最近はリハビリも進んできて歩くことや字を書くことが相当改善されて生活レベルもだいぶ上がり、これまで毎日が朝から寝るまでテレビを見っぱなしの状態だったのが、「見たい番組だけを見る」という正常な精神状態になってきたのである。これで私もボケ老人にならずに済むかなと胸をなでなでしたが、その顛末を書いて見ることにした。それでJ:COMのオプションチャンネルを全部解約して、代わりに「クラシカジャパン」に入ったのだ。病気になる前にスカパーを契約していた時は見ていたのだが、ずっとご無沙汰していたのをようやく再開したというわけだ。クラシカジャパンはクラシック専門のチャンネルで、海外演奏家の貴重な映像を見られるので重宝しているが唯一欠点といえるのが、番組数が少ないので「同じプログラムを何回も放送する」ことである。録画機能が充実している昨今のビデオデッキなら、1プログラムは1回、もし見逃しても2回も流せば充分であるのだが理由はどうやら違うみたいだ。私は4日ぐらい先まで番組表をチェックして録画するのでまず見逃すことはないのだが、クラシカジャパンさんは親切にも同一プログラムを5回も6回もやってくれるのだ。これはきっとお金がないので番組を買えないのだろう。しかし一体何年前の話なんだ?と言いたくもなる。まあ不満は色々あるが楽しめるチャンネルであることは確かだからよしとするか。
(1)ギドン・クレーメル
今日はアーノンクールとウィーンフィルで「ギドン・クレーメルのモーツァルトバイオリン協奏曲第五番トルコ風」を拝聴した。ギドン・クレーメルの映像はブラームスを弾いたのを見て以来で、実に「演奏会向きのドラマチックな快演」をとことん堪能した。と言ってもブラームスの時は舞台での彼のパフォーマンスと曲がぴったりで「オイストラッフ以来の最高の演奏」だと思ったが、モーツァルトの優雅な曲を演奏するにはちょっと動きすぎでは?と思わないでもない。もう少し端正で高貴な雰囲気の演奏の方が、モーツァルトには相応しいと思う。だが音色は「美しくやや高めの音程で、アタックが繊細で、柔らかくよく響く」音質であり、作曲者のしっかりした構成力も見事に弾き分けて、聴くものに充分な満足感を与えてくれる美音である。じっくり心で音楽を聴くと言うよりは、コンサート会場で演奏者と聴衆とが一体となって楽しむタイプのバイオリニストである。彼がアルゲリッチに引っ張られてタンゴなぞやり初めてからは、とんとご無沙汰しているがどうしているのやら。口を半開きにし上半身を大きく揺らしながら弾く独特のスタイルは今も健在だろうが、彼にはブラームスのような「聴衆を巻き込むライブ感覚」が良く似合うと思うのである。今度は是非、バッハなどのバロックを聴いてみたいのだがどうだろう。ブルッフのようにロマンの香り高い音楽は、ビジュアル的に余り感心しないと思うのだが。
(2)ケイト・リウ
第17回ショパンコンクール第三位のケイト・リウ。初めて彼女の演奏を聞いたのもクラシカジャパンを契約してすぐだった。2015年10月に行われた1ヶ月に及ぶ審査の様子は、以前ヤマハのピアノ部門が必死になって優勝を取ろうとあれこれ努力をするテレビ番組があって、アムランが最後まで残ったが結局優勝は取れなかったと記憶している。優勝者の選んだのは相変わらずスタインウェイだった。そこで番組は終わってしまったが今回その時の別の出場者の演奏を聴くことが出来た、ケイト・リウである。この回は優勝者がチョ・ソンジンの韓国人、2位がシャルル・リシャール=アムランのカナダ人、3位4位5位がリウとルーとヤンというアジア系で、ヨーロッパの影が薄いコンクールだった。ショパンコンクールでアルゲリッチやポリーニが活躍してた頃は、アジア人などはいなかった。別に人種差別する気は毛頭ないが、ヨーロッパで生まれてヨーロッパで愛され続けてきた音楽を演奏するのが、アジア人だというのはどうも余りピンとこない。