明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

志賀島の金印

2018-01-31 22:15:00 | 歴史・旅行
後漢光武帝の金印について、ネットを見てたら「黄當時」という人(中国人?)の説が秀逸なので書き留めてみた。印面の「漢委奴国王」というのは、漢が「委奴」国に与えた金印だ、と説明する。そして委奴とは「大きい(偉大な)委」の意味で、後置修飾語の形式だそうだ。つまり「奴は大きいの意味」で、フランス語などの「名詞+形容詞」の形であるという。例えば「mont blanc」が「白い山」を意味するように、当時の日本を代表する国は「倭+大」=「委奴」という訳だ。中国語で私は東京へ行くというのを「我去東京」と書くのだそうだが、同じように単語の位置が転倒していて「主語ー動詞ー目的語」である。文法が、現代の日本語とは違っているのだ。日本人も昔は中国と同じ文法だったのか、または中国的な文法で言葉を話す部族を「倭」と言っていたのか、それとも相手が中国なので「翻訳して」言ったのかは、今となっては不明である。が、その点を除けば、誠に納得の説明である。ちなみに大和が「大きい和(倭)」であることは、このブログを読んでくださっている皆さんは当然おわかりだろう。読み方は「やまと」ではなく、「だいわ」でなければ意味が通じない。

金印が志賀島で発見されたのは有名だが、偽物という話も当初からある。しかし「金印」である。何のために偽物を作ったのか知らないが、相当な費用がかかったことは確かではないだろう。そんな費用をかけてまで偽物を作る理由は考えられないから、とりあえずは「本物だ」としよう。漢からすれば「金印」を授けるのは相当の意味があって、バカバカ配った訳では無い。紀元57年と記録に残っているから、その当時は日本の宗主国は「委奴国」である。邪馬台国から200年以上も前の九州に、委奴国はあったことになる。その後に邪馬台国が登場するが、委奴国は記録から消えてしまう。魏志倭人伝のある「伊都国」は、字も読みも違うので別の国だろう。旧唐書に「タイ(人偏に妥)国は古の委奴国なり」とあるから、この委奴国は「後漢以来ずっと続いて」いて、今は「タイ国」と名前を替えていることがわかる。当然、場所もそれ程変わらない所にあり、それが「太宰府を中心とした一大王国」を形成していることは「ほぼ確実だ」と言えないだろうか。

では邪馬台国はどうなったのか? 委奴国は邪馬台国と同時代に「別の国として存在した」のだから、北九州以外のどこかにあったことになる。倭国争乱の時、委奴国も「争乱の中に組み込まれていた筈」だから、委奴国に何か勢力争いがあって国力が弱まり、その結果「倭国争乱」が起きて「邪馬台国に取りまとめを依頼した」のではないだろか。卑弥呼が死に、巫女としての信頼がなくなって、また委奴国に権力が戻ってきた。そして5世紀末から6世紀にかけて「倭の五王」が活躍した頃、日本書紀では雄略天皇から継体天皇へと権力移行の時期に当たるが、これが謎だらけの期間である。だが、そもそも「タイ国」が「古の委奴国」であるなら、奈良に「大和=偉大なる倭」という「委奴国を意味する地名」がどうして出来たのだろうか?

日本書紀では、壬申の乱に「倭京」という記述があって、天智天皇の大津京と対比して倭京が使われている。だが奈良には持統天皇の建てた藤原京以外に「京」と呼べるような大きな建物群は存在しないから、倭京という地名が「本当は」どこなのかという疑問が湧いてくる。実は大和という呼び名は後世のもので、日本が倭から権力を奪ったあとに「その事実を隠して、王朝が連綿と続いているように」作り上げた偽名ではないか、というのが私の今の考えである。とにかく大和と言う名前は「奈良時代以前の歴史の中には出てこない」と思って間違いない(違っていたらごめんなさい)。我々現代の人間は「大和朝廷」などと普通に言っているが、正規の歴史書には出てこない単語なんである。

とにかく金印の出たことで、委奴国という大きな国家が日本のどこか(北九州が有力)にあったことは間違いない。それから邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の金印を下賜されて、そして「いつのまにか宗主国はタイ国に戻って」いる。倭の五王は依然として謎のままであるが、日本書紀は「まるっきりのでたらめ」を書いているのではなく、何かの理由があって「実際あったことを全く書かずに隠蔽する」か、「実際あったことを違うことにすり替え」て記述するか、である。何にしても人々の記憶にある事実というのは誤魔化すことは出来ないから、色々な部族の物語を継ぎ接ぎして「あたかも唯一の王朝が太古から現在まで連綿と続いている」という、いわゆる王朝思想に基づいて潤色された歴史書である、というのは「常に覚えておかないといけない」のである。

例えば日本書紀に、継体天皇の治世に「磐井の乱」という事件があり、本当は「継体天皇側は返り討ちにあった」というのが真相らしい。その後に70年ほどして「日出るところの天子」で有名な「天の多利思北孤大王」が記録に出てくるが、その間の繋がりが全く書いてない。その間、倭国の歴史はどうなっているのだろうか。もちろん日本書紀は倭国の存在を隠蔽しているから、これも謎である。この大王は一応聖徳太子ということになってはいるが、いまでは「そんなことを信じている人は誰もいない」状態で、「当時は日本の天皇は推古女帝で、男じゃ無いから別人」というのが「信じられない理由の一つ」であり、他にも一杯あるのだ。さらには一条このみ著の本によれば、「古事記が推古天皇で記述を終わっている」ことからして、奈良の近畿天皇家は「推古女帝で断絶した」とまで言っているのだ。日本の歴史も段々と真実が明らかになってきて、天孫族と熊襲族・出雲族や越族さらには吉備族・尾張族などの諸豪族の戦いが、形を替え場所を移して次々と起こってきた中での「最終的な勝者が桓武天皇の平安朝」だ、という視点を持つ必要がある、と私は考えている。

まず出発点は「志賀島の金印」であることは間違いない。その時の「中国と朝鮮半島」の情勢をも考慮に入れながら「委奴国」「邪馬台国」「タイ国」「倭国」そして「日本」と、それぞれの流れを説明していくことが私の目標である。その流れの中に「天智天皇」と「天武天皇」がある。今回は、話があんまり中身のないものになってしまったが、いま読んでいる本は「今まで読んだ本の数倍の奇想天外な説」を展開しているので、とにかく読んでから報告したい。今年は私の長い人生の中で「古代史元年」と位置づける「本気の年」であるから、なんであろうとも「無茶苦茶に何でも読む」ことにした。先日「八切止夫の日本古代史」というのを「ちょこっと」読んでみた。流石に「余りのトンデモナイ書きっぷりに辟易して」5ページ程で止めたが、それ以外は真面目に読んでいる。今は「解体的復元『古事記』・『日本書紀』第3巻:王権並立の時代と倭の五王」辻清貴著、を読んでいる。長い。しかも「ぶっとび」の内容である。

答えは次回、概略を書くのでお楽しみに。

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