明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

壬申の乱を解く(2)

2022-11-18 18:52:00 | 歴史・旅行
今回は天武天皇が吉野を脱出し壬申の乱を起こす顛末を、「舞台を九州とした話」で読み解いていこう。まず朴井連雄君の情報によって近江京が不穏な動きをしていることを知り、また宇治(菟道)の守橋者に私粮を遮られて兵糧攻めに合い、ようやく東国行きを決意する所からである。壬申の乱勃発だ。

1菟道の守橋者
だが宇治橋の橋守に私粮を遮らせるというのは、奈良県の吉野にいる大海人皇子に対して「トンチンカン」な命令ではないだろうか?宇治橋は吉野から見て奈良の更に北にあるのだから。九州説なら菟道(海路)を塞げば、すぐ近くの吉野へ船で食べ物を運ぶ手段は遮断される。ちょっと見過ごされる所だが近畿説では説明つかない文章だ。大海人皇子は海からの逃げ道を絶たれたので「しかたなく陸行」で東に向かったのである。

2吉野
仏道修行をすると言って吉野に隠棲した大海人皇子だが、そもそも吉野に「仏教関連施設など無い」のではないだろうか。吉野に行くのが当然と我々は思ってしまうが、少なくとも皇子なのだから人里離れた山奥に行くのではなく「ちゃんと宮がある」場所の筈である。当時の吉野は勿論桜の名所などではなく、「日本書紀に出てくるのは古人大兄皇子の話だけ」という全く不思議な場所である。天武天皇が亡くなってから持統天皇の時に何十回も通ったとあるが、とても宮があって沢山の人が舟遊びに興じるような場所ではない。現地に土地勘があれば「ここが舞台」とは考えないであろう。もし舟遊びが出来るなら困難な陸路を選ばずに、船に乗ってぐるっと和歌山・三重と周り、美濃や尾張などで戦力を蓄えるほうが全然早いのである。第一吉野が「山奥」だとは書いてない。

3不破道
村国連男依らに命じて安八磨郡の多臣品治に兵を集めさせ、国司に触れて「急に不破道を塞げ」させた。不破とは関ヶ原のことではない。九州の大分県にある竹田近辺だと大矢野先生は考える。不破は九州東部・南部と有明海沿岸部・北部太宰府をつなぐ交通の要衝であった。大海人皇子が東国に逃げ込むには、是非ともこの不破で西から来る近江軍を止めなければならない。それで多臣品治は「美濃の師3000人を発して」不破道を押さえたのである。この時大海人皇子は伊賀・伊勢を経由して阿蘇山の南を通り、野上(野津)に向かっていた。従う人々は草壁皇子や忍壁皇子と県犬養連・佐伯連・大伴連などの舎人に女子供の4、50人だったという。県犬養や佐伯といった「九州東部の地域名」を持った舎人がいることは、大海人皇子の逃げていく東国が「彼らの領地」であることと密接に関連している。

4菟田
日本書紀には、即日に菟田の吾城に至るとある。徒歩でいくのであるから余程近かったのであろう。大和飛鳥からは指呼の距離である。九州では現在の地名からは即座にここだという場所は無いようであるが、熊本市の吉野から東北に行ったところに「うさぎだ」という所がある。大矢野先生はここが菟田だろうという。このへんの当て推量が学問としての九州説の弱いところだが、まあ全部が全部ビッタリあったら、それこそ大変である。

5名張(隠)
続いて書紀は、甘羅村を過ぎたあたり(菟田郡家の頭)で伊勢国の湯沐の米を運ぶ駄50匹を徴発し、「夜半に隠郡に至りて隠駅家を焚く」と書く。ここも地名は残っていない。ただ単に壬申の乱で大海人皇子が通り過ぎただけの土地だからといって観光名所でもあるまいし、名前が残っていると考えるほうが変である。その後の歴史で何も産業がなかったとすれば、名前の残るほどの記憶も無いのであろう。