私は勿論ショパンが大好きだが、それがヨーロッパ人と同じように彼の音楽を共有出来ているかというと、そうだとは言い切れないと思うのだ。着物の美しさや和室の安らぎなどを、生まれ育って以来自然に我が物としている我々日本人と、全然違うヨーロッパ文化からやって来た人達と同じように共有しているかというと、疑問に思うのと一緒である。だからショパンを理解して自分の祖国の血や肉となるためには、何十年と長い年月がかかると思っている。それで音楽を演奏するというのも当時のヨーロッパの一体感がバックになくてはいけない、というのが私のクラシック論の原点である。今回クラシカジャパンでケイト・リウを聞いてみると、なんとピアノはヤマハだった。ヤマハの音は「柔らかく広がりがあって包み込むような暖かみが感じられる」名品である。演奏は、おとなしめの出だしから弱音の続く夢想的なショパンお得意のフレーズまで全てが美しく流れていく。難しくて恐ろしく速いパッセージもテクニックが完璧な優雅な指使いが冴え渡って、リズムが遅く感じられることは全然なかった。今風の機械的にトレーニングされた無駄のないピアニズムは、見ていても余りにも簡単そうに弾くので拍子抜けする位の演奏である。身体は中学生のようにガリガリに痩せた体型で、アジア人の典型的なコンクールのためのピアニストに私には見えた。勿論ヨーロッパに住んで研鑽を積んでいる筈であるからアジア人としての環境にずっと居るわけではないのだろうが、どうも外見からくる個人的偏見をつい覚えてしまう。彼女の弾くショパンはロマンチックなメロディがヤマハの美音と相まって、例えようもない微妙な音の陰影を見事に表現して、聴くものを夢見心地の世界に誘う。と、ここまで書いてふと有ることが気になって来た。どうも全体に「聴衆に訴えるところが無い」のである。彼女の演奏は「夢見る自分」の理想を表現することには成功しているが、その演奏を聴いている聴衆の存在は感じられないのだ。聴衆との一体感があってこその演奏会ではないのだろうか。ところが彼女のファイナルでのコンチェルト演奏が始まったときに私は「あれ?」っと思って画面を注視した。音が違う。そう、彼女はそれまで使っていたヤマハをやめて、スタインウェイでコンチェルトを演奏したのだ。私は彼女が何故スタインウェイを選んだのか、何となく解る気がした。スタインウェイは硬質の華麗な輝きを身上とするピアノ界の王様である。コンサートの最後を飾るコンチェルトにこそ、華やかなスタインウェイは相応しいのだ。結局ヤマハは観客に訴えるというその1点で、まだまだ遅れを取っていると言わざるを得ないようだ。
(3)五嶋ミドリ
クラシカジャパンではなく、どこかの番組で久し振りに五嶋ミドリの「バッハの無伴奏ソナタとパルティータ」を観た。バッハという作曲家はもちろんバロック音楽の大作曲家なのだが、1600年代のドイツのケーテンという田舎町で作曲された一群の教会音楽は簡単には我々21世紀の日本人に理解できるものではない。そんな理由でこの番組を選んだのではなく、私自身が五嶋ミドリに一時惚れ込んだ時期があったのだ。それは「アンコール」というアルバムで、彼女のフェイバリッド曲を集めた小曲集だった。なかでも「エルガーの愛の挨拶」というのが「いたく」気に入って「マイフェイバリッドソングス」に入れ、しょっちゅう聴き歩いていた思い出の演奏である。その彼女がバッハを弾くと言うので、大いに興味を惹かれて録画しておいた。実際聞いてみると予想通り「確かなテクニックに裏付けられた淀みない演奏で、全体に押さえ目の感情を深い部分で静かに表現する」彼女のスタイルが良く出ている好演奏である。それは自己を主張しない裏方に徹して、主役のバッハを全面に出す「いつものやり方」でもあった。