明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

セクハラの何がいけないの?

2018-04-20 17:05:00 | 今日の話題
財務省事務次官のセクハラが世間で大フィーバーしているが、我々は本当のセクハラの定義を知っているのだろうか?

私はここ数日、ずっとこの事を考えていた。この問題が私にとってなにか影響があるというわけではないが、答えを持っていないということになると、ニュースを見ていても「正しい見方」が出来ていないということになってしまい、それは即「大衆の意見に流される」ことを意味するわけで、私としてはどうにも具合が悪いのだ。「いつも正しい立場に立って考える」、というのが私の唯一の自慢である(勝手に思い込んでいる)。それで今日、本屋に「アベノミクスによろしく・・・明石順平著インターナショナル新書」を買いに行っている時に閃いたのである。「セクハラとは何か」の答えが見つかったのだ。

1 セクハラは男性が女性に対して行うだけでなく、その反対もある
一般的に性的嫌がらせなどとわかったようなわからないような説明がなされているが、セクシャル・ハラスメントの直訳みたいでイマイチ説得力がない。どちらにしても「嫌がらせ」であると受け止めている人が多いが、今度の財務省事務次官の例でも分かる通り「本人は嫌がらせするつもりは、ない」のである。むしろ好意をもっているとも言える。もちろん相手が嫌がっているのは本人も分かっているとは思うが、「嫌よ嫌よも好きの内」という昔の川柳が言ってる通りで、本人的には「強く拒絶」されたのではないからOKだぐらいには考えているであろう。相手が「どのくらい不快感を抱いているか」というのは、この財務省事務次官にしてみれば「気が付かない」レベルだとも言える。それに体に触ったわけではなく「言葉あそび」の範囲だ、とも言えるわけで、本人には罪の意識はない。そんなに嫌なら「食事を断る」なり「担当を交代する」なり、方法はいくらでもあるじゃないか、と今でも本人は思っているだろう。テレ朝の上司も「難しい」と二の足を踏むのは当然である。酒に酔って「やたらとキスしまくる」女の大物芸能人もいるそうだから、被害者の気持ちが「不快」だったら「セクハラ」というのは、余りにも「一方的すぎる」定義と言えないだろうか。

2 セクハラは社会的に上位のものや体力的に強いものが行う、というわけでもないのに「嫌がらせ」というのはどういうこと?
つまり「相手にしなければいい」状況では、なにか被害を受けたということにはならないのじゃないか、という意見も一理ある。では「もやし男子」が女子プロレスラーに「おっぱい触っていい?」と聞いたらどういう罪になるのか。「ふざけんな!触れるもんなら触ってみろよ、あ〜!?」ってな逆襲にあって、ボコボコにされるか、はたまた「あなたの好きにして♥」となるかは分からないが少なくとも、「セクハラ被害届」は出ないであろう。だからセクハラを「嫌がらせメイン」の犯罪と捉えるのは、よろしく無い。セクハラは「性的」な何か、なのである。その何かを明らかにしなければ、正しい答えを得たとは言えない。何せ性的と言い始めたら「何でも性的」になっちゃうのだ。「あれ?髪の毛切ったの?」と思わず言ったら「セクハラ認定」されそうな社会って、もう住んでいられないじゃないの。

3 相手が断らなければ「不快かどうか」わからないから、被害を受けたほうは「声をあげる必要がある」という考えは一見尤もなようだが正しいのか?
これは犯罪全般に言えることだが、セクハラは親告罪でなく「告訴がなくても公判が成立する」とされていて、よく言われることだが「レイプにおいて被害者が抵抗したかどうか」を尋ねることと同じで、非常識そのものである。もちろん抵抗したかどうかはレイプ事案の判決には全く関係がない」のだ。被害者を薬で眠らせた犯罪者も、「抵抗がなかった」からといって罪が軽くなるわけでもない。もちろん抵抗されれば「より暴力的な犯罪」にエスカレートすることもあり得るから事実確認といいう意味では必要だとは思う。だが抵抗しなかったから「和姦」ということにはならないのである。なぜかレイプについては「和姦」というヘンテコリンな言葉が未だに通用しているようで「判断が曖昧」なのだが、今の刑法では「通用しない」ようである。何故曖昧かと言うと、被害者の「心の内」を犯罪の重要な要件としているからである。でも待って欲しい、他のどんな犯罪も「被害者の心の内」なんか「気にしたこともない」のに、このセクハラだけは(ハラスメントだからかも)尋ねる必要がある、というのはおかしいと思う。犯罪は「相手がどうこうと関係なく」成立するものでないとおかしい。だからある種の行為を「断っても」なおしつこく続けていたらセクハラになるし、もちろん断らなくてもセクハラである。声を上げるという行為はこれは、一種の「気づかない相手に教えてあげるという親切」と受け止めないと誤解してしまう。だがこれはもしかすると「彼なら良いけど、あなたは何を言っても不快」ということも可能だ、ということにも成りかねない。

