労働 同じ現場
竹伐採。
下に田んぼがあって田植え時期である。
斜面に生えた丈はつるがらみで何本もつながっている。
一本一本何とか細切れにしながらツルから外していくしかないのだが、そうはうまく行かない。
外れなくて宙ぶらりんのままにするしかないのもある。
田んぼに倒せたら良いのだがそういう訳にはいかない。
竹が絡んだ大きな木も生えていて。
はっきり言って人力でやる仕事ではない。
夕刻仕事を終えて帰りにコンビニコーヒーを買いによる。
スマフォを見ると浅井から架電ありとなっている。
折り返してみる。
弟が出た。
ピンと来た。
嫌な予感。
浅井はぽっくり逝ってしまった。
今日の午後、風呂に浸かっている状態で息がないのを発見されたそうだ。
ウイスキーを吞んで風呂に入ったようだ。
常態化していたのかもしれない。
循環器不全。
昨日は元気だったようだ。
3月のオーティスに来てくれてその後武部さんのうちに一緒に泊まり翌日、名古屋駅で私の大阪行きのバスを待ってくれそれで別れたのが最後になってしまった。
浅井は私とふたつ違いで30年近い付き合いだった。
隣町の出で私の実家のすぐそばに親戚があって幼少の頃より遊びに来ていたそうだし高校も一緒だったようだがその時は知らない。
浅井と初めて会ったのは石動駅前の農協会館だった。
地場のロックイベントがあって浅井も出ていた。
リハから全開のギリギリの形相で私はすぐ好きになった。
音楽はスティーヴィーレイヴォーンの曲が中心のブルースロックで格好は完全にテキサンである。
ギターも衣裳もレイヴォーンのままだ。
その頃の彼はそういうことには金に糸目をつけない奴だった。
車もフェアレディーZ等いつもそういう類のに乗っているような奴。
その日の打ち上げで気が合って一気に仲良くなりそれがきっかけでうちにもよく遊びに来るようになった。
浅井が名古屋に行ってからは稀に海外ミュージシャンのライヴを見に行ったり彼が帰省したときかにしか会えなくなったが私が自身のライヴで訪れるようになってからはその度にアパートに泊めてもらってもいた。
間違いなく私がこれまで生きてきた中で一番断続的に会って酒を酌み交わした男である。
つまり一番気の置けない奴だった。
私は最近どうも気分がスッキリしないので家ではあまり吞まない酒を今日は吞もうと思っていた。
さきほどまで浅井を偲んで吞むことになろうとは露思っていなかったのだが。
それでしんみりと吞むつもりが思い出されるのは可笑しなことばかりだ。
浅井のことは子供たちも全員知っているしみんなで思い出を話して腹を抱えて笑ってしまったのである。
私のクラシックギターでゴキに頭を叩かれてギターに大穴が明いた事も今となってはおかしくて仕方がない。
ある日車を走らせていたら浅井のフェアレディーZが見えたので停まって覗いてみると彼は目の周りにどす黒い痣を作って顔を腫らしていた。
その当時ゴキと一緒に住んでいたのだが喧嘩になってテレキャスターで叩かれたという。
腰骨も叩かれて変色し大きく腫れあがっていた。
ゴキも流血したらしい。
激しすぎる。
浅井はホイスキーなぞはショットグラスで生のまま一気に次々飲み干すやつだった。
だがそういう時は酔いつぶれてしまうのも早くてよくカウンターに突っ伏していたものだ。
浅井は顔に網目のような跡がついていた時期がある。
酔っぱらって寝てしまいあたっていた石油ストーブの上に顔をついてしまったのである。
ちょっと真剣な話をしていても顔に網目の跡があるから締まらない。
私は笑いを堪えたりしたものだ。
余り書けないこともあるがともかく笑ってしまうようなとんでもないことや阿呆なことを上げれば枚挙に暇のないやつであってそれがまづ思い出されるのも仕方ないのである。
でもそれだけではない。
愛すべき阿呆だった。
彼には本当に何でも話しやすかった。
私は地元でもそうはどぎつい富山弁を話さない。
しかしながら私も浅井も両親が共稼ぎだったから婆ちゃん子であって元来ディープな富山弁を知っている。二人で居る時だけはキツイ富山弁だった。
偶然にもばあちゃんの名前は同じだった。