全6曲のソナタとパルティータは、聴くだけでも相当の時間を必要とする大作である。しかしバッハはこの作品で何かを表現しようと思ったわけではないと私は考えている。そもそも音楽が宗教を離れて、世俗の間に楽しみとして広まったのは18世紀になってのことである。それまでは音楽は「神イエスに捧げる供物」であった。パンや葡萄酒と同じく「もの」であって、人間の感情を表現する道具ではなかったのである。感情は言葉で表現される「詩や物語劇」の独壇場でシチュエーションを表す絵画が「説明すること」を第一にするように、「敬虔な気持ちにさせること」を音楽は求められていた。それをバッハは忠実に守ったのである。そして敬虔な気持ちにさせるために、「より深く緻密な音階と厳格な体位法に」到達していった、私はそう理解している。絵画が宗教的な出来事を説明するように、彼の音楽は宗教的な熱情を聴く者すべての「心に起こさせる」のである。個人的な感情ではなく「宗教的な人々の熱情」である。それで五嶋ミドリがどこまでそれを演奏できたかといえば、道半ばであろう。バロックと古典とロマン主義と、どれが優れているかなどと問うつもりはない。所詮私などは「非ヨーロッパの非キリスト教」で、音楽に関して言えば全く伝統もない「門外漢」である。バッハがどれだけ凄いのか、私にはとんとわからないが、おそらく五嶋ミドリもそうなのではないかと思う。バッハというのは、「日本人には理解できない何か」なのである。その点、モーツァルトやショパンはもう少し「人間に共通した部分」があり、分かるような気にさせてくれる。だが「そんな気になる」のであって、「分かる」のではないというのは当然だ。例え現代においてドイツ語やフランス語をペラペラ喋れたとしても、美味しい料理を食べたときについ「旨い!」と言ってしまう我々では、ショパンを「自分の肉体の一部のように」理解したとは言えないのではないか。でも、それはそれで仕方がないし、では日本人だから理解できる何か他の音楽があるかというと、無いのも現実である。そう、五嶋ミドリのように、「何とか理解しようとするのではなく、理解できる時がやって来ると信じて待つ」というのが正しい音楽ファンの姿であろうか。我々はバッハを、説得力ある演奏で聴衆を唸らせたリヒテルのCDを引っ張り出して秘密を嗅ぎだそうとあれこれ悩むのはやめて、「キリスト教徒の熱情の音楽」として軽い気持ちで楽しめばいいと思う。また、それしか出来ないのではないのかとも思う。「アジア人、五嶋ミドリ」の演奏は、私には無言の情熱を秘めた神への祈りを思わせるのだが。
(1)ギドン・クレーメル
今日はアーノンクールとウィーンフィルで「ギドン・クレーメルのモーツァルトバイオリン協奏曲第五番トルコ風」を拝聴した。ギドン・クレーメルの映像はブラームスを弾いたのを見て以来で、実に「演奏会向きのドラマチックな快演」をとことん堪能した。と言ってもブラームスの時は舞台での彼のパフォーマンスと曲がぴったりで「オイストラッフ以来の最高の演奏」だと思ったが、モーツァルトの優雅な曲を演奏するにはちょっと動きすぎでは?と思わないでもない。もう少し端正で高貴な雰囲気の演奏の方が、モーツァルトには相応しいと思う。だが音色は「美しくやや高めの音程で、アタックが繊細で、柔らかくよく響く」音質であり、作曲者のしっかりした構成力も見事に弾き分けて、聴くものに充分な満足感を与えてくれる美音である。じっくり心で音楽を聴くと言うよりは、コンサート会場で演奏者と聴衆とが一体となって楽しむタイプのバイオリニストである。彼がアルゲリッチに引っ張られてタンゴなぞやり初めてからは、とんとご無沙汰しているがどうしているのやら。口を半開きにし上半身を大きく揺らしながら弾く独特のスタイルは今も健在だろうが、彼にはブラームスのような「聴衆を巻き込むライブ感覚」が良く似合うと思うのである。今度は是非、バッハなどのバロックを聴いてみたいのだがどうだろう。ブルッフのようにロマンの香り高い音楽は、ビジュアル的に余り感心しないと思うのだが。
