明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

国立西洋美術館のベラスケス

2018-05-18 15:00:00 | 芸術・読書・外国語
上野まで行ってプラド美術館展を見た。いよいよ念願のベラスケスを間近で見るのだと思うと、いやでも気持ちが高ぶってくる。柏から上野まで464円、往復で928円はちと痛い。が、上野の公園口を出る時にはもう頭はベラスケスで一杯になっていた。駅前の信号は既に人混みで溢れんばかり、天気 も昨日とは打って変わって、青空が澄み渡る晴れ晴れとした陽気である。こりゃ外に出かける人も増えるはずだ。私は気分が乗ってくるのを感じながら、NWMつまり国立西洋美術館入り口の門をくぐった。入るとすぐ右手に「ロダンの地獄の門」が建っている。草花や庭木などの中に門だけが切り取られてポツンと建っているが、なんか「しょうもない展示方法」だな、と一瞥しただけで切符売場に向かった。門ていうのは建物や区画があって初めて機能する付帯物なんであって、野っぱらに門だけ作ってどうするんだよ、と突っ込みたくなる。確か「考える人」もあったはずだが見過ごしてしまった、というか全然興味がなくて頭を掠めることもなかった。目的はベラスケスなのである。

入場料は1600円、高いか安いかは結果を見てからである。ちなみに1600円というのは私のよく行くゴルフ練習場の300発分であり、私の時給1850円よりもちょっと安い。最近お気に入りでいつも飲んでいる浦霞の純米吟醸酒とどっこいの値段である。いずれにしても美術館などの文化的価値は中身で決まるわけで、酒でも時給でも理屈は同じ、ダメなものはどんなに安くてもダメなんである、ってまあ当然か。切符の絵柄はベラスケスの「王子の騎馬像」だ。右側からぐるっと回って中に入ると貸しロッカーがあったので荷物を預け、それから女性スタッフが切符を改める場所で半券を受け取った。さあ、ようやくベラスケスとご対面である。

随分と前置きが長くなったが、これは期待してたのと実際は違っていたことの表現だと受け取って欲しい。つまり私は今回の展示についてよくは知らずに入ったのだが、ベラスケスはベラスケスで別の部屋になっているとばかり思っていた。まさか他の画家と一緒に展示されているとは思ってなかったのだ。なんてアホな、とお思いの方も大勢いらっしゃるとは思うが、思い込みというのはそういうものである。てっきりベラスケスの部屋があると思っていた私は、その他大勢の画家達と一緒くたに展示されてるのに面食らってしまった。確かに「プラド美術館展」なのだから間違ってはいない。それにベラスケスを一部屋にしたら、そこだけ大混雑してしまい「見るのに苦労する」のは明らかである。今回展示されているベラスケスは7枚のみというのは知っていたが、7枚見るのに「何部屋も移動しなければならない」とは思っても見なかったのである。美術館側の意図も分からないではないが、私はベラスケスの7枚を同時に見比べて、細かい技法なども見たかったのだが残念だ。出来れば作品は年代順に展示するのが基本だと思うのだが、それもテーマ別の展示方法だったのが気に入らなかった。

まあ良い、とにかく見てゆこう。一枚目の「彫刻家の肖像」は入ってすぐ最初に飾られていた。それで私の感想はといえば、「まるで生き写し」の一言である。それはもう絵であることを超越していて、「そこに彼がいる」としか言えないのだ。彼はこちらを向いて私を見ている彫刻家を描いているのだが、衣装や手に持つヘラや背景その他製作中の彫像に至るまで、すべてが脇役として意識からぼんやり遠のいていき、私は「彼の目に吸い寄せられるように焦点があってしまい」、1対1で彼と対面しているかのような錯覚すら覚えるほどに「臨場感」が半端ないのである。彫刻家のポーズが「何気ない一瞬」を捉えていることも関係あるのかもしれない。とにかく「額縁が窓になっていて、窓から別室を見る」ごとくにこちら側と絵の向こうとが「一体となってつながっており、全く違和感が無い」のだ。それは見たままに描かれているというだけでは表現不足で、私の目は「それが絵であるか本物であるかを判別すらできない」と言ったほうが正確である。まさにベラスケスが「画家の王」と言われる由縁である。

