明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ゴルフの練習と花粉終息宣言

2018-04-18 23:00:00 | 今日の話題
今日はゴルフの練習で汗を流した。午前中はどんよりした曇り空で気分も下がりっぱなしだったが、午後になって晴れてきたので暫くぶりでゴルフをやる気になった。昨日YouTubeで動画を見ていて閃いたので、早速試して見ることにしたのである。動画はリッキー・ファウラーのスイングをスロー再生するものだったが、頭がしっかりとボールを見ていて「打つ姿勢」が出来ているな、と感心した。野球のイチローも球を打つ間はじっと打点を見続けてコントロールしているので、一流のストライカーは「打つ時間が長い」のだと思った。鈴木愛もそういえば長いよな、などと思いながら「カゴ一杯のボール」を打席に運んで2、3発打ってみる。 結果は言わずもがなであった。2時間打ち放題で1500円の料金だから、構わずじゃんじゃん打ちまくる。

1 まず左への体重移動をしっかり意識して
2 バックスイングは円を描くのではなく直線的に背中側へグリップを持っていき
3 左手を伸ばしてクラブに反動を付け
4 体重を左の尻に乗せるように移しながら
5 インパクトに向かって胸郭を回転させ
6 瞬間的に左足に力を入れて地面を踏みつける
7 そのとき右手の平をボールの先の地面に向かって押し出すように突き出して
8 後は惰性でクラブが動くのに合わせて顔が目標を向き
9 体を前傾姿勢から起こして
という手順でスイングする。

コツは左肩をしっかりと動かして「インパクトのポジションまで移動させてから振り下ろす」ことである。それは左肩がクラブの運動軸の中心になる意識である。つまりクラブは左肩の付け根を回転の中心にして回っているのであるから、左肩の動きが重要になる。インパクトの時に頭の位置はクラブの回転中心から「だいぶ右側に離れている」から、ボールと正対するのは間違いじゃないかな、と思い始めたのである。これはダスティン・ジョンソンの分解写真を見て、思いついたことである。しばらく8番アイアンでスイングのチェックをしながら、方向性を確かめる。だいぶ出球が揃ってきた。方向は手首の返しを「早めに終わらせて」インパクトでは押し込むように突き出すので、あまり左への引掛けは心配することはない。問題はバックスイングとトップの位置を調整することいである。余り低い位置にトップをもってくると、左へ巻き込むようjな球がでるので要注意である。しばらく打ってからドライバーを握って、力を入れ「ガツーン」と打つ練習をする。だいぶ飛距離も出てきて、リハビリも順調に回復してきているようだ。弾道もライナー性の当たりが多くなって来て、以前の「ぽよよーん」という山なりの打球では無くなってきたのが嬉しい。合計200球ほど打ったあと椅子に座って一休み。サントリーBOSSの「地中海ブレンド」を飲む。いま自販機コーヒーの中では一押しの美味である。甘すぎずコクがあってキレが爽やかだ。甘ったるいばかりの商品や逆に無糖で味の薄いものなどイマイチの自販機コーヒーだったが、この地中海ブレンドは旨くて久々のヒットである。コーヒーを一口飲んでひんやりした風で汗ばんだ体を冷やしていたら、「そう言えば花粉、飛んでないな」と気がついた。

そうだ、花粉終息の時がやっと来たのだ。これで清々しい初夏の、目もくらむような麗しい季節がやって来る。私を長い間苦しめてきた憎っくきスギ花粉よ、永遠に「さようなら〜」だ。

というわけで今週、私の中では勝手に花粉終息宣言を出してしまった。1年の内の2月から4月まで、花粉の飛散量は年ごとに変わる。今年は特に多かったらしいが、意を決して病院に行き薬を貰ったので楽だった。1日2錠朝晩飲めば快適とまでは行かないが「ある程度の軽減」作用はあるみたいである。では飲まなかったらどんだけ酷いのかと言うと、「そんな実験するほどの余裕は無い」のが正直なところである。花粉症ではない人には分からないだろうが、とにかく「生きているのが嫌になる」という感覚だ。まあ花粉症で死ぬことは無いにしても、これが「5月の連休前には間違いなく終わる」と分かっているので何とか耐えられるが、もし「いつまで続くか終わりが見えない病」だったら、と思うとゾッとする。