6横河
阿蘇山外輪山と祖母山の間を東側から南側を通って流れる白川を当てている。この辺りを横河とみなし、東北方向に伊勢・鈴鹿・萩野と並ぶ。そして北に向かえば不破道に出るし、そのまま東北に行けば三重・大野そして野津となる。近畿地方と類似した地名のオンパレードなのが不思議だが、日本書紀の書き方が曖昧なので困ったちゃんである。伊勢と言えば近畿地方の伊勢を真っ先に思い浮かべるのが普通だが、日本書紀の書かれた時代は730年より前なのだ。しかも672年の事件を描くのに現代の常識を当てはめることは出来ない。そもそも伊勢神宮は熊本が発祥なのである、九州の地名でなく近畿の地名で描かれているという証拠は何もない。あるのは現地に立った歴史家の「五感に訴える土地勘」なのだ。

6三重
阿蘇山の東側、祖母山の北側の地名は萩野である。書紀に言う「莉荻野」とは違うが、近いとも言える。だんだん私も心許なくなってきたが先を急ごう。積殖の山口で鹿深から来た高市皇子と会う。その後鈴鹿で応援の兵を発して鈴鹿山道を塞ぐ。ここでも鈴鹿という地名は九州説では確認できていないらしい。鈴鹿という地名は古い名前なので、未確認なのは非常に痛い。さらに川曲の坂本に到って日が暮れ、夜雨に会い寒さに耐えられず三重郡家で屋一軒を焚く、とある。三重は地図に載っていた。大分県である。その後鈴鹿の関からの使者が帰ってきて、大津皇子が大分君恵尺・難波吉士三綱・小墾田猪手などを連れて近江京から合流したと報告。大海人皇子は大いに喜んだという。そこへ村国連男依が不破道を塞いだと報告してきた。高市皇子を不破、山背部小田と安斗連阿加布に東海、稚桜部臣五百瀬と土師連馬手を東山に発すとある。いよいよ対決の時が近づいて来たのである。この日は桑名に泊まった。・・・やれやれ「桑名」も見つからない。何か九州説も怪しくなってくる。

7大友皇子の判断
大皇弟東国に入り給うを聞いて群臣内震動く。この時一人の部下が早速に追手を出そうと提案するが、大友皇子は採用しなかった。これは大友皇子が大海人皇子の東国入りを単なる逃亡と見るのではなく「大戦争になる」と思って本格的な準備をすることにした、と考えられる。大海人皇子の勢力は単に追手を出して済むという簡単なものではないことを知っていたのだ。それで近江の兵に加えて東国の兵をつのり、倭京すなわち菊池周辺の兵も集めた。それから太宰府の栗隈王と吉備の当摩公広嶋に味方になるよう説得するために佐伯連男と樟使主盤磐手をいかせたが、結局失敗した。二人はもともと大海人皇子側の勢力だったのだ。吉備は近畿説でも九州説でも遠すぎるので念の為であろうが、太宰府は近畿説ではちょっと遠すぎて話にならない。九州説では「かろうじて成立する」程度だが、どちらにしても参加しなかったから「押さえ」としては成功だろう。

8越
倭京に紀臣阿閉麻呂の軍、大津宮に村国男依の軍を送った後、多臣品治に命じて莉荻野に駐屯した。近江軍は、犬上川で蘇我臣果安と巨勢臣比等が山辺王を大海人皇子側と疑い、殺してしまう。この時近江軍の羽田公矢国は大海人皇子側に降参する。問題は「大海人皇子は斧鉞を授けて越の守りに入らせた」と書いてある事である。定説では越とは「越後」だというのだが、いくらなんでも無理であろう。九州説の「竹田市の西側の谷間」という「南越」を候補に上げるほうがまだ納得できる。ちょっとした話だがとても大事な証拠である。証拠はいつも些細なフレーズに「こそっと」隠されている、と言うのは私の言葉である(自慢です)。

