明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

セクハラ問題の真実(2)

2018-04-24 21:35:00 | 今日の話題
国会議員の品性ってこんな程度なのか、という声で耳が潰れそうだが、ニュースを見ていると「余りにも常識のない発言が多すぎる」のである。長尾議員の迷走に続き下村文科大臣の「言語道断ぶり」が耳目を驚かせたわけだが、自民党議員は皆こうなの?という話も出ているわけで、どうにも「うんざり」としか言えない話である(二階幹事長はうんざりを通り越しているそうだ)。#ME TOO 運動と絡めて政権を倒そうとする野党の策略を「現政権打倒のみを狙っていて、日本の国益をないがしろにしている」と批判する向きもある。今回は、この一連の「女性の権利」を守れという波が、実は大きな「社会観の転換点」を示しているのではないか、という論である。

まず諸先生方の発言が「とっても異常」である件は、個人の資質と言うよりも「世代の感覚」だと見たほうが正しいように思う。セクハラの本質を「世代」という観点から捉え直したその上で、問題点を個々に細かく見ていこう。

1 戦前。女性は男性のために奉仕する所有物、と考えて疑わなかった時代
昭和世代の基本的な女性観は「いい嫁さんを貰って、色気ムンムンの妾を持つ」という大正時代のオヤジ世代からようやく脱し、戦後のベビーブーマーには「結婚は恋愛で」という欧米流の考えが主流となった。その結果、女性の側も女としての意識が変化して、全員が「良妻賢母であることよりも、美しいことを目指す」ようになった。つまり、結婚するためには「自由恋愛で勝利しなければ」いけなくなったのだ。その一番の決め手が「女性の魅力を発揮する」ことだと女性自身が考えたのは、時代の流れでもあって無理からぬことである。

2 戦後。女性運動(ウーマンリブ運動)が盛んになり、女性は法律的には男女平等の人権を有する時代
見かけ上は女性も人間だと言われ、女性の社会進出が多くの女性社会人を生み出したが社会の男性優位は殆ど変らず、女性の側でも「結婚までの腰掛け」が主流で、本来の女性活躍社会には至らなかった。それでも何とか女性の参加比率を高めようという流れは続き、ちなみに私の会社では女性の比率は50%位(宝飾品製造販売なので女性が顧客ということもあるが)と多いが、概ね若い女性で大半が占められていて年取った女性は少なくなっているのが現状だ。街なかを見ても「働いている若い女性の姿」が目立つが、年齢が高くなるに従って「割合がガクンと減る」傾向にあるようだ。女性の立場からすれば、結婚して会社を退職する、というのが「まだまだ一般的」な時代である。形は変わっても「男性に奉仕する本質」は変わってはいなかったのだ。

3 現代。ようやく男性と女性は対等である、という観念が生まれつつある時代
歌謡曲でも男女の恋愛感情を「女性の視点から歌った曲」が出てきて、昔は「女性側が男性の心をつなぎ留めたいがために、人知れず苦難に耐える」といった一歩も二歩も引いた立場での歌が多かったが、この頃は「女性の心情をストレートに歌っていて、男性は単なる対象に過ぎない」と変化してきた。本質的な流れが「女性目線」に切り替わったのである。消費動向における女性の進出も目覚ましく、家から家具から車に至るまで「女性の意見が売れ行きを左右する」ようになってきたのだ。ところが、社会の構造自体は遅々として変化せず、社会の上部構造は相変わらず「男性で占められて」いる、というのが現実である。そのことによって「女性の不満が相当に溜まっているらしい」ことは明らかだが、実は男性側には「実感がない」というので、この男女間のギャップが今回「一気に噴出した」というのが真実ではないだろうか。

このように考えてくると、今回の福田事務次官のセクハラ問題は「社会変革のムーブメント」であり、歴史に照らしてみても、士農工商を改革した明治維新に続く、一種の「奴隷開放運動」という大改革ではないかと私は思っている。もちろん時間は「何年もかかる」話だが、動き出した流れは止めることは出来ないだろう。日本もようやく女性と男性とが同じ権利を認められる社会になるのである。そこで、私は具体的な女性解放運動の処方箋を考えてみた。