世の中には進行性の麻痺で体の筋肉が徐々に動かなくなっていく奇病があり、ホーキング博士がそういう病気だったかどうか知らないが「同じ人間として想像を絶する辛さ」だろうとしか言えない。それでも体や内臓疾患の痛みで四六時中苛まれ、手足の自由も奪われて死を待つだけという患者に比べれば、「まだ彼は幸せだった」のかも知れない。生きるということは「時には死ぬより辛いこと」であるのだ。ニュースでオランダの発明家が自殺マシーンを商品化したとあったが、本当に必要な人には朗報である。自然界の動物には「自殺というのは無い」らしいが、自分で死を選択することが出来る人間は、それだけ自己決定能力が高いと言える。もちろん自然界の動物には「医療」がないので、トゲが刺さって餌を取ることが出来なくなり死んでしまうことも、あり得る。これまた自然の摂理である。生きるということは動物にとっては「命がけ」である。それに比べて我々人間は(特に健康な人間ほど)、死を「遠いもの」と捉え過ぎだ。

松戸市のボランティア・サークルで孤独死を防ぐ取り組みをしている団地がある。互助会的なサークルだが、参加している人の中には驚くべき「孤独死」を目撃した人がいる。それはある老人男性の話としてだが、しばらく顔を見せないと思って尋ねてみるとなんと「旅行のお土産をテーブルに並べたまま、その前のベッドに座って死んでいた」というのである。この余りにも突然の死に、ボランティアの人は絶句した。人間が死ぬ時というのは、電池が切れたように突然死ぬことがある。私の母も普段は2階の布団で寝ているのだが、何故か1階のソファに座ったまま息を引き取っていた。私はいままで家族が夢に出てきたことなどなかったのだが、その日はどういうわけだか母の死んだ姿が夢に現れたのだ。私は起きてから何度も実家に電話したが出てくれず、仕事で展示会の応援に行っている間も何度か電話をしたが、その時にはもう母はなくなっていた。実家は調布で私は北千住に住んでいたが、「人間の魂は死ぬ時に、愛するものの夢枕に現れる」ということが現実になったのだ。ただ私は、「死後の世界はあり得る」ということを信じているわけではなく、親子の魂は、死ぬ間際に「自然科学を超えてた力で相互通信する」というのを信じているのである。親子というのはDNAでいうと分身であるから、個体同士が「繋がっている」のだろうと思っている。私は母親似だったから、余計にDNAが近かったのだと今では懐かしく思い出す。

それで私自身の死についてもそろそろ考えなくてはならないが、病気で苦しまない突然死は人間の死に方としては最高なんじゃないか、と思ったりする。人に迷惑掛けなければどんな死に方でも結構だが、海で溺れるとかトンネルで閉じ込められるとか、とにかく窒息死は嫌である。地震で家具の下敷きになって身動きが取れないまま餓死するというのも嫌だな。もちろんバンジージャンプやスカイダイビングで失敗して地面に激突するとか、森で偶然に熊に出会って襲われるというのも「半殺しの状態で、生きたまま内臓だけ食われる」らしいから嫌だし結局、自然死以外は何でも嫌なのである。やはり布団の上で静かに往生したいというのが誰しも願うことであるらしい。そこで孤独死の問題になるわけだが、死後何ヶ月か経って白骨化していた、なんてことは世間体が悪く「あまり感心したことではない」と思う。本人は死んでいるからどうでも良いようなものだが、出来れば「翌日には発見して」欲しいと思っている。相当勝手な言い分で虫が良い話だが、「日頃の近所づきあい」が重要になってくるのだ。分かってはいるが、これが私は(というか大抵の老人はそうらしいが)大の苦手である。

今年の花粉もついに終わったことだし、少し外に出て「近所の人にも愛想を振りまいて」みようかな、と言っても急にどうにかなるというものでもない。私は引越ししたら「奈良で心機一転」、今度こそは近所付き合いのキチンと出来る人になってみせる、と心に念じているのだが、「京都・奈良は新参者には意地悪する」ことで有名らしいから、孤独死予防のお付き合いは、まだまだ先になりそうである。

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