それでこむづかしい話をしても彼は分かっているのかいないのか判然としないながらも退屈な顔一つせず聞いてくれたしバカ話では腹を抱えて涙を流しながら悶絶して一緒に笑ってくれた。
面倒見がよいというのか家に泊めてくれる時は何不自由ないように酒や食べ物、寝床なんかの準備をしてくれていたし家に来るときも必ず子供たちに手土産を持ってきてくれた。
外食ともなれば絶対に私には払わせない。
分不相応な高い料亭にも二人で行ったことがある。
私は酒乱のスイッチが入り理不尽にも何度か叱責したことがあるが概ね彼といる時は愉しかった。
私が主夫をやっていた頃彼も無職だったからよく家に来た。
酒を吞んで酩酊しながら私が上の句を考えそれを見て彼が下の句を捻り出すというアホな方法でよく曲も作った。
駄作をたくさん作り彼と二人でライヴもやった。
跡形もなくしてしまったが飯炊き男のブルースやSMブルースなんかはその影響があるだろう。
ギタープレイはゴキとバンドを組んでいた時あたりの一時は凄まじかった。
今でも最高級のロックギタリストだったのは間違いないと思っている。
あっという間にさび付いてしまったが。
生涯独身だったが名古屋に行ってからは年上の女性と長らく親密で居たのを知っている。
お母さんを子供の時に亡くしたので年上に惹かれるのだと彼は言っていた。
フツーの人から見ればやや常識外れではあるだろうが名古屋に行ってからは割に落ち着いた生活をおくっていたように思う。
最近はまた建設関係の仕事を辞めて悠々自適だと言っていた。
もしかしたら自分の来し方を少し悔んだりしたものかとも思うが多分違うだろう。
彼は死んだが私に悲壮感めいたものを感じさせない。
そういうやつだったからだ。
私は笑っても不謹慎とは思わなかった。
彼を思うときの自然な感情だ。
彼にはそういう強靭さを感じたしある意味ぶれの全くない稀有なロック野郎だった。
浅井はバンドを組んでドサ周りミュージシャンになりたいと最近言っていた。
彼の本当にやりたかったことなのかもしれない。多分そうだ。
彼の分までとかそういうことを云うのは嫌だがそんなことも私の中に入れておきたいと思っている。
ぽっくりいくとは。
竹伐採。
下に田んぼがあって田植え時期である。
斜面に生えた丈はつるがらみで何本もつながっている。
一本一本何とか細切れにしながらツルから外していくしかないのだが、そうはうまく行かない。
外れなくて宙ぶらりんのままにするしかないのもある。
田んぼに倒せたら良いのだがそういう訳にはいかない。
竹が絡んだ大きな木も生えていて。
はっきり言って人力でやる仕事ではない。
夕刻仕事を終えて帰りにコンビニコーヒーを買いによる。
スマフォを見ると浅井から架電ありとなっている。
折り返してみる。
弟が出た。
ピンと来た。
嫌な予感。
浅井はぽっくり逝ってしまった。
今日の午後、風呂に浸かっている状態で息がないのを発見されたそうだ。
ウイスキーを吞んで風呂に入ったようだ。
常態化していたのかもしれない。
循環器不全。
昨日は元気だったようだ。
3月のオーティスに来てくれてその後武部さんのうちに一緒に泊まり翌日、名古屋駅で私の大阪行きのバスを待ってくれそれで別れたのが最後になってしまった。
浅井は私とふたつ違いで30年近い付き合いだった。
隣町の出で私の実家のすぐそばに親戚があって幼少の頃より遊びに来ていたそうだし高校も一緒だったようだがその時は知らない。
浅井と初めて会ったのは石動駅前の農協会館だった。
地場のロックイベントがあって浅井も出ていた。
リハから全開のギリギリの形相で私はすぐ好きになった。
音楽はスティーヴィーレイヴォーンの曲が中心のブルースロックで格好は完全にテキサンである。
ギターも衣裳もレイヴォーンのままだ。
その頃の彼はそういうことには金に糸目をつけない奴だった。
車もフェアレディーZ等いつもそういう類のに乗っているような奴。
その日の打ち上げで気が合って一気に仲良くなりそれがきっかけでうちにもよく遊びに来るようになった。
浅井が名古屋に行ってからは稀に海外ミュージシャンのライヴを見に行ったり彼が帰省したときかにしか会えなくなったが私が自身のライヴで訪れるようになってからはその度にアパートに泊めてもらってもいた。