1 女性の社会進出割合を50%にする、という「法律」をつくる。
これは「税制」で対応するのが良いと私は考える(これは犯罪とするよりも、お金を払って解決するのがベターだ。お金を払えば社員全員を男性にすることも出来る)。つまり女性の比率が30%であれば4割の未達成率ということで「配当前利益の80%を課す」と決める。40%だったら2割だから税率は60%、45%だったら50%取られる。とにかく50%以下の場合は「相当取られる」と考えなければならないようにする。トヨタのような利益数兆円企業が女性比率30%だとすると国は「数兆円の8割貰える」のだから、結構大きい。この罰則による税収は「子育て費用」に回す、なども良い考えである。まあ罰則は適当に変えるにしても「予め決めておく」ことで目標が出来る。本来は自由に採用したら「50%になっちゃった」というのが理想だが、最初は無理やり実施させないと「体制は変らない」のが世の中である。それで中身は「達成してから考えれば良い」と言うのが明治維新から我々が学んだ「変革の方法」である。

2 全世代において女性の働く割合50%を維持する。
結婚すると皆んな辞めてしまうのでは50%に増やした意味がない。目的は男性優位の体制の改革なのだから、年齢に関わらず50%を維持するということで「子育ての保障」なども進み、育児期間が終わって再び仕事をする女性が多くなれば、女性解放の意識も加速する。だが多少能力が落ちても50%を維持するためには女性を雇わなくてはならないわけだから、なんで「能力が劣る女性を無理して雇うのか?」と疑問に思う人も出てくるだろう。しかし女性が「能力を発揮し、無能な男の上司に取って代わる」こともあるのだから、一概に女性のほうが能力が劣る、とは言えないではないか。まあ肉体的には男性のほうが有能ではあるが、それじゃあ男性は「肉体労働向きの家畜扱い」ということにもなって来る。近年ロボット開発が急速に進んでいるので、肉体労働の能力も「昔ほど差がない時代」になるのではないだろうか。自慢できる能力が「体力だけ」というのでは、男性の威厳も地に落ちたと言うべきか。

3 男女平等であるからには、女性も働く辛さを共有すべきである。
今はまだ女性だからといって許される場合があるようだが、これからは女性も仕事に対して「責任を持つ」ことが求められるであろう。女の涙は最強の武器、なんてのはもはや通用しない時代になってきた。男は昔から「泣いたりしない」ことを強要されて我慢してきたが、これからの男女同権の世には「泣く男」がいっぱい出て来るかもしれない。そう言えばイギリスは伝統的に「女王の国」として女性が強い印象があるが、それでも本格的に女性が社会進出しだしたのは2000年代に入ってかららしい。サッチャー首相とかメイ首相とか「勇ましい女性首脳」を輩出しているが、人々の幸せを考えるのが政治家だとするならば、案外女性のほうが有能かも知れない。どちらにしても「女性の性格そのものも昔とは違う」ということは、十分に予想されるのである。

4 女性の進出を阻む男性意識の改革には、独立したセクハラ監視団体を設立する。
役員を含めて全員を女性で構成し(男性を追求するのだから当然である)、そして全国全組織のセクハラ・パワハラを片っ端から取り上げて速攻解決する。もはや女性側は泣き寝入りなどせずに、堂々と訴えて「自己の権利を通す」ことが期待されているのである。で、その方法は

a セクハラを注意し、是正勧告をし、治らなければ「刑事訴追」する。これは個人と同様に会社にも通告する。罰則は「収入に応じて累進する罰金」である。100万円の収入の人は20万円だが、1億円の人は8000万円を払わなければいけない、という累進制である。要は「痛い金額」に設定するのである。

b セクハラを訴えた女性を逆恨みして嫌がらせまたは実質的な被害を与えた場合は「さらに厳しい罰」が与えられ、当の個人は「実刑判決」で、勿論「会社もそれを黙認または助長した場合は、その実行者を同様に実刑とし」、会社には原状回復と損害賠償を求める。つまり相当にキツイのだ。

c 実際は相手がいなくて「妄想セクハラ」を楽しんでいる男性にも、その「考えや体質」を改めさせるために、社会全体の啓蒙活動を促進する。場合によっては「禁煙」に取り組むぐらいの努力が必要である。大体が男の頭の中というのは「女性にモテる男」という夢から抜け出せないでいるので、放っておくと「自然と自分の狩猟本能が目覚めてしまい」セクハラ予備軍と化すので気をつけないといけない。そういう本能は時代の進化とともに次第に無くなっていくものであるが、落ちこぼれた男を「教育」するのも文化国家の努めである。

