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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

読書の勧め(16)法然上人絵伝(上)

2025-02-18 18:39:00 | 芸術・読書・外国語
人は死んだら何処に行くのか?。法然上人は往生する事を念じて聴く人皆にも勧めているが「何処に?」ということはあまり詳しく説明していない様に私が読んだ範囲ではそんな印象を持った。ただ単に「極楽浄土の往生する」ということだけである。だが当時はそれで十分だったんじゃないかな、とは思う。貴族も民衆も等しく「死後は極楽往生する」ことをひたすら願っていた、とは絵伝の描くところである(恵心僧都の往生要集以来、世の中に極楽往生と言う考えが広まった・・・ようである=私の理解)。現実世界を穢土と考え、死後にまたこの世界に生まれてくるサイクルから何とかして逃れ、輪廻転生を脱却して極楽往生する。つまり人間から「仏」になることが何よりも優先されることとされていた。この法然上人絵伝は、この願いが専修念仏によって叶えられた事例のオンパレードである(私の今の感想です)。仏に生まれかわって蓮の花の上に座り、衆生を優しく見守ってくれている姿を思い浮かべる段階で、ほとんどの人は「死を迎える」というのが当時の理想だったんじゃないかと思う。

仏の日常(そういう言い方が相応しいのかどうかは分からない)がどう言うものなのか、想像した人はいなかったんじゃなかろうか。例えば朝起きてから何をして何を考え、朝飯を食べ昼飯を食べ、夕飯を食べて寝るとしてその間何をしてるんだろうか?、等々である。まあ仏という存在そのものが人間の考えの及ばないところにあるので、そもそも日常などと言う「迷いに満ちた言葉」で言い表されるような瑣末なことにいつもいつも意識が向いていること自体が「人間の苦しみの根源なのだ」とも言えるわけです。とにかく細かいことは抜きにして、現世の汚辱に塗れた苦しみからどうにかして逃れることそのことが、大概の人間が死ぬ時に願っていることのようである。ただし現世を離れてあの世に行くだけでも色々な困難が待ち受けていて、さらに地獄だの畜生道だのありとあらゆる恐ろしい世界があると言い聞かされているわけだから大変だ。果たして死後、自分は「無事に」極楽へ行けるだろうか?というのが一番の心配事だったとも言える。何だか死んでるのに無事というのも変な話だが、まあ当時の人にはリアルな話だったんだろう。坊主というのはひたすら地獄の恐ろしさを「これでもか」というほど語って聴かせ、それで民衆に死後の恐ろしさを想像させるのが務めみたいな職業だったわけで、これは今でも本質的には変わっていない。思うになんと「罪作り」な職業だろうか!

ともあれ法然上人の考えは今になっては知る由もないが、私の解釈は極楽というのは「素晴らしい世界」の現世側の名称であり、例えていうなら「正真正銘の別世界」というに尽きる。そしてそこには成仏した人達が住んでいて我々の思考を超越した日常を過ごしており、釈迦如来や阿弥陀如来や大日如来や薬師如来などがその別世界から「はるばるやって来て」、助けを必要としている衆生をその有難いお導きで救って下さる、というのが大まかな仕組みである(私の拙い理解です)。大事なのは成仏するのに「修行」が必要なのかどうかの一点だ。恵心僧都の往生要集に従って、法然上人は「仏の名号」をひたすら念仏することで極楽往生できる、と説いた。本来は色々な仏教の宗派の説を論破して、阿弥陀如来の本願を第一とするために「長大な哲学的論争の過程」があるはずのだがそれは難なく端折って、ほとんどの人は法然上人が言うなら極楽往生は間違い無しと「一安心」し、死んでいったことだろう(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏〜)。まあ私は天邪鬼だから極楽往生した後は「どんな生活が待っているのか?」とついつい聞きたくなってしまう性分なのだがそれは「阿弥陀如来を疑っていることと同義」であるから、極楽往生は覚束ないと釘を刺されてしまった。法然も結構やるなぁ、である。

とにかく極楽がどうなっているかは現世の人間には分からない、で満足するしかないようだ。それが「信仰」というものであろう。宗教は色々な説があるが、結局は最後は「信じる」ことで誤魔化している。ちなみに最近は、死んだ人の行く場所が「天国」になってるようで私などは大いに疑問なのだが、本人がキリスト教徒でもないのに天国に召されるって「なんか間違ってはしやせんか?」と言いたい。まあ日本人は無宗教だと言われて本人もその気になって平気でいるようだが、何故か死ぬ時ばかりは「天国に行ける」と思って疑わないのだから脳天気である。そのくせ地獄の話や三途の川の話は面白おかしくネタにして笑いにするから「何なのこの人達?」と思ってしまう。キリスト教徒じゃなければ天国にいは行けないし、イスラム教徒やユダヤ教徒だって同じである。だいたい普段全然知らない人がいきなりやって来て「私は死にましたので今日からお世話になります」とか言って天国の門を叩いたとしたら、門番は「Who are you ?」と流暢なネイティブイングリッシュで質問するであろう。クリスチャンでもないのに「キリストの支配する世界」に行けると思っている時点で、ナンセンスなんである。だから日本人というのは「根本的に宗教心のない民族だ」という噂は、これ一事をもってしても明白だ。人間は死んだら「宗教によって行く場所が異なる」のは昔から「世界の常識」なんである!

まあちょっとお堅い話になってしまったが、要するに日本人はもともと神社に祀られている神(いわゆる現代で言うところの神道)を信じていて、それが「自然宗教」にカテゴライズされていて、死んだ親が「草葉の陰で見守ってくれている」っていうのがもともとの日本人の宗教心の原点である。言い方を変えれば「祖先崇拝」とも言う。つまり身の回りの「あるがままの自然」のなかにさまざまな形で魂が宿り、常に自分を守ってくれているという「実感」の中で生きているのが日本人なのだ。だから神様も漠然としたイメージしかないし、教義などはそもそも存在しないし要求も無い。そこが何事も理性的に不都合なく考えて作られている西洋の一神教とは一味も二味も違うところである。全ての自然にはこの世の魂が宿っていて、人間はその中で生きそして死んでいく。明快な「見たまんま」の即物的死生観であり、精神というキーワードを除けばまさに「その通り」である。言わば人間もミツバチも、その点では全く変わりは無い「自然の一部」だと言える。

ただ、私たちは一人一人違う個性を持っており、その個性の存在が「魂不滅」を考え出した、というわけなのだ。当然それは「理屈で説明できる体系的な宗教」を生み出した。ただ現代に生きる私としては、魂不滅に関しては「もう少し科学的な説明」が欲しいのである。今の世界の宗教は、死んだらどうなるのかについての「科学的な説明」ができてない。結局私は独自の死生観を発明してこの問題を「見事に解決」した。これは人類史上「初めての快挙」だと自負しているが、まあそれは別の項に譲るとして、法然上人は10世紀の人だから専修念仏で全ては解決すると考えたのだろう。恵心僧都が往生要集を書き、それを法然上人が純化して世に広めた教えが、阿弥陀如来の本願を信じてひたすら念仏すれば誰でも「必ず往生す」、という画期的な宗教である。

この絵伝の上巻を読み終わった段階では、彼の「肉声が聞こえる」までに本の中身が頭にスイスイ入ってくるようになっていた。もともと法然の伝記であるから彼の人となりを理解しようという目的で読み始めたのだが、徐々に「法然上人の世界」が見えてきた感じである。特に本の所々には、日常的な事柄について彼がどういう風に考えていたのか、が分かって面白かった。例えば「他人と比較する気持ち」について法然は「比較する」とはどういうことなのかを順々と説明する。これを掻い摘んで私流に解釈・説明すると、つまり100m競走で成績を1着2着・・・と着順をつけるのは良い。しかし「あの人に勝ちたい」と競争心が出る底には実は「比較心がある」というのだ。それはすなわち自分の方が本当は彼より上だ、という比較の深層心理である。人間はどうかすると他人と自分を比較して「どっちが上か」を決めたがる生き物なのだ。それが念仏をする上で顔を出すと、あの人は何百回念仏したが「自分は何千回も念仏したぞ」と、自分の方が多いことを自慢する。区別はいいが差別はいけない・・・今でこそ当然と思われていることだが、それを千年前に当たり前と考えていた法然という人間に、私は仏を感じるのである。

さて下巻はどんな内容なのか?
だいぶ先になると思うがお待ちあれ!


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