間違いなく私がこれまで生きてきた中で一番断続的に会って酒を酌み交わした男である。
つまり一番気の置けない奴だった。
私は最近どうも気分がスッキリしないので家ではあまり吞まない酒を今日は吞もうと思っていた。
さきほどまで浅井を偲んで吞むことになろうとは露思っていなかったのだが。
それでしんみりと吞むつもりが思い出されるのは可笑しなことばかりだ。
浅井のことは子供たちも全員知っているしみんなで思い出を話して腹を抱えて笑ってしまったのである。
私のクラシックギターでゴキに頭を叩かれてギターに大穴が明いた事も今となってはおかしくて仕方がない。
ある日車を走らせていたら浅井のフェアレディーZが見えたので停まって覗いてみると彼は目の周りにどす黒い痣を作って顔を腫らしていた。
その当時ゴキと一緒に住んでいたのだが喧嘩になってテレキャスターで叩かれたという。
腰骨も叩かれて変色し大きく腫れあがっていた。
ゴキも流血したらしい。
激しすぎる。
浅井はホイスキーなぞはショットグラスで生のまま一気に次々飲み干すやつだった。
だがそういう時は酔いつぶれてしまうのも早くてよくカウンターに突っ伏していたものだ。
浅井は顔に網目のような跡がついていた時期がある。
酔っぱらって寝てしまいあたっていた石油ストーブの上に顔をついてしまったのである。
ちょっと真剣な話をしていても顔に網目の跡があるから締まらない。
私は笑いを堪えたりしたものだ。
余り書けないこともあるがともかく笑ってしまうようなとんでもないことや阿呆なことを上げれば枚挙に暇のないやつであってそれがまづ思い出されるのも仕方ないのである。
でもそれだけではない。
愛すべき阿呆だった。
彼には本当に何でも話しやすかった。
私は地元でもそうはどぎつい富山弁を話さない。
しかしながら私も浅井も両親が共稼ぎだったから婆ちゃん子であって元来ディープな富山弁を知っている。二人で居る時だけはキツイ富山弁だった。
偶然にもばあちゃんの名前は同じだった。
それでこむづかしい話をしても彼は分かっているのかいないのか判然としないながらも退屈な顔一つせず聞いてくれたしバカ話では腹を抱えて涙を流しながら悶絶して一緒に笑ってくれた。
面倒見がよいというのか家に泊めてくれる時は何不自由ないように酒や食べ物、寝床なんかの準備をしてくれていたし家に来るときも必ず子供たちに手土産を持ってきてくれた。
外食ともなれば絶対に私には払わせない。
分不相応な高い料亭にも二人で行ったことがある。
私は酒乱のスイッチが入り理不尽にも何度か叱責したことがあるが概ね彼といる時は愉しかった。
私が主夫をやっていた頃彼も無職だったからよく家に来た。
酒を吞んで酩酊しながら私が上の句を考えそれを見て彼が下の句を捻り出すというアホな方法でよく曲も作った。
駄作をたくさん作り彼と二人でライヴもやった。
跡形もなくしてしまったが飯炊き男のブルースやSMブルースなんかはその影響があるだろう。
ギタープレイはゴキとバンドを組んでいた時あたりの一時は凄まじかった。
今でも最高級のロックギタリストだったのは間違いないと思っている。
あっという間にさび付いてしまったが。
生涯独身だったが名古屋に行ってからは年上の女性と長らく親密で居たのを知っている。
お母さんを子供の時に亡くしたので年上に惹かれるのだと彼は言っていた。
フツーの人から見ればやや常識外れではあるだろうが名古屋に行ってからは割に落ち着いた生活をおくっていたように思う。
最近はまた建設関係の仕事を辞めて悠々自適だと言っていた。
もしかしたら自分の来し方を少し悔んだりしたものかとも思うが多分違うだろう。
彼は死んだが私に悲壮感めいたものを感じさせない。
そういうやつだったからだ。
私は笑っても不謹慎とは思わなかった。
彼を思うときの自然な感情だ。
彼にはそういう強靭さを感じたしある意味ぶれの全くない稀有なロック野郎だった。
浅井はバンドを組んでドサ周りミュージシャンになりたいと最近言っていた。
彼の本当にやりたかったことなのかもしれない。多分そうだ。
彼の分までとかそういうことを云うのは嫌だがそんなことも私の中に入れておきたいと思っている。
ぽっくりいくとは。