とまあ思い付く罰則を考えて見た。要は法律で根絶を図ることである。アメリカの人種差別も「法の裏付け」があって初めて実効が期待できるのである。

5 蛇足のようだが、女性が社会に進出するに従って先鋭化する子育てや家事分担や肉体労働などの諸問題を、国家として解決に向かい努力していく。
これは女性の解放・社会変革という問題を、法整備することにより後押ししようという取り組みである。法の力であれば、環境を整えることが出来るはずである。有権者の半数は女性なのだから、女性が投票所へ行きさえすれば「即座に解決する話」だと思うのだが、実際はそうでもない所に問題がある。つまり「女性が長い間奴隷として社会から抑圧されてきたこと」がよくわかるのである。曰く、女性は家庭に入って子供を育てることが本分である、などと今でも考えている古めかしい道徳観の女性がいるらしいのだが、いい加減に目覚めようではないか。そもそも女性が働かないと、日本は「やっていけない」のである。

とまぁ色々考えられると思うが、言わば「夜の盛り場を男性が肩で風切って歩いていた時代」は終わったということである。考えてみれば江戸時代は「身分制度」に縛られて国民の権利が制限された社会であった。それが明治維新を経て、富国強兵の為ではあったが徐々に市民が台頭し、戦後は「国民主体の国家形成」が現実のものとして、誰も疑うことのない常識となって現代に至っている。つまりその当時の大半の人間にとっては「身分制度廃止なんてしたら、社会は収拾がつかなくなってしまうじゃないか?」というような大変革だったのに、時が経てば「そんなの当たり前じゃない?」となるのである。だからちょっと見回すと「女性が50%も働く社会」になっていくことには、世の男性の中には「恐ろしさ」を感じるものも出てくるであろうが、いつの世も「時代の流れ」というのはそういうものである。

アメリカの人種差別も「相当長い期間かかって、ようやく改善しつつある」というのが、いまの現実であるから、日本の女性解放運動の時間がかかっているのもしょうがないわけだ。例えば人間を見て「あっ人間だ」とは思わないのは人間だという事は分かっていて、その次のカテゴリーである「男女」を区別して「あっ女だ」と認識して初めて「人の認識作業」が完結するというのである。まず男女を区別して、それからその後の行動を決めるのがこの日本の社会における「常識」だと思っているからである。つまり「男女は別の生き物で、扱い方も違う」と考えているのだ。そういう人達は今後は考えを改めるべきで、人間を見て最初に思うことは「単に人間だと思う」のが常識として定着する時代が来る、と考えられる。男でも女でもそれに対する自らの行動に影響はなく、行動する場合は「男女に関係なく、どういう人なのかを判断基準」にする時代が「ついそこまでやって来ている」のである。

私はこのセクハラ問題を考えるようになって以来、街で綺麗な女性を見かけても「以前と違って、女性と男性を同じ目線で見る」ことが出来るように変わってきた。時代も私も確実に変わっているのである。野党も安倍政権打倒にくっつけて「問題を政治方向に無理やり持っていこう」とするのはスッパリとやめて、もっと本質的な「時代の潮流」を見据え活動してもらいたいものである。まあ明治維新がそうだったようにどんなに抵抗しても、どのみちこの流れは「止められない」と思う。女性を男性の「くびき」から真の意味で開放する時は、間違いなくやってきているのだ。

それにしても国会議員やテレビのニュースの反応は、私の考えとは「相当に」ズレている。人間の半分である女性の「これからの未来」を語るコメンテイターが一人くらいいても良さそうなんだがねぇ、そう思いませんか?

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