(2)ケイト・リウ
第17回ショパンコンクール第三位のケイト・リウ。初めて彼女の演奏を聞いたのもクラシカジャパンを契約してすぐだった。2015年10月に行われた1ヶ月に及ぶ審査の様子は、以前ヤマハのピアノ部門が必死になって優勝を取ろうとあれこれ努力をするテレビ番組があって、アムランが最後まで残ったが結局優勝は取れなかったと記憶している。優勝者の選んだのは相変わらずスタインウェイだった。そこで番組は終わってしまったが今回その時の別の出場者の演奏を聴くことが出来た、ケイト・リウである。この回は優勝者がチョ・ソンジンの韓国人、2位がシャルル・リシャール=アムランのカナダ人、3位4位5位がリウとルーとヤンというアジア系で、ヨーロッパの影が薄いコンクールだった。ショパンコンクールでアルゲリッチやポリーニが活躍してた頃は、アジア人などはいなかった。別に人種差別する気は毛頭ないが、ヨーロッパで生まれてヨーロッパで愛され続けてきた音楽を演奏するのが、アジア人だというのはどうも余りピンとこない。私は勿論ショパンが大好きだが、それがヨーロッパ人と同じように彼の音楽を共有出来ているかというと、そうだとは言い切れないと思うのだ。着物の美しさや和室の安らぎなどを、生まれ育って以来自然に我が物としている我々日本人と、全然違うヨーロッパ文化からやって来た人達と同じように共有しているかというと、疑問に思うのと一緒である。だからショパンを理解して自分の祖国の血や肉となるためには、何十年と長い年月がかかると思っている。それで音楽を演奏するというのも当時のヨーロッパの一体感がバックになくてはいけない、というのが私のクラシック論の原点である。今回クラシカジャパンでケイト・リウを聞いてみると、なんとピアノはヤマハだった。ヤマハの音は「柔らかく広がりがあって包み込むような暖かみが感じられる」名品である。演奏は、おとなしめの出だしから弱音の続く夢想的なショパンお得意のフレーズまで全てが美しく流れていく。難しくて恐ろしく速いパッセージもテクニックが完璧な優雅な指使いが冴え渡って、リズムが遅く感じられることは全然なかった。今風の機械的にトレーニングされた無駄のないピアニズムは、見ていても余りにも簡単そうに弾くので拍子抜けする位の演奏である。身体は中学生のようにガリガリに痩せた体型で、アジア人の典型的なコンクールのためのピアニストに私には見えた。勿論ヨーロッパに住んで研鑽を積んでいる筈であるからアジア人としての環境にずっと居るわけではないのだろうが、どうも外見からくる個人的偏見をつい覚えてしまう。彼女の弾くショパンはロマンチックなメロディがヤマハの美音と相まって、例えようもない微妙な音の陰影を見事に表現して、聴くものを夢見心地の世界に誘う。と、ここまで書いてふと有ることが気になって来た。どうも全体に「聴衆に訴えるところが無い」のである。彼女の演奏は「夢見る自分」の理想を表現することには成功しているが、その演奏を聴いている聴衆の存在は感じられないのだ。聴衆との一体感があってこその演奏会ではないのだろうか。ところが彼女のファイナルでのコンチェルト演奏が始まったときに私は「あれ?」っと思って画面を注視した。音が違う。そう、彼女はそれまで使っていたヤマハをやめて、スタインウェイでコンチェルトを演奏したのだ。私は彼女が何故スタインウェイを選んだのか、何となく解る気がした。スタインウェイは硬質の華麗な輝きを身上とするピアノ界の王様である。コンサートの最後を飾るコンチェルトにこそ、華やかなスタインウェイは相応しいのだ。結局ヤマハは観客に訴えるというその1点で、まだまだ遅れを取っていると言わざるを得ないようだ。
