかもしれない。行く行かないはともかく、インターネット社会が広がっていく限り、ネットカフェという都会の“オアシス”は決して無くならないだろうと思った。(2007年5月17日)


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