彼が1660年に亡くなった後、18世紀に復権を果たすまで正当に評価されていなかったというのには、スペイン王に仕えた宮廷画家という閉ざされた世界で生きていたというのもあるかもしれない。いずれにしてもベラスケスの絵は「対象の何気ない一瞬を捉えて、究極なまでにあるがまま見えるがままに描く」手法の最高到達点であることは間違いない。そして彼の絵は「絵の題名や意味すら」必要としない、圧倒的な存在感で見るものの目に迫ってくる。

しばらく食い入るように画面を見回してから、順番にほかの作品を見て回った。やはり他の画家達とはベラスケスはどこかが違う。他の画家達は絵を描いている。見ている人間は絵を見て「絵を理解」する。絵に描いてあるものを一旦頭で理解して「顔だとか鼻だとか顎だとかを認識した上で再構成」しているのだ。つまり見ているのは目から入ってくる情報を細かく分析して再配置し、再構成した画像を「改めて脳内で見ている」のである。だから実際に描いてあるはずの対象の細部は、脳の取捨選択の機能のフィルターを通して再構成された結果だけが取り込まれて「脳内の視神経によって画像処理され」て、見るもの一人ひとりの「違った画像」として理解される。絵画は一般的には、画家の意図が表現され見るものに伝わって理解される、というプロセスを取ると思われている。例えば可憐な女性だとか恐ろしい形相の悪魔だとか、画家が表現したい対象がそのとおりに伝わって初めて「いい絵だ」と評価される。ある意味画家は見るものと同じ側に立って「見るものが絵を鑑賞する」ポイントをなぞることで、自分を「鑑賞者と同化する」のである。我々はいわば「画家の描く対象を見ていると同時に、自分の思い描いている対象をみる」ことになるのだ。

だがベラスケスは我々が取捨選択するのではなく「ベラスケスが取捨選択・再構成した人物や風景をそのまま」恐ろしいまでのリアルさをもって描いている。ものの見方を自分の目でなく「画家の目」で見る、という体験を極限までリアルに行うのがベラスケスなのだ。

我々は見ている対象を細かく精密に写真のように見ているわけではない。写真でも「焦点深度を変えることで、ぼかす」事は可能だが、それは単にボケているだけで「情報が簡略化されるわけではない」のである。ベラスケスは脇役の山を描く時、山の位置や形ははっきりと示すが地肌の様子や樹木の生え具合を描きこんでいるわけではない。それらの情報はカメラで映した時には「否応なくレンズの機能として映ってしまう」が、絵画の目的に必ずしも合致しているわけではないのだ。カメラでは必要ないところでも「写ってしまう」のである。それは人間の取捨選択の及ぶ前に「カメラが映してしまう」からであり、出来上がった写真は撮影者の意図するとしないに関わらず「対象そのものを切り取った画像」になっている。だから鑑賞者は写真を見た時に「もう一度初めっから意味づけ」を行い、脳に取り込んで鑑賞せざるを得ない。それは撮影者の撮った写真というよりも、撮影者の写した画像を鑑賞者が解釈して再構成した「鑑賞者の絵」である。鑑賞者が何に興味を持っているかによって、その写真の価値も変わってくる。写真は撮影しただけでは「芸術ではなく素材」でしかないのだ。

ポートレイトという様式は、素材と絵画との違いが出にくい。実際ベラスケスの彫刻家の肖像と並べて他の画家の描いた肖像画があったが見比べると、パッと見にはその違いは分かりにくい。画面には人物の顔以外は黒く背景の中に埋没して、服のヒダも判別できないのでほぼ「顔だけ」の絵である。写真の場合はダーク系の背景に何も写ってなくても「ああ背景なんだな」と認識して終わりである。勿論絵画の場合は微妙な陰影や濃淡で「広がりまたは空気感」を表現する。脇役は脇役の役割があるのだ。だが通常はそんなに脇役を意識するわけではなく、鑑賞者は人物の顔に集中する。そして対象を類似のカテゴリーに分類し特徴を確認する。曰く、鼻が高い・目が大きい・眉の形が太くて短い・唇が厚い等などである。これらの特徴は一度分類して記憶されると二度目からは「記憶したとおりに」思い浮かべるようになる。脳の記憶メモリーに格納されるのは「映像全体ではなく、データ」なのではないかと私は考えている。それが一番「容量を食わないから」である。ただ意識はしていないけれども「記憶はしている」という場合はあるかも知れない。その時に思い出せなくても、何時間かまたは何日かすると「急に思い出すことがある」からだ(これは単に忘れているだけとも言えるが)。

