明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(水)文化:孤独な夜に聞くクラシック(8)広瀬悦子ピアノリサイタル

2021-02-17 20:42:10 | 芸術・読書・外国語

そんな中でNHKBSで放送しているクラシック倶楽部というのが結構新鮮で、最近のお気に入り番組になってきた。放送時間は朝5時から1時間と、ちょっと空き時間を穴埋めするような番組なので、私は録画して見ることにしている。プログラムは主として日本で行われたピアノ・リサイタルを中心としているようで、私の趣味ともピッタリ合致していて楽しい。時々ポゴレリチのような超有名なピアニストの登場して、どんな人が出てくるのか分からないところは YouTube なんかとは違った面白さがあると感じた。音楽はコミュニケーションであるから、いわば一期一会の出会いを楽しむのも大事かな。ポゴレリチの放送は何れ別途ブログで書くとして、今回は広瀬悦子を取り上げる。

広瀬悦子は私は知らなかったが、そこそこ知られた中堅ピアニストのようである(私がピアニ界の現状に疎いだけだとも言えるが・・・)。今回のプログラムは、ベートーヴェンの「テンペスト」とショパンの「バラード第1番・第4番」、それにモシコフスキという作曲家の「愛のワルツ作品57の5」である。録音は昨年末ということで、コロナ真っ只中のため観客なしのリサイタルとなったみたいだ。しかし演奏は入魂の出来で、私は無観客ということを忘れて聞き入っていた。彼女の弾き方はダイナミズムとかエモーショナルとかと言うよりも、細かい感情表現を一つ一つ丹念に描いていくような弾き方である。今は男女の違いという言い方は禁句みたいに言われているから個人の資質と思ってはいるが、ちょっと不思議な気分で聞いていたのは事実である。テンペストの弾き初めから、一般的なピアノの演奏とは「少し違うぞ」と感じたが、ショパンのバラードで「確信」に変わった。その違いは「内面的」な部分にあったと思うのである。

音楽というものは最初に聴いた時、その曲全体の構成がドラマチックに演奏されるほど、終わった時の感動は大きい。その曲を全体として一つのものと捉え、一つのメッセージと感じるような印象である。ショパンのバラード第一番で言えば、導入部で何か不安な情景が描かれ、それがやや落ち着いて少し心の平安をイメージさせるメロディが流れる。だが最初に提示された不安の要素は払拭された訳ではなく、2つの要素が心のなかで葛藤していながら曲は進んで行く。そして何度かの嵐が吹き荒れて一時的にやすらぎが戻ったかに思える瞬間、結局は最初に現れた不安が解消されないまま最後の決戦の場に向かて行くのだ。果たして命をかけた戦いに勝つのは私なのか、それとも?。・・・曲は結末をはっきりさせないまま「戦いの最中に終了」する!。これがバラード第一番のドラマ性だ。

作曲家とくにロマン派と言われる人たちは少なからず、このような「曲全体のプロット」は当然考えているだろう。何にも無しに曲が出来上がるとしたら、ただの駄作か「完全に神の啓示」による作品か、どちらかである。プロットに沿ってそれをメロディや上昇下降のパッセージや和音進行で作っていく作業が「作曲」というものだ、と私は理解している。それは頭の中にある「モヤモヤとしたイメージ」を、上手く表現出来るピッタリの言葉を見つけることが小説家や詩人の才能だとすれば、音楽家は「音」でそれをやっているのだろう。その「モヤモヤとしたもの」を表に形あるものとして定着・具体化出来た時に、作家は晴れ晴れとして満足する。作家は「十分表現できた」と思うから、完成した作品を発表すると思うのだ。それが案外と不評であったなら、表現力が足らないのではなく、表現すべき「モヤモヤ」が陳腐なだけであろう。私は(表現力が足らなければ、作品にはなってはいない)。だが演奏家の力量はそうではなくて、どれほど「音」にセンシティブか?、の勝負だと思う。

そこで広瀬悦子の弾き方に「思っているショパン」との違いに戸惑った私は、YouTube で聴き比べをしてみることにした。最近はしばらく聴き比べをやっていなかったので、3時間ほど遊んでしまった。ミケランジェリ・ポリーニ・ルービンシュタイン・ホロビッツ・フランソワ・アシュケナージ・仲道郁代・アルゲリッチ・中村紘子・それとポーランド生まれのクリスティアン・ツィンマーマンである。辻井伸行とポゴレリチは、残念ながら映像がなかったので聞けなかった。散々聞いてピアニストそれぞれにこれ程の違いがあることは予想以上だったが、それよりまず「音色」が違ったのは驚きである。ピアノというのはバイオリンと違って、音色を弾き分けるのは通常は難しい。勿論、弾いている楽器の違いはあるだろうし録音も違うことは承知の上だが、ある音が「悲しげ」に聞こえる人と「それほどでもない」人がいるのは驚きである。これは実力の違いだろうか。どちらにしても、私が気に入ったのはテンマーマンとミケランジェリの演奏だった。特にミケランジェリは、緊迫感の中に不安と喜びが入り混じって千変万化する曲の流れを、張り詰めた緊張を一瞬たりとも緩めること無くこのドラマチックな名曲を弾き切った圧倒的なメンタルには、正に脱帽である!。で、翻って広瀬悦子の演奏をもう一回聞いてみた。やっぱり世界の超一流ピアニストと比べては、技術的には「ちょっとイマイチ」である。だが舞台上の彼女の音楽のミューズが乗り移ったかのような、また感情の波に陶酔し切ったかのような演奏を見ると、いつしか私もバラードの世界に引き込まれていくのである。まあこれは、聴いているのが男性だということもあるのだろう。映像なしのガチンコ勝負なら、音色の弾き分けや一つ一つの音のクリアな打鍵、それと和音の際立たせ方に絶妙のタイミングで打ち出されるメロディラインの流麗甘美な魅力。やはり別格のミケランジェリが勝ったように思う(まあ、当然かも)。