9瀬田
7月7日に息長横河で近江軍を破り、9日に鳥籠山、13日に安河の浜、17日に栗太の軍を討ち、22日には瀬田に到着した。琵琶湖を舞台とした設定では横河から瀬田橋まで1.5キロである。5日もかけて移動する距離ではない。近畿を舞台とした場合に「地名は書紀に書いてある通りに並んでいる」のだが、肝心の「戦闘の実際」と記述のところどころが「一致しない」のである。あれほど臨場感に溢れた壬申の乱の細かい描写が、実際の地名に立って読み返すと「事実が見えてこない」のだ。歴史は現場に立って自分の眼で感じることが大事である。昔、旅行で飛鳥板葺宮に行き大化の改新の場面を想像してみたことがあるが、田舎のちょっと大きい家程度の板葺宮遺跡を眺めても、中大兄皇子らが「宮の十二の門を閉じさせ云々」という現場にはとても見えなかったことを覚えている。蘇我入鹿が殺されたのは「こんな場所ではない」、それが正直な感想である。瀬田橋は現在でも大きな橋で当時は130mぐらいあったとされるが、ここを大分君稚臣が雨あられと飛んでくる近江軍の矢を掻い潜り走り渡って敵陣に切り込んだのである。川幅は200m以上であり弓矢の届く距離を超えているし、鎧を着て走るには遠すぎて無理なのだ。九州説では瀬田橋は30mくらいの長さだから現実的である。後の平家物語などと違って、日本書紀の記述では「尤もらしく誇張する文章技術」がまだ無いのである。だから現実感が半端ないのであろう。近江方の指揮官智尊が橋の辺で斬られ、大友皇子は総崩れとなって逃げる処がなくなり、山前(菊池市七城町山崎は鞠智城の南)で自ら縊れたのである。山崎というのは天王山で有名な山崎だと思うが、それにしても逃げる方向が行き当たりばったりで不明瞭である。ここは九州説の方が説得力がある。

10総括
多くの地名が出てきてその中にはピッタシのものもあるが、「似ている」程度のものから「〜と推定出来る」というものまで色々である。そもそも地名を頼りに歴史を紐解こうとするのは間違いだし、現実に合わなくても「何となく分かったつもり」になってしまう危険性があるのだ。壬申の乱の舞台が近畿大和であるか九州有明海沿岸部であるかは、前後の歴史のなかで見極めなければ本当の所は分からない。ただ、金印を貰った委奴国や邪馬台国がその後タイ(亻委)国となり、倭の五王を経て7世紀に乙巳の変から白村江敗戦とつづき、壬申の乱という大内乱に到った流れは、最後は文武天皇の奈良朝へと辿り着かなければならない。結局九州説の最大の難関は、壬申の乱に勝利した天武天皇の末裔が何故その後に、近畿大和に王都を開くことになったかの説明である。

実は私は壬申の乱の場所が九州であるというのを「まだ半信半疑」なのである。だが半信半疑なだけでも凄いことなのだ(ホント、知らない人には馬鹿にされるよ)。大矢野栄次氏はその後に本を出してないようなので自分で考えるしかない、と私は思っている。これまでも多くの「非主流派の説」を大量に読み漁ってきたが、ここらで一旦「私の古代史」をまとめてみようかとも思っているので、来週にでも壬申の乱を解く(3)として通史みたいに書いてみたいと考えている。また下らない事をとお思いだろうが辛抱して最後まで読んでいただければ、私が案外と真面目で真剣に歴史に取り組んでいることがお分かりいただける事と思う。歴史は壮大なロマンである。いつの日かすべての謎が解け、天智天皇と天武天皇の関係もスッキリして、晴々とした気持でもう一度「過去に旅する楽しみ」を初めからやり直してみたい、というのが私の生涯の夢である。


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