そこで絵を描く時の方法だが、対象を描く時、一つ一つの部分を見たままに描写していくのが普通の描き方であり普通の画家である。だがベラスケスは見るポイントを中心にして「意識が働く度合いに従って、描く内容が薄くなって」くるように描いている。勿論これはポートレイトに限った話ではない。当日の展示は7枚あって、彫刻家・ギリシャの文学者・戦神マルス・少年・カルロス王子騎馬像・東方三博士・そしてフェリペ四世像であるが、皆「一人で描かれていて」群像を描いたものは東方三博士1点だけだった。カラヴァッジョ風のコントラストの際立った群像の中にマリアとキリストが描かれていて、主役は光の中に美しく描かれているが周辺のその他の人達は「暗い闇の中にボーッと浮かんでいる」ように微かに描き分けられているだけである。左上の山と樹木の遠景が少し明るくなっていて「それでこの場所が野外だ」と分かる仕組みになっている程度で、実に控えめだ。だから鑑賞者は誰であろうと「自然と主役のほうに目を向ける」しかない。これがベラスケスの技法の中心にある「固定された実在」である。

鑑賞者はベラスケスを見る時、余りにも完璧に描かれているので「本物」と思ってしまう。だがそれは決して実物ではない。実物のように見えて「あくまでベラスケスに見えている現実」である。鑑賞者は何処からどこまで隈なく絵の隅々まで目をやっても、ベラスケスの意図したもの「以外のもの」は見えないのである。他の画家ではこうはいかない。勿論描かれた絵であるから「作者の意図していないもの」は描かれてはいないのだが、見る人によっては「見えていても見てない」ことはあり得る。ある意味で絵にとって必要でないものや必要以上の無意味な細かさで描かれているために、鑑賞者の方でカットしてしまうので結果として目に入らないのである。また逆に必要なものなのに「描かれていないために」全体がボケてしまうことだってあるのだ。それがベラスケスには全然ない、完璧なのである。なぜそんな事が可能なのかと言うと、それはベラスケスの絵が「彼の脳の中で再構成された画像」のリアルな描写だからである。彼は絵を描く時、彼の「心眼に映る景色」を描いているのだ。だから鑑賞者は「自分のものではない存在=実体」を見ることになる。他の画家の場合は、鑑賞者は「鑑賞者の理解した映像」を見ている。それが違いだ。

以上、ベラスケスの魅力を私なりに解釈したうえでのベラスケス論である。私は国立西洋美術館を出た後に家に帰ってから、Amazonで有名画家の絵画集を検索し、運良く「Amazon読み放題」で何冊かダウンロードした。ベラスケスにカラバッジョとセザンヌである。今日はセザンヌを通しで見てみた。セザンヌは近代絵画の父と言われた画家である。だが共通点はよく分からなかった。ベラスケスの絵の特徴を見るには、レンブラントやフェルメールの方が適しているのは分かっていたが、セザンヌの画家としての時代性に何かベラスケスとの共通点を見ようとしていたのかも知れない。それは結局空振りに終わったが、ベラスケスに限らずプラド美術館所蔵の名画を一挙に数十点も見たのは、私にとって得難い経験であった。

それで感じたことは、美術館に並べて貰えるような画家というのは、「全員が全員、天才である」ということであった。分かりきったことではあるが、私の画才では「とてもとても真似の出来ない技術」が彼等にはあるのだ。しかも20歳そこそこで、である。やはり芸術家というのは「超人」以外の何者でもない。それが分かっただけでも、私にとっては素晴らしい収穫である。出来れば今度はベラスケスの「群像画」(たとえばアラクネなど)を、じっくり見てみたいものである。

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