芸術はコミュニケーションだというのが私の持論だが、ショパンのバラードに関してはもっと踏み込んで「メッセージ」が前面に出ている曲だと思う。まあ、ショパンのバラードは内容も物語風の設定だから、伝えようとするメッセージは演奏者もオーディエンスも、他の曲に比べれば分かりやすい。その中でも特に第一番は提示されたイメージがハッキリしているだけに、聞くほうが感じる演奏家の違いも分かりやすいのだ。それが結果、演奏家の「好き嫌い」になって現れる。ちなみにショパンはシューマンと出会った時、このバラード第一番を自分の一番好きな曲だと言ったそうだ。だが後年、自身の最高傑作という評価をこの曲が受けていると聞いて、「あ、そう」と素っ気なかったというエピソードが残っている。これを考えると、芸術の奥深さというのは終わりが無いとも言えるのではないか。彼の理想はモーツァルトだったそうである。それはモーツァルトの音に対する感受性が群を抜いて優れていることへの畏敬の念かも知れないし、あるいはロマン派の抱いている古典派音楽への憧れだったかも知れない。モーツァルトの曲に時々現れる「天上の至福のメロディ」には、稀代のメロディメーカー・ショパンも勝てなかったと言える。私が思うに、モーツァルトの美しさは「ただ一点の追加も削除も必要ない、完全無欠の美しさ」である。それに比べてショパンの美しさというのは、何かその先に完全なゴールがあるような焦燥感に象徴された、言わば「楽譜の外にある」完成された美を求めて葛藤する「儚い美しさ」なのである。やっぱ最後はモーツァルトだね。

そう言えば最近は私の傾向として、全体よりも「細部に拘る」聞き方になってきたと驚いている。細部に拘るとは、音楽の「ある小節の、テンポとか和音の強調部分とかアタックとか打鍵の強弱とか」が心を打って、それだけで「何か気持ち良いなぁ〜」と感じることである。絵画で言うならば、全体の中で描かれている人物の目線に物語を感じたり、家々の並び方に哀愁を感じたりすることだ。例えばルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の登場人物を一人ひとり眺めたりして、あれこれ考える至福の時間を過ごしたりすることだと言えよう。今回のプログラムではモシコフフスキが一番良かった。というのも、モシコフスキというのは初めて聞く作曲家で、それが案外とキャッチーなメロディだったり音のオカズが適度に盛られていて、たまたま見ている私の気分の合ってい他のが良かったのかも。ちなみにショパンの曲としては「雄大な第4番」が大好きである。まあスケルツォにしてもポロネーズにしてもソナタにしても、ショパンの傑作は制作年が終盤に差し掛かってのものが多いと感じるのは、私が年を取ったせいだろうか。

まあ今回聴き比べをやってピアニストの優劣を競わせてみたのだが、やっぱり音楽は「生で聴くもの」だと痛感した。自宅のリスニングルームでCDを取っ替え引っ替えしネットでも拾って、挙句にどのピアニストがどうこうなんて言っちゃあ、「ダメだろう」って思ったわけである。どんなに上手なピアニストでも「その場にいなければ聴けない」というのが、音楽を聴く姿勢としては正しいような気がする。そうでなければ世の中に一人の大天才ピアニストがいて、どんな場所でもネットで聞けるから「クラシック」なんてそれ聞くだけでいいじゃん、ってなっちゃう。言うなれば、クラシックは「再現芸術」でもある。我々一般人のピアノ愛好家にしてみれば、ささやかな「自己表現」の場でもあるのだ。壮大な物語を目の前に映し出し、我々にも追体験出来るような「手の届くかのように見せてくれる」ショパン。それが弾く人それぞれで「微妙にディテール」が異なるので楽しいのである。同じ筋書きの映画でも、主演女優が違えば受ける感動も異なるように、弾く人によってその映し出される情景も違ってくるからこそ、ピアノを愛するファンも無くならないのだ。そのピアニストの人間性の違いまでも楽しめるようになれば、私の音楽探求の道もだいぶ進んだと言えるのだが・・・あ、これ「あくまで演奏家」の話です。私、作曲家はめちゃくちゃ「好き嫌い、激しい」から勘違いしないように。

シベリウスなんか最悪だかんね、言っとくけど。


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