(3)五嶋ミドリ
クラシカジャパンではなく、どこかの番組で久し振りに五嶋ミドリの「バッハの無伴奏ソナタとパルティータ」を観た。バッハという作曲家はもちろんバロック音楽の大作曲家なのだが、1600年代のドイツのケーテンという田舎町で作曲された一群の教会音楽は簡単には我々21世紀の日本人に理解できるものではない。そんな理由でこの番組を選んだのではなく、私自身が五嶋ミドリに一時惚れ込んだ時期があったのだ。それは「アンコール」というアルバムで、彼女のフェイバリッド曲を集めた小曲集だった。なかでも「エルガーの愛の挨拶」というのが「いたく」気に入って「マイフェイバリッドソングス」に入れ、しょっちゅう聴き歩いていた思い出の演奏である。その彼女がバッハを弾くと言うので、大いに興味を惹かれて録画しておいた。実際聞いてみると予想通り「確かなテクニックに裏付けられた淀みない演奏で、全体に押さえ目の感情を深い部分で静かに表現する」彼女のスタイルが良く出ている好演奏である。それは自己を主張しない裏方に徹して、主役のバッハを全面に出す「いつものやり方」でもあった。全6曲のソナタとパルティータは、聴くだけでも相当の時間を必要とする大作である。しかしバッハはこの作品で何かを表現しようと思ったわけではないと私は考えている。そもそも音楽が宗教を離れて、世俗の間に楽しみとして広まったのは18世紀になってのことである。それまでは音楽は「神イエスに捧げる供物」であった。パンや葡萄酒と同じく「もの」であって、人間の感情を表現する道具ではなかったのである。感情は言葉で表現される「詩や物語劇」の独壇場でシチュエーションを表す絵画が「説明すること」を第一にするように、「敬虔な気持ちにさせること」を音楽は求められていた。それをバッハは忠実に守ったのである。そして敬虔な気持ちにさせるために、「より深く緻密な音階と厳格な体位法に」到達していった、私はそう理解している。絵画が宗教的な出来事を説明するように、彼の音楽は宗教的な熱情を聴く者すべての「心に起こさせる」のである。個人的な感情ではなく「宗教的な人々の熱情」である。それで五嶋ミドリがどこまでそれを演奏できたかといえば、道半ばであろう。バロックと古典とロマン主義と、どれが優れているかなどと問うつもりはない。所詮私などは「非ヨーロッパの非キリスト教」で、音楽に関して言えば全く伝統もない「門外漢」である。バッハがどれだけ凄いのか、私にはとんとわからないが、おそらく五嶋ミドリもそうなのではないかと思う。バッハというのは、「日本人には理解できない何か」なのである。その点、モーツァルトやショパンはもう少し「人間に共通した部分」があり、分かるような気にさせてくれる。だが「そんな気になる」のであって、「分かる」のではないというのは当然だ。例え現代においてドイツ語やフランス語をペラペラ喋れたとしても、美味しい料理を食べたときについ「旨い!」と言ってしまう我々では、ショパンを「自分の肉体の一部のように」理解したとは言えないのではないか。でも、それはそれで仕方がないし、では日本人だから理解できる何か他の音楽があるかというと、無いのも現実である。そう、五嶋ミドリのように、「何とか理解しようとするのではなく、理解できる時がやって来ると信じて待つ」というのが正しい音楽ファンの姿であろうか。我々はバッハを、説得力ある演奏で聴衆を唸らせたリヒテルのCDを引っ張り出して秘密を嗅ぎだそうとあれこれ悩むのはやめて、「キリスト教徒の熱情の音楽」として軽い気持ちで楽しめばいいと思う。また、それしか出来ないのではないのかとも思う。「アジア人、五嶋ミドリ」の演奏は、私には無言の情熱を秘めた神への祈りを思わせるのだが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます