明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

仏像と外人顏

2015-07-31 20:03:13 | 今日の話題
僕は昔から、何故仏像の顔はインド人なんだろうって思っていた。飛鳥仏から白鳳・天平を経て鎌倉に至るまで、皆全てインド人である。日本人の顔ではない。勿論仏教そのものもインド・ネパールで起こり、中国・朝鮮をへて日本に伝わったのだから、仏像がその起源とする民族の顔をしていて何の不思議もない。釈迦如来は実在の人であるから顔も似せて作られているとして、薬師や勢至はどうなんだろう。やはりそっくりに作ってあるのか。弥勒・大日の顔はどうなんだと、テレビで奈良や京都の国宝級仏像を見るたびに、僕の頭はこの疑問で一杯になる。何も、釈迦や弥勒の本当の顔を知りたいというのじゃない。僕が引っかかるのは、日本人の仏教徒は、自分達と顔かたちの違う外人の仏像を拝んでいるが、祈りや願いがが通じていると思ってたのかどうかと言うことである。

確か、神社では絵馬に願い事を書いてぶら下げるが、お寺ではあまり見かけない。漢文で願い事は書けないのであろうか。あるいは、サンスクリット語とかパーリ語とか仏にも解る言葉があって、本当はそういう言葉で願い事をしたいのだが、日本人大衆にはとてもじゃないが無理なのか。そもそも、仏は何処の国の人かということで救いに差をつけることはしない、と信じていたのだろうか。それとも言葉は関係ない、心だ、と教えられていたのか。

詰まる所、僧侶だけがようやく仏語を読み書き出来たに過ぎず、一般の人々は、有難い教えを授けてくれる御仏の尊顔を拝し、ただひたすら極楽浄土へ往生することだけを祈ればいい、むしろ身近で無いことが仏の慈悲心を誘い、かえって尊さを増すのだ、と考えたかも知れない。
これは仏教の教えと異なるが、プロフェッショナルな僧侶の求めるものと、一般大衆の求めるものが違っていた、というのも事実ではある。何れにしても、これはこれで宗教の形だから、イチャモンを付ける気は毛頭ない。宗教は人間の手の届かないところから与えられるものだから、理屈の外にある。
ただ、ちょっとそんな日本人が、哀れに思える。

仏教発祥の地インドでは、結局仏教は主流とならなかった。インドはヒンズー教の聖地である。キリスト教もイスラエルで生まれ、ローマで広まった。そして、流れ流れて日本人に受け入れられた仏教は、奈良・平安の世の中に神道と肩を並べるまでに広まった。これが珍しいのかどうか判らないが、単なる事実である。
で、仏教発祥の地のインド人から見た熱心な日本人仏教徒は、どういう風に眼に映るのだろうか。自分達と全く身体の作りが異なる日本人が集団で一心に祈りを捧げている対象は、正に自分達と同じ顔かたちをした仏像なのである。

想像するに、とても変な気持ちではあるまいか、自分達はとっくの昔に捨てた仏教なのに、である。証明は出来ないが、人種的優越感がありありと見て取れそうだ。
「日本じゃ仏教が大流行りなんだってよ」「へぇー、そうなんだ。あんなもんの何処がいいのかね」「御神体はインド人だそうだぜ」「ますますわからんな」・・・

閑話休題。

僕の家は浄土宗である。「僕は」でなく「僕の家は」と書いた。正直なところ、僕は仏教を信じてはいない。
地球は太陽に呑み込まれ、太陽はオリオン座のアンタレスに呑み込まれ、宇宙は無限に広がってまた収縮するという。過去にはわからなかった宇宙の神秘は、今や全ての宗教から物理的な真理を奪った。
アメリカのキリスト教徒はまだ、人間は神が創ったのであって猿から進化したんじゃない、と信じてるそうだが。トドのつまり、現代の宗教家は、理論的な支えなしに心の平安を約束せざるを得ない。本当かどうかわからないが、死んだら、天国か地獄に行くことになってる、のだと。

だが私が思うに、人間の一生は動物の一生と同じである。そこに人間だからという格別な理由はないと思う、ただし、人間の「自意識」は、世界を唯一見渡すことの出来る神の視座を与えてくれた、一人一人に。実際、全世界と「僕」とが、見ている主体と見られている客体という形で対峙している。見ている側の僕を、見られている側の全世界と入れ替えることは出来ない。主体は不動なのである。これは神ではないのか。

ということは、「僕」つまり我々一人一人が、自意識という神あるいは仏である、または、コピーである。(なんとまあ非力な神なんだろう、ま、しょうがない)。このことから言えることは、「僕」は天寿を全うして死ぬだろうが、新しい「僕」がまたこの世にうまれてくると言うことである。
人生は一回きりじゃなく、何回も何回も続くわけだ。勿論、繋がりは全くない。前世という、漠とした記憶めいたものがあるという人もいる。ただし、生きている「今の自分」は、間違いなく厳然として「存在」する。そういう意味では、神は存在し「僕」は永遠である・・・

と言うことにしておこう。何せ、これで来世もまたもう一度生き返ることが出来る、と思って死んで行けるのだ。理論的にも物理的にも完璧な答えが一つ見つかったのだから良しとしよう。また一から人生にチャレンジ出来る。面白いな。すくなくとも、天国とか極楽浄土とかよりは楽しめるんじゃないかな?

・・・ああ、これは日本人に生まれたとしての話、イラクやシリアじゃこうはいえないな・・・残念だけど。

再度閑話休題。

いま思ったけどこれ、輪廻転生ってことじゃないのかな
いろいろ考えたけど、結局たどり着いたのが仏教の死生観の根本だとは、流石に仏教は深い、、深いね。感服!!!

というわけで、また来週の土曜日まで、さようなら。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