私は父が公務員だったためほぼ3年に一度地方を巡る生活で、その度に一家荷物をまとめて引っ越しとなった。父は余り家庭の事にタッチしなかったので、母の苦労は尋常じゃなかったと思う。戦争を経験している世代の女性はとにかく、文句を言わずひたすら働いたのである。母は苦労話など一度もしたことはなかったが、今思えば偉大な人だったんだなぁと懐かしく思い起こされ、今更ながら私は母に感謝の気持ちが溢れてくるのであった。まあ、本人が亡くなってからではこんな気持を伝えることが出来ないのが残念だが、よく言う「親孝行、したいときには親はなし」・・・である。そんなこんなで生まれ故郷の水戸を離れたのが幼稚園年長組途中の5歳であった。
生まれてはじめて飛行機で・・・とは行かない昭和30年の戦後間もないドタバタの時である。私は覚えていないが多分長距離列車を乗り継いで、2日ぐらい掛けて大分まで行ったのだろうと思う。大分では小学校を5年間過ごし、それから世田谷赤堤に引っ越した。もともと物覚えの悪い私だが、朧気な記憶の底を浚って僅かに残った大分の、懐かしい幼年時代の思い出をちょっと書き出してみよう。
1、崖の上のキチガイ病院
「キチガイ」というのは今では差別用語で使うのは気が引けるのだが、当時はごく一般的に使っていた。正確には精神疾患医療機関とでもいうのだろうが、実態はキチガイと認定された病人を閉じ込めておく刑務所のような隔離施設である。それが30メートルほどの崖の上に建っていて昼となく夜となく、収容されている病人は鉄格子の嵌まった窓から顔をこすり付けるように出して、大声で何か叫んでいるのが日常だった。私もそういうものと気にも留めていなかったが時代だったのだろう。今では虐待と大騒ぎになっているのは間違いない。そう言えばあの病院は今どうなっているのだろうか。グーグルでこの辺だろうと大体目星をつけて探してみるが、どうやら普通の病院に鞍替えしているみたいだった。流石に気違い病院じゃあ風紀が悪いということだろう。私が住んでいたのはもうかれこれ60年も前のことだから、景色だって跡形もなく変わっているに違いない。私が引っ越した場所は駅から南側の、山の途中を切り開いた高台のような窪地だった。道路からは用水路を隔てて5mほど高いところに一戸建てが2、3軒建っていて、それぞれ敷地は100平米ほどはあったと思う。私が引っ越して出て行く前にはもう2軒ほど増えていたから、ちょっとした団地みたいにはなっていたようだ。要するに公務員専用の官舎である。その用水路の堤の上には見事な桜が10本程並んで立っており、春には地面に一面、綺麗な桜吹雪が散り敷くくらいに美しい花を咲かせていた。隣の家には(ここも父と同業の公務員だが)年下の女の子が住んでいて、確か「せっちゃん」という名前だったと記憶しているが正確な名は聞いていない。振り返ってみると私はその頃から人付き合いは悪かったらしく、いつも兄弟で遊んでいたようだ。当然だがまだ小学生、色恋沙汰に溺れるのはもっとずっと後のことである。
2、崖登り
ある日、裏山の崖をどこかで拾ってきたロープを使って兄弟で登りっこする遊びをしていた。私の家は長女一人に下3人が男の4人兄弟である。いつものように元気に外へ出て男の子らしく駆け回っていたが、この日は気違い病院まで登ってみようという事になった。多分45度位はあったと思うが、相当な急斜面をロープを頼りに登っている途中で、プツッとロープが切れたかして10mほど真っ逆さまに落ちて気絶してしまったことがある。落ちたところは柔らかい草地だったが、頭の脇1mぐらいのところに大きな角材が転がっていた。運悪く落ちどころがずれて当たっていれば、今頃は「私自身がキチガイ病院」に入っていたかも、という怖~い話である。しばらくして気が付いた私が何事もなく家に帰ったら、台所で夕飯の準備をしていた母が「何してたの?」と優しく聞いてきた。本当のことを話したていたらきっと叱られただろうが、多分落下したことはすっかり忘れていたんじゃないかな。大分時代のほのぼのとした思い出である。
3、奇妙な洞窟探検
家の下の道を東へ行くと、10分程で私達が墓地公園と呼んでいるだだっ広い公園に着く。そこの崖にはポツンポツンといくつか洞窟が掘ってあった。学校の仲間のウワサでは裏山を通り抜けて反対側まで繋がっていると恐ろしがっていたが、まだ誰も調べてみたことは無い。多分戦争中に掘られた防空壕の名残だろうが、私達は親に聞こうとは考えず自分で確かめることにしたのだった。今のようにネットやSNSで簡単に情報が手に入るわけではない。不思議なことは全部、自分の身体で確かめることしか知らない時代である。そこで子供同士何人か集まり、安全を期して入り口にロープを括り付け、ソロソロと壁をつたいながら中に入って行った。本で覚えたのかどうかは忘れたが、洞窟探検の基本ルールとして「左手を壁に付けて進み」、一定時間が過ぎたら今度は「右手を壁に付けて戻ってくれば」必ず安全に出てこれる、というのを勉強していたのである。可愛げのない子供だったのだ。何事にも慎重な私は更にロープまで括り付け、絶対迷子にならないように完璧な準備をしていよいよ探検を開始した。「行くぞ!」と気合を入れて真っ暗な洞窟を10mほど進んだら、何だか急に右の方に曲がって行くではないか。どこへ行くんだろうと更に10mほど恐る恐る道なりに進んでいくと、また直角に右の方へ曲がって行く・・・っと思ったらパアッと明るくなって、難なく出口に辿り着いてしまった。「あれ〜っ?」と思って外に出たら、外で待機していた友達がとキョトンとした顔をして立っていた。洞窟は「コの字」型に掘ってある正に防空壕そのもので、「何だよ、山の向こう側に出るんじゃなかったのか」と真実が明るみに出たわけである。我々は「大したことなかったね」とおしゃべりしながら、三々五々それぞれの家路についた。昭和33年、大分の片田舎の小学生の冒険談である。思うにこの頃は、ゆったり時間が流れていたようだ。
・・・次回は「大分」後編です。
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