4 「胸が大きいね」はダメで、「足が長いね」はOKというのはおかしくないか?
「大きい」というのは評価につながるからダメで、「長い」というのは単なる事実を言っているということらしいが、曖昧である。このままいけば「女性を褒めることは全部セクハラになってしまう」というのもあながち間違いではない。とにかく大げさに言えば、「綺麗だね」と言っても「ブスは空気を吸うな」と言ってもどちらも「アウト」なのだから「やってらんねぇ」である。例えば女性には「胸の大きい人」もいれば「胸のぺったんこ」(これも完全にアウト)な人もいるのだから、単なる事実を「事実のとおりに言っただけで」なんでセクハラだと批判されなければならないのか、超ムカつくではないか。結局セクハラは「被害者の感情」に焦点を当てている間は「親告罪との境目」をうろうろしている中途半端なもので、有名人がマスコミの餌食になる「格好の犯罪」に成り下がってしまうだけである。男性は女性を褒めてはいけないのか?

結局すべてが曖昧で、「訴えられるまでは」わからないという「恐ろしい」事態になってしまう。そして今回の事務次官のように、自分では犯罪を冒したという自覚がないままに「非常識な官僚の見本」みたいに断罪されてしまうのである。まるで「阿部定の男版」とでも言えるようなマスコミのはしゃぎようだが、そんなに酷いことをやったわけではない、というのが「昭和世代の本音」ではなかろうか。昔働いていた会社に「会長のむすこ」というのがいて、座って仕事をしている女性社員のスカートをめくっては遊んでいた。女性は「変態!」といいながら逃げていたが、それを目撃した私達社員は「バカむすこ」がまたやってるとは思っても「被害を受けた女性を助けよう」という感覚には思い至らなかったのである。だから我々は少しでも危ない雰囲気の女性には「触らぬ神には祟りなし」と近寄らないことである。ああ、なんとも不如意な世の中ではあるまいか。そこで私の考える「セクハラとは何か」について、正しい答えを書こう。

セクハラとは、人間を「所有物とみなす」行動または考えのことである。

この答えを見つけてから私はやっと、ニュース報道を自由な気持ちで見ることが出来た。人間はもちろん誰かの所有物ではなく、一人の存在として「尊厳と自由」を有している。「胸が大きいね」という時に相手の「人間としての尊厳」と自由を尊重していれば(そんなことは私には不可能だが、女性同士の会話なら何の不思議でもない)、例えばデパートの下着売り場の販売担当なら男でもお客から、セクハラだと非難されることは無いだろう。つまり女性を「自分のもの」とする場合には「胸が大きい」とか「肌が綺麗」とか「笑顔が可愛い」とか「ファッションセンスがおしゃれ」とかなんであれ、女性を自分の愛玩物として「品定めする行為」は全部セクハラなのである。これには女性の感情とか被害者の告訴とかという要件は一つも必要ではなく、ただ「本人の心の中のみ」で成立する犯罪なのである。女性を「人間以外の何らかの対象として扱うこと」を、私はセクハラだと考えることにした。ではキャバレーのホステスと遊ぶのはセクハラではないのか?と聞かれれば、「相手の人格を尊重すれば」セクハラではない、と答えるであろう(やや難があるが)。要は「自分の心の在り方」次第である。

他人を所有物と考える人間は世の中に大勢いる。自分の会社の社員やコンビニの店員や風俗嬢などは言うに及ばず、女性を(男性に対してもだが)他の女性と比較して「綺麗だとか、ダイナマイトボディだとか」言うのは完全にセクハラだということを、「しっかりと認識して」おこう。そうやって意識して街なかを歩いてみると、すれ違う女性にも「また別の魅力が生まれてくる」ように思えてくるから不思議である。それは「女性を外見で判断するモノの世界」から、一人の人間として「どんな人だろうか」という見方に変わる新しい別の世界が見えてくるのである。私はこれから少しこの考え方で女性と接してみよう、と思っている。

結論「女性は男性の所有物ではない」、これがセクハラの正体である。セクハラ被害を受けた女性の心の内を読み解けば、多分そのような答えが返ってくるのではないかと想像できる。つらつら財務省の福田事務次官のニュースを見ていて、私はそう思えた。


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